拝啓、等価交換さま。
あなたは優しく、強い。
10万円を払えば、10万円分の対価をくれる。
10万円分がほしければ、その対価分働けばいい。
あなたはそういう関係を保障する。
絶対に例外はつくらない。
あらゆる人間を、商品を、価値を、平等な数字に置き換える。
あなたはとても優しい。
あなたはとても残酷だ。
世界はあなたに包まれている。
それでうまくやってきたはずだった。
でも、ガタがきている。
ひょっとしたら今までうまくやってきたフリをしていただけかもしれない。
世界はあなたに支配されている。
拝啓、等価交換さま。
今までありがとうございました。
今日、僕らはあなたを卒業しようと思う。
もちろん、引き続きあなたを利用し、
僕らはあなたの中で生きていく。
でも、あなただけしかいない世界ではもう生きていかない。
世界は、人間は、どうしようもなく等価交換の外部を必要とする。
たとえば、今一つしかないように見える現実。
このたった一つの現実に至るまで、
たくさんの物語があり、たくさんの別の「あったかもしれない」現実がある。
でも彼らはみんな殺されてしまった。
それはある意味で、仕方のないことかもしれない。必然だったのかもしれない。
だからせめて、覚えておこうと思う。
彼らがどんな言葉を喋り、どんな感情を抱き、何を残したのか。
今、等価交換が成り立つに至る、それまでの景色を覚えておこうと思う。
それを繰り返す行為の名前は、慰霊。
たとえば、今一組しか接続しないように見えるつながり。
AとBはつながっている。CとDがつながっている。
でもAとCはつながらない。その現実は絶対的に見える。
だから僕らは、与えられたつながりの中で等価交換を行うしかない。
硬直した世界で等価交換を繰り返し、魂をすり減らす。
やるしかない。この道しかない。そう言い聞かせ、窮屈な呼吸を続ける。
でもそれを、疑ってみる。
一つ視点をあげる。様々な角度に新しい言葉をあてがう。
すると、思いもしなかった場所に、つながりの経路が開く。
出会うことのなかったAとCにつながりが生まれ、あなたの世界は少しだけ変貌を遂げる。
それを可能にする行為の名前は、批評。
たとえば、経営と労働、ビジネスの世界。
ビジネスの世界は、約束、契約、つまり等価交換で満たされている。
雇用者と労働者は厳格なルールの元で結びつく。
不正を防ぐため、人間を守るため、何重にも等価交換が張り巡らされる。
それは確かに人を守る。
でもそれだけでは、価値にならない。
組織の存在目的に耳を傾ける。でもそれは就業規則に書いてない。
ふと店員にかけられた「お疲れ様です」の一言で、顧客はもっとそのカフェが好きになるかもしれない。でもそうすることは、店員の義務ではない。
規則にならないこと、義務ではないこと、つまり等価交換の外部に価値が現れる。
だから、等価交換の枠を超え、日常の業務と組織の存在理由は、常に一つの軸で貫かれてなくてはいけない。
そう考え世界を前に進めるスタンスが、運営と制作の一致。
地球はテーマパーク化する。
等価交換は常に正しく、優しく、残酷に、世界を覆っていく。
でもそこに抗いつつも仲良くやっていく、別の可能性もまた存在する。
新しい等価交換への経路を開き、等価交換の外部を志向する。
明日はきっと今日の続きで、今日と同じ世界だけど、その見え方は変えることができる。
その関わり方は、変えることができる。
テーマパーク化する地球 (ゲンロン叢書) (日本語) 単行本(ソフトカバー) – 2019/6/11
東浩紀
(著)
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本の長さ408ページ
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言語日本語
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出版社株式会社ゲンロン
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発売日2019/6/11
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ISBN-104907188315
-
ISBN-13978-4907188313
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商品の説明
著者について
東浩紀(あずま・ひろき)
1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。株式会社ゲンロン創業者。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(1998年、第21回サントリー学芸賞 思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』(2001年)、『クォンタム・ファミリーズ』(2009年、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(2011年)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(2017年、第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『ゆるく考える』(2019年)ほか多数。
1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。株式会社ゲンロン創業者。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(1998年、第21回サントリー学芸賞 思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』(2001年)、『クォンタム・ファミリーズ』(2009年、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(2011年)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(2017年、第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『ゆるく考える』(2019年)ほか多数。
登録情報
- 出版社 : 株式会社ゲンロン (2019/6/11)
- 発売日 : 2019/6/11
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 408ページ
- ISBN-10 : 4907188315
- ISBN-13 : 978-4907188313
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Amazon 売れ筋ランキング:
- 148,646位本 (の売れ筋ランキングを見る本)
- - 164位現代思想
- - 367位哲学・思想の論文・評論・講演集
- - 14,351位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
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カスタマーレビュー
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トップレビュー
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2019年6月25日に日本でレビュー済み
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73人のお客様がこれが役に立ったと考えています
役に立った
2019年12月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
I am not a good reader of Azuma in terms of the understanding of philosophy (rather than Derridian, I’m more Deleuzean, supporting the idea of so called “becoming of life”). However, I learnt a lot from how he was trying to situate his philosophy within the Japanese society after the Fukushima disaster, while considering the global connection actualised through sightseeing. He does not require any sociopolitical praxis like left theorists/activists, so some would say he is a philosopher of status quo like Zizek. However, taking the fact into the consideration that it is true that the “traditional” left thought has been trapped in the malfunction, Azuma’s attitude must be seen as seeking the outside of the capitalism. Hence, it was also interesting to read how he was/will be managing his company, Genron. In terms of the several differences of philosophy, humanity, and capitalist understandings, I cannot give this book 5 stars, but it is good read to think about the thought space in Japan after 2011. Azuma Hiroki has been and will be there.
2019年6月19日に日本でレビュー済み
本書を読み進めていく内に、筆者が「批評」という名で指し示そうとしている理念が、自分の中で少しずつ実像を結んでいくのを実感しました。
現代の世界や日本が極めて深刻な病理を抱える中で、その文体は、読者にわかりやすい特効薬を注入するのではなく、一人ひとりを病の外側へと誘い出し、そこから病そのものが滑稽である様を軽やかに示してくれます。
本書には、昨今の流行りの、そして賢げな人々が求めたがるような、現在の社会制度に対する具体的な改革案などは何一つ記されていません。
しかしながら、本書の真の価値は、そういった性急な思考そのものが一つの症例なのだと、読むことの現場で読者の眼を見開かせてくれる、確かな「哲学」の経験にこそあるのです。
現代の世界や日本が極めて深刻な病理を抱える中で、その文体は、読者にわかりやすい特効薬を注入するのではなく、一人ひとりを病の外側へと誘い出し、そこから病そのものが滑稽である様を軽やかに示してくれます。
本書には、昨今の流行りの、そして賢げな人々が求めたがるような、現在の社会制度に対する具体的な改革案などは何一つ記されていません。
しかしながら、本書の真の価値は、そういった性急な思考そのものが一つの症例なのだと、読むことの現場で読者の眼を見開かせてくれる、確かな「哲学」の経験にこそあるのです。
2019年6月20日に日本でレビュー済み
世界をよりよくしたい。
そうした善意をもつ人は、意外と少なくない。
だがその思いは、逆にしばしば争いを生む。
争いを未然に防ぐためには、話し合いが必要だという。
しかし話し合いの結果、双方のひずみがより明確になり、対立が組織されることもしばしばある。
本書に収録されている「原発の是非と壁」で筆者は、
「原発に賛成にせよ反対にせよ、そこにはひとがいる。原発建設に命をかけるひともいれば、反対運動に命をかけるひともいる。(略)その複雑さを理解せず、科学的あるいは経済的な『いまここ』の合理性だけで結論を出しても、けっして広範な支持を得ることはできない」
と指摘している。
東日本大震災という未曾有の大事件についての語りということもあり、本書中の評論のなかでも、特に切実な言葉であるように感じる。
また筆者は本業(?)の哲学についても、「哲学的知性は人格抜きには定義できないと思う」といっている。「文学者ルソーを無視したところに、ルソーの全体像などない」ともいう。
批評であれ哲学であれ、筆者が言いたいのは、まず全体をよく観察しろという単純なことだと思う。
意見というものは本来、観察の道の終点に置く小さな墓標でしかないはずだ。
東は「批評の再生」をしたいという。
そのためには「十分な知識をもったうえで、現実ときちんと向き合えるひとをまず育てる必要がある」。
こんなことは普通、あたりまえのことだ。
何を今更と思うかもしれない。
だが、再生というからには、東にとって、いま、批評は死んでいる
「十分な知識をもったうえで、現実ときちんと向き合えるひと」が、現在の多数ではない。
少なくとも筆者はそう観察する。
そうした善意をもつ人は、意外と少なくない。
だがその思いは、逆にしばしば争いを生む。
争いを未然に防ぐためには、話し合いが必要だという。
しかし話し合いの結果、双方のひずみがより明確になり、対立が組織されることもしばしばある。
本書に収録されている「原発の是非と壁」で筆者は、
「原発に賛成にせよ反対にせよ、そこにはひとがいる。原発建設に命をかけるひともいれば、反対運動に命をかけるひともいる。(略)その複雑さを理解せず、科学的あるいは経済的な『いまここ』の合理性だけで結論を出しても、けっして広範な支持を得ることはできない」
と指摘している。
東日本大震災という未曾有の大事件についての語りということもあり、本書中の評論のなかでも、特に切実な言葉であるように感じる。
また筆者は本業(?)の哲学についても、「哲学的知性は人格抜きには定義できないと思う」といっている。「文学者ルソーを無視したところに、ルソーの全体像などない」ともいう。
批評であれ哲学であれ、筆者が言いたいのは、まず全体をよく観察しろという単純なことだと思う。
意見というものは本来、観察の道の終点に置く小さな墓標でしかないはずだ。
東は「批評の再生」をしたいという。
そのためには「十分な知識をもったうえで、現実ときちんと向き合えるひとをまず育てる必要がある」。
こんなことは普通、あたりまえのことだ。
何を今更と思うかもしれない。
だが、再生というからには、東にとって、いま、批評は死んでいる
「十分な知識をもったうえで、現実ときちんと向き合えるひと」が、現在の多数ではない。
少なくとも筆者はそう観察する。
2019年7月2日に日本でレビュー済み
本書には「テーマパークと慰霊」(2019年)をはじめ、ここ8年ぐらいの間に雑誌等に発表した評論47本が掲載されている。が、全面的に加筆修正を加えたものが少なくないこともあってか、単なる二次利用とは異なり、味わいのある本に仕上がっている。
巻頭の「テーマパークと慰霊」は、この評論集の序言と位置づけてもよいだろう。
序言は最後にかかれることが多い。実際、この評論の初出は2019年1月25日(電子版雑誌『ゲンロンβ33』)で、47本のうち最新である。
つまり「テーマパークと慰霊」は半年後に出版される単行本でプロローグを飾ることを意識して書かれたのではないかと想像する。
著者は、冒頭でここ数年の自分の仕事を振り返り、「テーマパークと慰霊というふたつの大きな主題があったことに気づく」と述べている。そしてそのふたつを比較して、テーマパーク=明るい、慰霊=暗い、という具合に対照的だと分析している。
「明/暗」以外にも、ふたつの主題には「生/死」「新自由主義的/人文的・権力批判的」「消費社会礼賛/反消費社会的」「保守派/リベラル派」という対照性があるという。
このコントラストはなかなか興味深い。というのは、テーマパークと慰霊というふたつのトピックが漠然としていて一見つかみどころがなさそうでありながら、実はそれぞれに極めて根源的かつイデオロギー的な属性を想起させるキーワードになっているからである。
ともあれ、一読者としては、テーマパークが「公共空間」、慰霊が「フクシマおよびチェルノブイリを含む大災害」から導き出されたキーワードであることさえ押さえておけば、一見難解な哲学者の著作でありながら、われわれの生活圏に密着したテーマを扱っていて、とっつきやすいという意味の良書であることがわかると思う。
巻頭の「テーマパークと慰霊」は、この評論集の序言と位置づけてもよいだろう。
序言は最後にかかれることが多い。実際、この評論の初出は2019年1月25日(電子版雑誌『ゲンロンβ33』)で、47本のうち最新である。
つまり「テーマパークと慰霊」は半年後に出版される単行本でプロローグを飾ることを意識して書かれたのではないかと想像する。
著者は、冒頭でここ数年の自分の仕事を振り返り、「テーマパークと慰霊というふたつの大きな主題があったことに気づく」と述べている。そしてそのふたつを比較して、テーマパーク=明るい、慰霊=暗い、という具合に対照的だと分析している。
「明/暗」以外にも、ふたつの主題には「生/死」「新自由主義的/人文的・権力批判的」「消費社会礼賛/反消費社会的」「保守派/リベラル派」という対照性があるという。
このコントラストはなかなか興味深い。というのは、テーマパークと慰霊というふたつのトピックが漠然としていて一見つかみどころがなさそうでありながら、実はそれぞれに極めて根源的かつイデオロギー的な属性を想起させるキーワードになっているからである。
ともあれ、一読者としては、テーマパークが「公共空間」、慰霊が「フクシマおよびチェルノブイリを含む大災害」から導き出されたキーワードであることさえ押さえておけば、一見難解な哲学者の著作でありながら、われわれの生活圏に密着したテーマを扱っていて、とっつきやすいという意味の良書であることがわかると思う。
2019年6月21日に日本でレビュー済み
最後の「運営と制作の一致」を読んだあと「払う立場」を読み直した。後者では親になったと宣言し前者は親になる難しさを語っている。後者では等価交換の世界について書き、前者はその外部について言及している。後者ではゲンロンはどのようなコンテンツを制作するのかを記し、前者ではそれと同時にゲンロンをどのような組織にするべきなのかを記している。筆者の活動は常に時代にあわせて更新されている。ゲンロン0がまさにその理論としての総決算といえるだろう。この本は批評本としては郵便的不安たちや文学環境論集の続編として、そしてゲンロン0のさきへと読者を導く架け橋となるだろう。
ゆるく考えるのあとがきで小説の執筆について言及している。あるイベントで著者は次に(私)小説を書くときは新しい自分を見つけたときですね、と語っていた。払う立場と運営と制作の一致をもう一度読み直してみて作家としての新しい東浩紀について思いをめぐらしている自分がいた。
ゆるく考えるのあとがきで小説の執筆について言及している。あるイベントで著者は次に(私)小説を書くときは新しい自分を見つけたときですね、と語っていた。払う立場と運営と制作の一致をもう一度読み直してみて作家としての新しい東浩紀について思いをめぐらしている自分がいた。