ハイエク 知識社会の自由主義 (PHP新書) (日本語) 新書 – 2008/8/18
池田 信夫
(著)
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本の長さ224ページ
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言語日本語
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出版社PHP研究所
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発売日2008/8/18
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ISBN-10456969991X
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ISBN-13978-4569699912
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商品の説明
著者からのコメント
しかし世界の多くの国には、まだ社会主義政権や軍事政権が残っています。日本でも、19世紀的な温情主義(パターナリズム)が流行の兆しをみせています。それは社会主義がなぜ間違えたのかを、私たちがまだ十分に理解していないからです。
ハイエクの擁護した自由主義とは、いわゆる「自由放任」ではありません。むしろ自由な社会を守るためには、国境を超えて普遍性をもつ法制度を設計することが重要であることを、晩年の彼は強調しました。インターネットの拡大は、そうした「普遍的な法」の設計という巨大なテーマを21世紀に残したような気がします。
内容(「BOOK」データベースより)
抜粋
しかし戦間期のウィーンでは、芸術の分野でほとんど奇蹟的ともいえる成果が花開いた。シェーンベルク、ベルク、ウェーベルンなどの新ウィーン楽派は、西洋音楽の基本構造である調性を否定し、一二音などの新しい音階によって作曲する実験を行なった。調性のない不安な音楽は、第一次大戦後の荒廃したウィーンの状況を映し出すとともに、古典派以来つづいた西洋音楽の歴史に終止符を打つものだった。
絵画では、客観的なフォルムを極度にゆがめて不安や葛藤を描く、クリムトやエゴン・シーレなどの表現主義がドイツ、オーストリアで盛んになった。その代表作とされるノルウェイの画家ムンクの「叫び」は、この時代の気分をよく表わしている。ロシアの画家カンディンスキーは、ミュンヘンで表現主義から抽象絵画へと進み、フォルムそのものを破壊した。
ウィーンは、科学の分野でも二〇世紀の方向を決めるような重要な発見を生み出した。シュレーディンガーが波動方程式を発見し、量子力学の基礎を築いたのはウィーンである。同じ時期、ドイツでもハイゼンベルクが不確定性原理を独立に発見し、両者は数学的に同一であることをシュレーディンガーが証明した。
敗戦によって混乱と貧困のどん底にあったドイツとオーストリアで、二〇世紀の物理学がほとんど完成されたのは不思議な出来事である。物理学者は、それは時代状況とは無関係な論理的必然だったというだろうが、彼らが数学的に定式化した物理的事実は第一次大戦前にすべて発見されていた。量子力学を完成するために必要なのは、実験ではなくアイディアだった。
リチャード・ファインマンは、有名な講義のなかでシュレーディンガー方程式を説明したあと、こう述べている。「どこからこれが得られたのか。どこからでもない。これを諸君の知っていることから導き出すことは不可能である。これはシュレーディンガーの精神から生まれたものである」。すべてを失い、実験もできないウィーンで初めて量子力学は観念として結晶したのだ。
量子力学は、古典力学的な素朴実在論では理解できない。物理量は確率分布としてしかわからないという波動関数や、物質の位置と運動量は一義的には決まらないという不確定性原理は、古典的な物質の実在や因果関係の概念をくつがえすもので、その解釈をめぐる論争は現在まで続いている。その理論が、すべての価値が崩壊した戦間期のウィーンから生まれたのは、おそらく偶然ではない。ウィーンは一九世紀の知的遺産が集まる焦点となり、そこから二〇世紀の新しい文化が生まれた都市だったのである。
ハイエクの思想は、こうした滅びゆく大陸の遺産を受け継ぎ、彼が英米に移住することで新しい世界とまじわってできた、大陸の観念論と英米の経験論の混合物である。それは一見、市場経済を全面的に擁護し、歴史の進歩を信じる明快な理論のようでありながら、その背後には近代の合理主義を攻撃し、人間の「無知」をすべての理論の前提に置く一種の不可知論がある。そこには、すべての価値が崩壊した世紀末のウィーンに生まれ、懐疑主義を貫いて生きた西洋人の像が見える。
著者について
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
1953年京都府生まれ。1978年東京大学経済学部を卒業後、NHKに入社。報道番組の制作に携わり、1993年に退社。1997年慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科博士課程を中退し、同年国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)助教授。2000年GLOCOM教授、2001年経済産業研究所上席研究員を経て、上武大学大学院経営管理研究科教授。学術博士(慶應義塾大学)。日本を代表する人気ブロガーとして積極的な言論活動を展開している(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
登録情報
- 出版社 : PHP研究所 (2008/8/18)
- 発売日 : 2008/8/18
- 言語 : 日本語
- 新書 : 224ページ
- ISBN-10 : 456969991X
- ISBN-13 : 978-4569699912
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経済学だけでなく、法哲学、形而上学をからめてハイエクを説明している。
その説明が幅広いため、読んでてむちゃくちゃ面白い。
著者がケインズを評した「学者というより政治家」という言葉ではっとした。だからケインズの哲学が分かりにくかったんだと。
それに比べてハイエクは純粋思考に一貫性があって理解しやすい。
そのことを教えてくれた良書であった。
こうした主張に対してランゲは、価格には二つの側面があり、取引による交換比率としての機能と、その商品の価値を表す機能であって、その後者の機能は企業内の部門間でつけられる移転価格のようなもので、貨幣による取引は必ずしも必要はなく、あるプロジェクトに帰着される価値がそのコストより高いか低いかみればよいというものである。すると中央当局は自分で計算する必要はなく競り人のように価格を提示して各企業の需要と供給を集計し、一致するまで価格を動かす、こうして貨幣も財産権も必要のない分権的社会主義が可能であることを主張した。これは新古典派経済学によっても証明されている。
この理論は実際上も正しく、軍事目的などのORでこの手法は使われている。例えば作戦で武器と食料と石油が必要である場合、目的関数によってそれらの最適な配分が決められた。つまり基本的にはボトルネックをなくすことである。
またアロー=ドブリューによって、一般均衡の存在が証明された。そして線形計画で求めた解が新古典派の一般均衡と一致することが、フォン=ノイマンによって証明されていたので、社会全体を巨大な線形計画として定義すれば必ず答えは求められると証明された。
そして60年にコルナイが新古典派理論を分権的社会主義に応用して運営するメカニズムを設計し実際に実験を行った。これは線形計画に似た方法で目的関数が決まれば手続きはコンピューターにプログラミングすればよい。しかし結局実験は失敗に終わった。最大の原因は計算を行うための前提となる目的関数が決められなかったことだ。軍事は司令官が順位を決めればよいが、政治家はなにが社会にとって重要かを順位で決めることができない。このようにコルナイの実験は分権的社会主義が現実に不可能であることを証明し、市場社会がいかに膨大な計算を自立分散的に行っているかを明らかにした。
ハイエクはその後ポランニーの暗黙知や個人的知識の理論に傾いていった。ポランニーは客観的知識というのは人間の知的活動の氷山の一角にすぎず、習慣や常識などの言葉にならない暗黙の個人的知識に支えられていると主張した。本源的な知識はこうした身体的な知識であり、それが分節されて言語などの客観的知識となったのである。
37年の論文において主観的均衡と部分均衡と一般均衡というように均衡という概念はその具体的意味を検討すると異なるものであると主張した。まず個人や企業の主観的均衡というのは、例えば家を建てるときに業者を比較しその限界的なコストと利益が一致するところで、均衡が決まると想定できる。しかしこの概念は社会全体にどう適用できるだろうか。完全市場であれば社会を一つのプロジェクトとして主観的均衡と同じように最適解が求められよう。これは経験的な事実を無視して選択の純粋理論である。仮にそういう均衡が存在するにしても人々の行動が経験からどのように学んで行動を修正するか、新しい知識をどうやって得るのか、といった具体的な仕組みがわからなければ選択の純粋理論の均衡に至るすべもない。結局こうした均衡に近づくためには知識の社会的断片が市場での相互作用によってどう伝わり、コーディネートされるかが経済的パフォーマンスで決まる。ハイエクによれば、人々がだれも経済全体についての知識を持っていなければ、個人の自発的な行動によって一定の条件のもとで、全体があたかも一つの計画で作られたような資源の配分が決まることを示せば社会的な心という問題に対する答となるであろうという。つまりハイエクはこの論文で知識の分業という概念を提唱している。この考え方が後に自生的秩序の概念につながっていく。
この洞察は45年の論文で示される。新古典派の理論上ではすべての商品の限界代替率の均等化で均衡解が得られる。しかし実際の社会では完全な情報をすべての人が持つことなどできない。しかし市場経済はそれなりに機能している。ハイエクによれば、合理的な経済秩序の問題にとってはただすべての別々な個人が所有する不完全でまた矛盾する知識の分散された断片として存在していう事実によって正しく決定されているという。与えられた資源の配分という問題だけでなく社会の誰においてもその個人がその相対的な重要性を知っている目的のために彼らに知られている資源の最良の用途をいかに確保するべきかという問題であるという。
こういう観点からみれば価格メカニズムの意味も希少な資源の効率的な配分に止まらず、価格メカニズムで実現される知識の経済性という意味も重要であるということであろう。つまり新古典派のいうところの資源配分の効率性ではなく知識のコーディネーションの効率性に意味があるということである。
最後に人々が持っている情報はきわめて限定的であり、驚くべきはむしろこのようなわずかな情報によって社会秩序が保たれているという事実である。秩序が保たれている要因を市場には見いだせない。市場は世界中にあるが、満足に機能している国は少ない。市場のコーディネーション機能を支えているのはその基礎になっている財産権や慣習法などのルールの体系なのである。
ハイエクの思想を、リバタリアニズムと表現するにはずっと保守的だし、保守というには自由すぎるということで、自由主義と名付けている。
規制されたケインズ主義への反抗であって、すべてを自由にせよと言っているわけではなく、淘汰という自然摂理が自律的に作用するからこそ、頬っておいても問題はない、だからリフレ派はおかしいというロジックに成っている。
このミッシングリンクを除外してインターネット上で話しが進んでいくため、リバタリアニズム全開なのかと疑ってしまいましたが、実際はそうではなく、自由を求めるというよりは、経済活動は民意に任せた方がより良い方向に進むであろうと言う結論を持っていると思える。
彼は経済学マニアではなく、哲学を一通り取り入れて解説している。事に、ハイエクはドイツ人であるので、カントから続くヘーゲルの理論を用いて論述している。
また、共産主義からの脱却が出来たのは、レーガノミクスやサッチャー時代からであり、ほんの30年程度の出来事であって、資本帝国主義社会の異常発達がなされたと思ってもいいかもしれない。
彼の文章には時折断定的な物言いが見られるが、それは間違いであると言ってもいいかもしれない。その失敗・成功というのは今の段階からの歴史的視点であって、500年後からみたら間違いかもしれない。
そして、知識人からしたら正解かもしれないが、非知識人からしたらどうでもいいことかもしれない。
最後に、ジョブズと会ったことも無いのに否定するのは頂けないなと思いながら、現在の光の道の話しに繋がる、無線帯域の適正分配の件、インターネット万能論が展開されるが、ここを読むと2年前から何も変わっていないことが垣間見える。
最後の最後にこう書いてあるのが、面白かった。
「ここでもインターネットという魔物は地上に呼び出され、またたく間に世界を支配してしまったので、好むと好まざるとにかかわらず、後戻りは不可能である。」
ハイエクの自由秩序という考え方が恣意的にインターネットに取り込まれたことではないだろうが、インターネット=魔物という構図が、それだけ不確かだが、驚異的な成長力を人々は恐怖しているのかもしれない。
過去からSFで語られている通り、いずれ知の集合体であるインターネットは自我を持ち始め、我々に変わる新しい生命体になるかもしれない。つまり、我々が取ってきた自由秩序とは新しい生命を生み出すための行為なのかもしれない。
2度目の積読であったが、この書籍は時間を開けて数回読まないと真意を測ることは出来ない、少なくとも私はそう思った。
ハイエクの著作を読む前に一読しておくと、とても役に立つだろう。
ハイエクの論敵であるケインズに関する考察も興味深くおもしろい。
ただ、後半になるにつれハイエクへの礼賛が濃くなりすぎてきて胡散臭くなる。その点は読む側がある程度補完していかなければならないだろう。
著者の池田信夫は日本におけるハイエク研究の優れた人らしい。ググるとブログがウィキペディアより上に来る人。