それまで近世のヨーロッパ学会に通底していた、風光明媚なヘレニズム文化とギリシア思想の生い立ちに疑義を呈し、ホメロス以前の神話的混沌から生まれたギリシア
悲劇にディオニソス信仰の淵源を探った画期的な論文である。「音楽の精神からの・・・」と副題され、同時期、未来派の音楽として視線を集めていたワーグナー体験に勇
を鼓して上梓せられた。近世ヨーロッパをソクラテスを原像とする、アレクサンドリア文化の受け売りと断定したニーチェは、したり顔の教養人がうそぶく品行方正な「ギリシ
ア的快活さ」の偽善を覆すべく、以後常套となる価値転換を試みたのである。処女作より16年後に書かれた「自己批判の試み」なる一文が巻頭を飾るが、順逆の弊を別
にすれば、訳者の言に従って1872年に出版された「悲劇の誕生」本編を先に読み、そのあとで「自己批判の試み」に接したほうが順当である。
そこでは、ニーチェ自身による本編の若書きなるが故の冷笑と、文体の不統一による論旨の韜晦などが省みられ、さらにワーグナー体験の失望へとつづく。悲劇の淵源
に立脚したディオニュソス的感動から遠のき、未来派から後期ロマン派に退化していったドイツ音楽全般に対する絶望がそれである。
この全集では、補則する意味で1870年から72年にいたるニーチェ自身の「ギリシア悲劇についての公開講演」が付いているので、併せ読みながら、一読では解し難いニ
ーチェの根本思想に蠢く告発の動機をさぐるにふさわしい編集内容となっている。
この巻には「遺された著作」編「われわれの教育施設の将来について」という、ニーチェの公開講演が併載されている。
訳者によれば、「悲劇の誕生」が上梓されて間もない、1872年一月から三月までの計五回の連続講演となっていて、ところはバーゼル博物館講堂である。
学会及び世間は「悲劇の誕生」出版直後には何ら反応を示さず、嵐の前の静けさを保っていたようである。ニーチェ自身も疑心暗鬼で、この無反応な仕打ちには痛たまれ
ぬ思いをしたであろう。三百人ほどの会場で、ニーチェは現代の高校や大学における教育制度の批判を皮切りに、広く現状ドイツの官制化しつつある社会情勢に疑義を唱
えている。論文棒読みの味気ない壇上講演とは異なって、ニーチェと思わしきギムナジウムの学生と友人が、深淵な森のなかで哲学者と高弟に出会い、高弟の質問に哲学
者が得々と応える問答形式を採用して、平易な物語的展開のなかで若きニーチェと友人が感化されていく筋書きである。
純粋で素朴、より自然と共存していたギリシア的思考が失われ、19世紀のヨーロッパ、引いてはドイツの古典学一般に関して学芸化し博物館の展示物のような死物と化した
学問の形骸に警鐘を鳴らしている。具体的には、シラー・レッシング・ゲーテ・ヴィンケルマンなどのギリシア学問の先覚者に範を求め、これこそがドイツ的教養の本質と結論
づけている。
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