哲学者は、世間から迫害される。それは、哲学者が倫理的なことを
優先するのに対し、世間の普通の人たちは自分達の生活の事や
暮らしを存続することにしか関心がなく、そもそも倫理という
価値座標自体を持たないからだ。
倫理的な衝動に迫られて、ただ生きるのではなく、よく生きる
ことが大切だという考えを若い人に流布させたソクラテスも、
世間の人から見れば、毎日きちんと生活していた(何の疑問も
持たずに)、若い人たちに訳の分からない流言を吹き込んで堕落
させたとしか映らない。哲学者の高邁な理念など、世間の人には
評価する価値座標そのものがないのだし、自分達と違う存在に
対する畏れや嫉妬といったネガティブな感情を招きかねない。
倫理的に素晴らしいことをした筈の実存が死刑に処されるのも
構造的にはそういうことだ。
キリストも、神殿を強盗の巣にしてしまったと云って、私利私欲
で商売する人達を追い出す場面が聖書にあるが、彼は倫理的なこと
で怒っているのに、世間の人たちにはそれが伝わらず、単に
キリストが暴れている、俺達のいつもの暮らしを乱している危険
人物だという評価にしかならない。そういう意味で2人が処刑
されるに至る過程は非常によく似ている。
ただ、唯一の救いは、ソクラテスが自分の死を受け入れて、自分の
人生に納得した上で死んでいくことだろう。倫理という価値座標を
持って生きることは、精神的満足というファクターを大事にしながら
生きるということでもある。世間の普通の人達は、現代のホスピスに
勤める人等から聴ける話によると、殆どの人は死にたくない、と
言いながら、ジタバタして死んでいく人が殆どだそうだ。それは、
彼らが生活の事だけが絶対的な問題だという欺瞞に陥り、倫理的な事や
精神的満足が出来ていないからこそ余計に死ぬことが怖いのであって、
ある意味実存は皆、死ぬ時にその人が生きてきた報いを受けるのだろう。
ソクラテスは処刑された。だが、彼は人生に納得してきちんと死んで
いくことが出来た。それに対して、彼を処刑した、世間のほぼ100%
の普通の人は、自分の死を受容できずに生き汚く死んでいっただろう。
死を乗り越えるなどという馬鹿げた考えをしなければ、要は<救済される
もの/されないもの>と言った差異でなく、<自分の人生に納得して
死んでいけるもの/いけないもの>という本当に大切な差異の上で、実は
世間の人に処刑までされた哲学者の側が勝利していると云える。
だから私は、<ただ生きるのでなく、よく生きることが大切だ>という
ソクラテスに共感する。それを大切にする者には、最終的に倫理的
なことが分からない人達と、人生に対する勝利が齎されるだろうからだ。
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