ハイデガーとハバーマスと携帯電話 (ポスト・モダンブックス) (日本語) 単行本 – 2004/2/28
ジョージ・マイアソン
(著),
武田 ちあき
(翻訳)
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本の長さ126ページ
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言語日本語
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出版社岩波書店
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発売日2004/2/28
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ISBN-104000270710
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ISBN-13978-4000270717
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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
いつでもどこでもあらゆる情報を望みのままに。―猛烈な勢いで進化を続けるケータイの描きだすコミュニケーションの未来像は、コミュニケーションが人間にとってもつ意味を探究した2人の哲学者の目から見たとき、どう捉えられるか?対照的な両者の視点を突きあわせ、ケータイ文化のありようを問い直す。
内容(「MARC」データベースより)
いつでもどこでもあらゆる情報を望みのままにできるケータイは猛烈な勢いで進化し続けている。ケータイが描き出すコミュニケーションの未来像は2人の哲学者の視点から見た時、どう捉えられるか? ケータイ文化の未来を問う。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
マイアソン,ジョージ
ロンドン大学キングズ・カレッジ英文科助教授。文化理論
武田/ちあき
1962年生まれ。お茶の水女子大学大学院博士課程修了。埼玉大学助教授。イギリス文学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
ロンドン大学キングズ・カレッジ英文科助教授。文化理論
武田/ちあき
1962年生まれ。お茶の水女子大学大学院博士課程修了。埼玉大学助教授。イギリス文学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2004/2/28)
- 発売日 : 2004/2/28
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 126ページ
- ISBN-10 : 4000270710
- ISBN-13 : 978-4000270717
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- カスタマーレビュー:
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2018年12月1日に日本でレビュー済み
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題名を読んで少し不純な動機で読み始めた。それはハイデガー=現象学、ハバ―マス=対話的理性に対して筆者は携帯電話をどのように位置づけているのだろう?という動機だ。読み進むにつれて付箋が増えていった。すでに、四半世紀を経ても、いや、経たからこそ、読むべき本だと思う。2004年に和田伸一郎氏の『存在論的メディア論 ハイデガーとヴィリリオ』が新曜社から上梓されたとき、恩師から読むように勧められたまま目次を視てツン読状態なのだが、本書は一気に読了できた。印象のレベルだけど、著者はもの想う人なのだろう。ケータイはコミュニケーションのあり方をより動的なものに変えていく。そこでは、じっくり考える、という身体技法を一変させる技術装置としてケータイが位置づけられ、「理解」をコミュニケーションの基礎と考える著者は悲観的な様子である。私は人々がケータイを使い始め、それが私たちにとっての文字同様、当たり前のメディア・ツールになれば、社会規範と人々の心はそれなりに均衡し、それが当たり前という新たな社会が到来すると考えている。ところで、本書の解説をお書きの大澤真幸氏はすでに「第三者の審級」という概念を作り上げられておられたのだが、「オタク」(文化)について強い警戒感をお持ちの時期もあったけど、身体は社会規範のある社会に所属しているのに、オタク知は社会規範とのアクセスなしで可能な知であることへの漠然とした不安だったのかな、と妙なつながりを感じた。そういえば前出和田氏のご著書の「あとがき」で大澤氏への強い感謝の言葉がある。そうそう、ハイデガーとハバ―マスがケータイの時代に生まれていたらケータイで二人は話をしただろうか?私にはハバ―マスがハイデガーにケータイをかけてもハイデガーは着信スルーしたと思う。理由は特にないけど、、、。ケータイの政治利用についての懸念もあるし、やはり四半世紀たったからこそ読みたい書である。
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2018年9月25日に日本でレビュー済み
今読むと、マイアソンの指摘は決して浅くはない。もちろん、日本の状況においても。つまり、日本人は携帯電話に対して楽観的いやロマンチックであった。それは、のちにガラパゴスという言葉がしっくりきて広まったことからもうかがえるだろう。携帯電話をロマンチックに語って無意識に有り難く利用しているだけだと、当然危険性への感覚も鈍るし、よって対策的な発想も出て来ないし、乗り換えるような技術も生まれない。残念ながら、そうなってしまった。そして、この著書がもつメッセージは理解されず消えていくのだろうか?スマホの時代だからというかもしれないが、そういう表面的な発想ではなく。とにかく、この本を読んでから、スマホ、いやコミュニケーションの難しさを自問自答してほしい。また、思想が時代遅れになるとはどういうことなのかを。ヒューマンとマシーンの根源的な違いを。
以上のことから、大澤真幸の解説は全くの的外れである。おそらく、この本の指摘が本質をついているために、弁解したくなったのだろう。仮想の空間で境界を越えたからといって、それを現実に持ち込めば現実は破壊される。自らの欲望が満たされたと同時に、そのために誰かが傷つき、取り返しのつかない心の傷を負っている。もちろん、互いに良好な可能性を築くこともできる。だが、現在のように欲望を掻き立てる利用がメインの時には、無意識に自らの欲望を美化していまい、他者の一生を自らの欲望の充足のために利用する。これこそが、ハイデガーやハーバーマスの結論である。大澤氏は、もっとマイアソンの論を真摯に理解すべきだったのだ。影響力のある彼の誤った解説がこの本の価値を不当に下げ、結局、スマホやSNSの欲望を美化、正当化する機能が野放しになり、内省や批判的機能が軽視され、弱い立場の誰かが携帯電話から発展したツールのもとで傷つけられている。敢えて言おう、子どもたちをメールやライン等の密室で誠実さの仮面で信頼させ、傷つけることは許されない。学校現場で後を絶たない教師の人権侵害行為をさせないようにしなければならない。将来のある子どもたちのためにも、また、その教師のためにも。
以上のことから、大澤真幸の解説は全くの的外れである。おそらく、この本の指摘が本質をついているために、弁解したくなったのだろう。仮想の空間で境界を越えたからといって、それを現実に持ち込めば現実は破壊される。自らの欲望が満たされたと同時に、そのために誰かが傷つき、取り返しのつかない心の傷を負っている。もちろん、互いに良好な可能性を築くこともできる。だが、現在のように欲望を掻き立てる利用がメインの時には、無意識に自らの欲望を美化していまい、他者の一生を自らの欲望の充足のために利用する。これこそが、ハイデガーやハーバーマスの結論である。大澤氏は、もっとマイアソンの論を真摯に理解すべきだったのだ。影響力のある彼の誤った解説がこの本の価値を不当に下げ、結局、スマホやSNSの欲望を美化、正当化する機能が野放しになり、内省や批判的機能が軽視され、弱い立場の誰かが携帯電話から発展したツールのもとで傷つけられている。敢えて言おう、子どもたちをメールやライン等の密室で誠実さの仮面で信頼させ、傷つけることは許されない。学校現場で後を絶たない教師の人権侵害行為をさせないようにしなければならない。将来のある子どもたちのためにも、また、その教師のためにも。
2006年11月29日に日本でレビュー済み
携帯電話によるコミュニケーションを、ハイデガーやハーバマスの
コミュニケーション理論の観点から批判した著作です。暴力的にまとめてしまうと、
ケータイでのやりとりというのは商業的戦略に取りこまれてしまった
産物である、だからハーバマスが理想とするコミュニケーション的行為
とはかけはなれており、そのことへの注意が必要だ、ということになります。
ハイデガーやハーバマスを結びつけて論じるというのはあまりみたこと
がなく、興味深く読ませていただきました。が、最後まで読んだ後に付いている
大澤真幸の解説が凄い。解説というよりマイアソンの意見に真っ向から
対立するようなことを述べているのですが、正直そちらのほうが説得
力があるように感じました。大澤真幸によれば、ケータイにおいてはコミュニケーション
が純粋な形で現れることが可能であり、一方の手元から相手の手元へと
その距離を完全に消失させつつ交信が行われます。そこではその中身よりも、
コミュニケーションするという形式、つまりお互いに伝え合っていることが
重要になってくるのであり(恋人や友人からメールがすぐに返信されないことに
苛立つなど)、その視点からいえばむしろケータイのコミュニケーションは極めて
純粋なコミュニケーションなのではないかというものです。
そのコミュニケーションのあまりの純粋さゆえに、やはりハーバマス・ハイデガー
双方の思想からケータイのコミュニケーションは批判されるであろう、と大澤
は述べます。自分の実感からいうと、むしろ大澤の指摘のほうが重要なのではないか
と思いましたが、マイアソン・大澤の両方の視点それぞれ得るものがあるかと思います。
なお脚注で、『コミュニケーション的行為の理論』や『存在と時間』をわざわざ
(たぶんそのままの)英訳のページ表記をしているのですが、邦訳ページ
に当てればいいのにと思います。そのぐらいの手間は省かないでほしかったです。
コミュニケーション理論の観点から批判した著作です。暴力的にまとめてしまうと、
ケータイでのやりとりというのは商業的戦略に取りこまれてしまった
産物である、だからハーバマスが理想とするコミュニケーション的行為
とはかけはなれており、そのことへの注意が必要だ、ということになります。
ハイデガーやハーバマスを結びつけて論じるというのはあまりみたこと
がなく、興味深く読ませていただきました。が、最後まで読んだ後に付いている
大澤真幸の解説が凄い。解説というよりマイアソンの意見に真っ向から
対立するようなことを述べているのですが、正直そちらのほうが説得
力があるように感じました。大澤真幸によれば、ケータイにおいてはコミュニケーション
が純粋な形で現れることが可能であり、一方の手元から相手の手元へと
その距離を完全に消失させつつ交信が行われます。そこではその中身よりも、
コミュニケーションするという形式、つまりお互いに伝え合っていることが
重要になってくるのであり(恋人や友人からメールがすぐに返信されないことに
苛立つなど)、その視点からいえばむしろケータイのコミュニケーションは極めて
純粋なコミュニケーションなのではないかというものです。
そのコミュニケーションのあまりの純粋さゆえに、やはりハーバマス・ハイデガー
双方の思想からケータイのコミュニケーションは批判されるであろう、と大澤
は述べます。自分の実感からいうと、むしろ大澤の指摘のほうが重要なのではないか
と思いましたが、マイアソン・大澤の両方の視点それぞれ得るものがあるかと思います。
なお脚注で、『コミュニケーション的行為の理論』や『存在と時間』をわざわざ
(たぶんそのままの)英訳のページ表記をしているのですが、邦訳ページ
に当てればいいのにと思います。そのぐらいの手間は省かないでほしかったです。