2006年から数年間にわたり話題となった、携帯ブログを発端とする、主に10代から20代の女性読者層に読まれた小説群を「ケータイ小説」とし、その小説の舞台が、現代の郊外社会となっており県や地域、高校や会社など所属する組織等のあらゆる固有名が省かれていること、一方で裏社会や集団暴行、望まれない妊娠など生活の中に潜む暴力的な問題などに主人公が嘖まれること、最終的には主人公が悲劇的な生を受け入れつつも肯定的メッセージを発して終わること、などの共通のいくつかのモチーフを特徴点として挙げている。
そしてその特徴点が、浜崎あゆみの曲の歌詞や、相田みつをの作品群など、「リアル系」とされる他分野の表現モチーフとの共通点があり、またさらには「ギャル文化」とされる階層がケータイ小説の読者層として多くみられている点を出発点に、その文化が実は80年代から90年代後半までの女性ヤンキー雑誌におけるモチーフにまで遡って共通点を明らかにしている。
以上の点から、「ギャル文化」はかつての男尊女卑的な部分を多く付着させていたヤンキー文化と異なるところもありながら、文字表現の需要や読者コミュニティという点で10年前のヤンキー文化との共通点を持つ点で「再ヤンキー化」として理解される。
この本は、ケータイ小説とされる一連の携帯ブログ小説発のベストセラーが、なぜ売れ続けるのか、その点を明らかにしているということになるでしょうか。その意味では、既に「ヤンキー」文化的な文脈でもテキスト消費文化は成立する、もしくはヤンキー的な文字文化の可能性ということを最初から前提していると言えるでしょうね。
総合的にいって非常に読み応えがありましたね。中でも文中に紹介されている児童文学批評家・赤木かん子さんの「リアル系」にたいする読者要望が青少年の間に否定できない事実としてあると言うあたりからケータイ小説の現象につなげてくるあたりは、慧眼ではないでしょうか。ここで言うリアル系とは、ドラッグとかレイプなどの社会問題を取り扱うという点ではかつてはノンフィクションとでも言われていたジャンルに近いと思われがちなんですが、実のところは、メインで取り扱われているのは社会問題の構造ではなく、主人公の主観的なジェットコースター的な生き様の方に表現の関心があり、いわゆる「創作性の複雑さ」にたいするアンチとしての「リアル」であって、その意味ではきわめて主観的ニュアンスの強い作品群のようですね。この系譜にある部分のライトノベルやいわゆるサイコミステリーやホラーなども入ってくるという分析は説得力があるような気がしました。
それと、もう一つコミックのNANAであるとか浜崎あゆみの作品の世界観ですとか、先ほどのリアル系のモチーフともなっているのが、AC=アダルト・チルドレンと言ばれる人々の成育史の表現という点です。そういえばACの問題を様々な分野から現代的な課題として取り上げられてきた時代が90年代中頃とすればちょうど、その後10年後にはケータイ小説の読者層の年齢層の人たちは、ACの問題などをメディアなどで潜在的に吸収してきた層ということになりますもんね。
そして後のヤンキー分析にも引き継がれる観点としての郊外文化やファスト風土化、ショッピングモールでの消費や生活、さらには東京が舞台となっていない点における都市と若者の関係の変化など、そういった点もケータイ小説のベストセラー化に関係しているとしているところは後のマイルドヤンキーの論者にもふまえられていますが、逆にマイルドヤンキー的な文脈で現代でケータイ小説でもいいんですが文字文化の受容は可能なのか、その辺り気になりますね。
見所を三つ:
一つ目は、ギャル文化が実はヤンキー文化にそのルーツを持つのではという点を女性ヤンキー雑誌の分析から明確にする点。
二つ目は、浜崎あゆみと相田みつをがヤンキー雑誌という点でつながる点。
三つ目は、ヤンキー文化というものがすでに成立し、否定できない存在である点をサブカルチャー的な文脈からも積極的に筆者が位置づけようとしていること(かもしれない)。
ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち (日本語) 単行本 – 2008/6/9
速水 健朗
(著)
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本の長さ224ページ
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言語日本語
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出版社原書房
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発売日2008/6/9
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ISBN-104562041633
-
ISBN-13978-4562041633
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商品の説明
出版社からのコメント
ケータイ小説が生まれた背景とその物語世界を丹念に読み解くことで、「語られてこなかったものたち」の文化を可視化した感動的な批評。これは「戦場のガールズライフ」の物語であると同時に、現代を生きる私達すべての物語です。
内容(「BOOK」データベースより)
ケータイ小説とは、ファストフード化した郊外が舞台で、郊外に住む少女が主人公の、郊外に住む少女たちを主な購買層とする、郊外型ショッピングモール内書店で売られる「新しい文学」である。浜崎あゆみ、NANA、郊外型ショッピングモール、携帯メール…ケータイ小説の誕生の背景と理由にせまると、見えてきたものは。
著者について
1973年生まれ。フリーランスライター、編集者。コンピュータ雑誌の編集を経てフリーに。音楽、ビジネス、コンピュータなどの分野で執筆活動を行う。著書に『タイアップの歌謡史』(洋泉社新書y)、『自分探しが止まらない』(ソフトバンク新書)、『社内ブログ革命』(日経BP社、共著)などがある。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
速水/健朗
1973年生まれ。石川県出身。フリーランスライター/編集者。コンピュータ雑誌の編集を経てフリーに。音楽、芸能、コンピュータなど幅広い分野で執筆活動を行なう。郊外のショッピングモールとファミレスのフィールドワークがライフワーク(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
1973年生まれ。石川県出身。フリーランスライター/編集者。コンピュータ雑誌の編集を経てフリーに。音楽、芸能、コンピュータなど幅広い分野で執筆活動を行なう。郊外のショッピングモールとファミレスのフィールドワークがライフワーク(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
登録情報
- 出版社 : 原書房 (2008/6/9)
- 発売日 : 2008/6/9
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 224ページ
- ISBN-10 : 4562041633
- ISBN-13 : 978-4562041633
-
Amazon 売れ筋ランキング:
- 651,900位本 (の売れ筋ランキングを見る本)
- - 1,143位文学理論
- - 65,256位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
カスタマーレビュー
5つ星のうち3.8
星5つ中の3.8
13 件のグローバル評価
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2008年11月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ケータイ小説論はたくさん出ているようだが、そもそもサブカルチャーに造詣が深くない人が「文学か?」などと分析しても、全く意味を持たない。テキスト論としてはそれもあり得るのだとは思うが、今急に「若者文化」に接して驚いているような評論では、読んでも仕方がない。やはり、これだけ十代の少女に蔓延しているからには、正しく「少女文化の歴史」の中で吟味することが最低限必要だと思う。
その点著者は1989年の山根一眞『変態少女文字の研究』から宮台真司、大塚英志、東浩紀、土井隆義らの評論もきちんと視野に入れている。その上で浜崎あゆみと尾崎豊の違い、『ティーンズロード』などの雑誌やマンガ『ホットロード』『NANA』『頭文字D』などを例に、ヤンキー文化(郊外型、地元つながり、コミュニケーション依存、DV傾向)について分析を試みる。そこから、「不幸自慢のインフレスパイラル」としての「自分語り」であるケータイ小説の性格が露わになる。
もちろんこれだけで全てを語ることはできないだろうが、「ヤンキー文化と相性のいい相田みつを」など、独自の視点がなかなか説得力があり、面白かった!!
その点著者は1989年の山根一眞『変態少女文字の研究』から宮台真司、大塚英志、東浩紀、土井隆義らの評論もきちんと視野に入れている。その上で浜崎あゆみと尾崎豊の違い、『ティーンズロード』などの雑誌やマンガ『ホットロード』『NANA』『頭文字D』などを例に、ヤンキー文化(郊外型、地元つながり、コミュニケーション依存、DV傾向)について分析を試みる。そこから、「不幸自慢のインフレスパイラル」としての「自分語り」であるケータイ小説の性格が露わになる。
もちろんこれだけで全てを語ることはできないだろうが、「ヤンキー文化と相性のいい相田みつを」など、独自の視点がなかなか説得力があり、面白かった!!
2008年9月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ケータイ小説がヒットするバックグラウンドを「ヤンキー」「郊外化」
「マンガ」「浜崎あゆみ」「メール」などのキーワードから解明していくノンフィクション。
ところどころ「なるほど」とうなずくような部分もあるのだが、
全体としてはメリハリがなく、結局なにが言いたいのかよう分からなかった。
「上京に憧れない若者達が増えているが、それが地元の共同体の復活になる」とか
「クリエイターを夢見てアルバイトを続ける若者は非正規社員を好む企業の需要と一致している」
といった考察は非常に鋭く、同感だ。
しかし、著者はケータイ小説を読む若者達やそれをヒットさせた環境を
世間に知らしめることには成功しているが、それが何なのか、結論が出ていないように思う。
結論は皆さんで考えてくださいということなのかも知れないが、
なんとなく尻切れトンボの感を否めない。
また、かなりの手間をかけてケータイ小説を分析したり、郊外の取材等をしている位なのだから、
ケータイ小説の読者である少女達のインタビュー等も入れればもっとメリハリのある内容になったように思う。
「マンガ」「浜崎あゆみ」「メール」などのキーワードから解明していくノンフィクション。
ところどころ「なるほど」とうなずくような部分もあるのだが、
全体としてはメリハリがなく、結局なにが言いたいのかよう分からなかった。
「上京に憧れない若者達が増えているが、それが地元の共同体の復活になる」とか
「クリエイターを夢見てアルバイトを続ける若者は非正規社員を好む企業の需要と一致している」
といった考察は非常に鋭く、同感だ。
しかし、著者はケータイ小説を読む若者達やそれをヒットさせた環境を
世間に知らしめることには成功しているが、それが何なのか、結論が出ていないように思う。
結論は皆さんで考えてくださいということなのかも知れないが、
なんとなく尻切れトンボの感を否めない。
また、かなりの手間をかけてケータイ小説を分析したり、郊外の取材等をしている位なのだから、
ケータイ小説の読者である少女達のインタビュー等も入れればもっとメリハリのある内容になったように思う。
2008年8月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
今の若者や社会の実態を知ることができるのでは、と期待して本書を読み始めた。
しかし、まったくの期待はずれだった。
本書の基本的な問題は、本書の著者がケータイ小説にもその読者にも、
理解しようという姿勢や共感をほとんど示していないことである。
本書には、浜崎あゆみの歌との関連や、読者が地方郊外に多く東京にあこがれを持たない、
など著者の知識の広さや発想の豊かさを感じさせる論考もある。
しかし、そうした論考も十分な検証が行われておらず、
著者の思いつきに過ぎないように私には思える。
こうした本の存在は、ケータイや今の若者・社会について
偏見を広げる結果をもたらすのでは、という懸念を私は抱いている。
しかし、まったくの期待はずれだった。
本書の基本的な問題は、本書の著者がケータイ小説にもその読者にも、
理解しようという姿勢や共感をほとんど示していないことである。
本書には、浜崎あゆみの歌との関連や、読者が地方郊外に多く東京にあこがれを持たない、
など著者の知識の広さや発想の豊かさを感じさせる論考もある。
しかし、そうした論考も十分な検証が行われておらず、
著者の思いつきに過ぎないように私には思える。
こうした本の存在は、ケータイや今の若者・社会について
偏見を広げる結果をもたらすのでは、という懸念を私は抱いている。
2008年8月20日に日本でレビュー済み
◆ケータイ小説の特徴
1 回想的モノローグ
2 固有名詞の欠如
3 情景描写の欠如
「実話テイスト、少女の恋愛物語、定番悲劇イベント、ハイテンポ、
すかすか、社会的に正しくない」(米光一成、『國文學』 2008年 04月号)
◆ケータイ小説の文化的背景
浜崎あゆみが書く詞(自分の幼少時代の傷の存在を匂わせ、そこから違う自分を
取り戻そうとする「トラウマ回復」のモチーフが頻出する)の影響が大きく、さらに
時を遡れば、一九八〇年代後半から一九九〇年代前半にかけてのヤンキー雑誌の
投稿欄的な世界を結び付けることができる。それらを大きく括ると、「ヤンキー文化の影」
ということになるだろう。
そのヤンキー自体は、一九九四年あたりからは一旦、後退の気配を
見せるものの、浜崎あゆみのデビューを機に、再び盛り返すことになる。
一方、「遅れてきたヤンキー」として浜崎あゆみがデビューしたことは、
コギャル全盛に傾きかけた不良少女の分布図を塗り替える出来事でもあった。
これは同時に、不良少女たちの再保守化として見ることもできるかもしれない。
◆雑感
ケータイが我々の生活に深く浸透することで、常に「つながること」へのアディクションが
増幅させられ、結果的に恋人の束縛という形につながっていくという現状があります。
デートDVを繰り返すような暴力男が自分に対して依存することをみずからの
心身の安全よりも貴重だと考えるタイプの女性は、いわゆる共依存に陥っており、
アダルトチルドレン的な性向の持ち主といえます。
彼女たちはそうした関係性が不健全なものだと自覚したとしても、
なかなか解消することはできません。
そんな彼女たちの姿をデフォルメした形で映し出すケータイ小説とは、結局
ケータイによって作られた現代の生きづらさを慰撫する「装置」なのでしょう。
1 回想的モノローグ
2 固有名詞の欠如
3 情景描写の欠如
「実話テイスト、少女の恋愛物語、定番悲劇イベント、ハイテンポ、
すかすか、社会的に正しくない」(米光一成、『國文學』 2008年 04月号)
◆ケータイ小説の文化的背景
浜崎あゆみが書く詞(自分の幼少時代の傷の存在を匂わせ、そこから違う自分を
取り戻そうとする「トラウマ回復」のモチーフが頻出する)の影響が大きく、さらに
時を遡れば、一九八〇年代後半から一九九〇年代前半にかけてのヤンキー雑誌の
投稿欄的な世界を結び付けることができる。それらを大きく括ると、「ヤンキー文化の影」
ということになるだろう。
そのヤンキー自体は、一九九四年あたりからは一旦、後退の気配を
見せるものの、浜崎あゆみのデビューを機に、再び盛り返すことになる。
一方、「遅れてきたヤンキー」として浜崎あゆみがデビューしたことは、
コギャル全盛に傾きかけた不良少女の分布図を塗り替える出来事でもあった。
これは同時に、不良少女たちの再保守化として見ることもできるかもしれない。
◆雑感
ケータイが我々の生活に深く浸透することで、常に「つながること」へのアディクションが
増幅させられ、結果的に恋人の束縛という形につながっていくという現状があります。
デートDVを繰り返すような暴力男が自分に対して依存することをみずからの
心身の安全よりも貴重だと考えるタイプの女性は、いわゆる共依存に陥っており、
アダルトチルドレン的な性向の持ち主といえます。
彼女たちはそうした関係性が不健全なものだと自覚したとしても、
なかなか解消することはできません。
そんな彼女たちの姿をデフォルメした形で映し出すケータイ小説とは、結局
ケータイによって作られた現代の生きづらさを慰撫する「装置」なのでしょう。
VINEメンバー
ケータイ小説の思想的系譜やそれがヒットした社会的背景を詳細に分析した本。対象をよく読み、また関連する事情をよく取材しているな、という印象を受けた。単なる作品批評に終らせず、そこから現在の若い女性(とりわけ郊外の)がおかれている状況をあぶりだしていくという、なかなかお見事な仕事である。
ケータイ小説は浜崎あゆみの歌詞の内容や構造を様々なかたちで反復しており、尾崎豊のような社会反抗型から浜崎のトラウマ内省型の歌詞が受用されやすい時代への変化がそこからは読み取れる。ケータイ小説の「リアル」は、『ティーンズロード』などレディース系の少女雑誌で行われていた投稿文化の延長上で成立しており、読者投稿における事実じゃないだろうと思われる不幸(レイプ、妊娠、恋人の死…)の自慢合戦が、一定の「リアル」が感じられる物語として受用されていたという事実は見逃せない。
あるいは、ケータイ小説では「東京」への憧れがあまり存在しておらず、代わりに地元つながり志向が顕著に見られるが、他方、地元つながり文化においては女性が疎外されがちであるため、その穴を小説がうめているのではないか。また、携帯電話の普及は、コミュニケーション依存型の人格を同時に普及させたが、この「つながり」の圧力は若者の恋愛事情をも根本的に変化させている。総じて恋人間の束縛の強度が高まっており、デートDVも起りやすくなっているのだが、そうした現状を肯定するような物語の展開に関しては、ケータイ小説擁護派の著者もかなり批判的である。
全体としては、ケータイ小説の定着と密接にリンクしたヤンキー文化の復興を冷静に論じようとしており、このヤンキー文化/社会の行く末は今後も引き続き重要な論点になるだろうと痛感した。加えてヤンキー少女に実はかなり人気らしい「相田みつを」の意義も再評価されており、こうした点も含めて、かなり独創的な文化評論の著となっている。おもしろかった。
ケータイ小説は浜崎あゆみの歌詞の内容や構造を様々なかたちで反復しており、尾崎豊のような社会反抗型から浜崎のトラウマ内省型の歌詞が受用されやすい時代への変化がそこからは読み取れる。ケータイ小説の「リアル」は、『ティーンズロード』などレディース系の少女雑誌で行われていた投稿文化の延長上で成立しており、読者投稿における事実じゃないだろうと思われる不幸(レイプ、妊娠、恋人の死…)の自慢合戦が、一定の「リアル」が感じられる物語として受用されていたという事実は見逃せない。
あるいは、ケータイ小説では「東京」への憧れがあまり存在しておらず、代わりに地元つながり志向が顕著に見られるが、他方、地元つながり文化においては女性が疎外されがちであるため、その穴を小説がうめているのではないか。また、携帯電話の普及は、コミュニケーション依存型の人格を同時に普及させたが、この「つながり」の圧力は若者の恋愛事情をも根本的に変化させている。総じて恋人間の束縛の強度が高まっており、デートDVも起りやすくなっているのだが、そうした現状を肯定するような物語の展開に関しては、ケータイ小説擁護派の著者もかなり批判的である。
全体としては、ケータイ小説の定着と密接にリンクしたヤンキー文化の復興を冷静に論じようとしており、このヤンキー文化/社会の行く末は今後も引き続き重要な論点になるだろうと痛感した。加えてヤンキー少女に実はかなり人気らしい「相田みつを」の意義も再評価されており、こうした点も含めて、かなり独創的な文化評論の著となっている。おもしろかった。
2009年2月15日に日本でレビュー済み
ケータイ小説が生み出された背景を、「浜崎あゆみ」「ヤンキー文化」
「ジャスコ化する郊外」等の切り口で展開されており、読みものとして
とても面白かったです。
ケータイ小説を読んでなくても十分楽しめました。
ただし有名ケータイ小説のネタバレ的な要素もあります。
「ジャスコ化する郊外」等の切り口で展開されており、読みものとして
とても面白かったです。
ケータイ小説を読んでなくても十分楽しめました。
ただし有名ケータイ小説のネタバレ的な要素もあります。