クラウゼヴィッツ『戦争論』は、19世紀後半から世界中で読み継がれている古典的名著である。クラウゼヴィッツが遺した草稿が夫人らによって編集・出版された未完の大著であり、近年に至るまで多様な読まれ方をしてきたし、誤解に基づく批判も受けてきた。
本書は、『戦争論』を同時代の文脈に位置付けながらその主要概念を解説し、『戦争論』がその後(誤読を含め)どのように受容・批判されたかを丹念に追い、さらに現代における有用性を論じている。英語圏での受容については既にバスフォード(Christopher Bassford)のClausewitz in Englishがあるが、これをさらに非英語圏での受容にまで視野を広げた点に一つの特徴があると言えよう。
本書は概説的な著作として優れているが、出版社や訳者による位置づけには疑問がある。帯の「『戦争論』解釈に一石を投じた」というのは「観念主義者」と「現実主義者」という二人のクラウゼヴィッツの存在の指摘、また過去の誤読の分析を踏まえた「正しい読み方」の提示を指しているのではないかと思われるが、これらは著者にとってオリジナルの論点ではないのではないだろうか。こうした問題は近年のクラウゼヴィッツ研究者が既に指摘しているし、古くはコーベットも『海洋戦略の諸原則』の中で紙幅を費やして論証している。「『戦争論』解釈に一石を投じた」という表現が相応しいのは、むしろ「『戦争論』は実はほぼ完成形である」と主張するスミダ(J.T. Sumida)のDecoding Clausewitzなのではないだろうか?
翻訳は比較的読みやすいが、芙蓉書房出版から刊行される書籍にしばしば付きものの校正の不備、もう少し訳文を練った方がよいのではないかと思われる箇所も散見される。全体を通して原書と突き合わせて検証したわけではないが、重要な箇所を見る限りやや著者のニュアンスを誤解しているのではないかと思われる点もあり(例えば、本書80頁の冒頭を読むとあたかも研究者が今でもクラウゼヴィッツを誤読しているかのような印象を受けるが、原書p.43ではそのような表現はない。時制の誤訳だろうか?)、引用する際には原書にも当たった方がよいかもしれない。また、出版社の都合と思われるが、主要参考文献と索引が省略されているのは入門書としての価値を減らしている。
こうした細かい問題点はありつつも、本書は『戦争論』が出版されてから現在までどのように読まれ、批判され、受容されてきたかを丁寧にまとめるだけでなく、今日においてもこうした古典を読むことの重要性を改めて伝えてくれる優れた概説書であり、日本語で簡単に触れられるようになった意義は大きい。初学者向けの本とは言いづらいが、『戦争論』に一度でも挑戦したことがあり、関連本にも目を通している人にとっては思索を深める上で有益な出発点となるだろう。
無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
クラウゼヴィッツの「正しい読み方」 ー『戦争論』入門ー 単行本(ソフトカバー) – 2017/1/20
『戦争論』解釈に一石を投じた話題の入門書Reading Clausewitzの日本語版
戦略論の古典的名著『戦争論』は正しく読まれてきたのか?
★従来の誤まった読まれ方を徹底検証し、正しい読み方のポイントを教える
★21世紀の国際情勢を理解するために、クラウゼヴィッツがなぜ有効なのかを論ずる
戦略論の古典的名著『戦争論』は正しく読まれてきたのか?
★従来の誤まった読まれ方を徹底検証し、正しい読み方のポイントを教える
★21世紀の国際情勢を理解するために、クラウゼヴィッツがなぜ有効なのかを論ずる
- 本の長さ400ページ
- 言語日本語
- 出版社芙蓉書房出版
- 発売日2017/1/20
- 寸法15 x 2.1 x 21 cm
- ISBN-104829507039
- ISBN-13978-4829507032
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ: 1 / 1 最初に戻るページ: 1 / 1
商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
『戦争論』解釈に一石を投じた話題の入門書。戦略論の古典的名著の誤まった読まれ方を徹底検証、正しい読み方のポイントを教える。21世紀の国際情勢理解に役立つクラウゼヴィッツの読み方とは?
著者について
ベアトリス・ホイザー Beatrice Heuser
英国レディング大学政治・国際関係学科教授。専門は戦略論や欧州の安全保障体制など。フランスのランス大学で教鞭をとった後に英国ロンドン大学キングス・カレッジの戦争学科で長年教授を務める。ポツダム大学やドイツ国防大学などで教授を歴任した後に現職。オックスフォード大学で博士号(D.Phil)を修了。1961年タイ生まれのドイツ系イギリス人。多言語を操るマルチリンガル。本書の他に北大西洋条約機構の核戦略や冷戦時代の旧ユーゴスラビアの外交史、戦略論の歴史についての本や論文が多数。本書はすでに数カ国後に翻訳されている。
訳者 奥山真司(国際地政学研究所上席研究員) 中谷寛士(英国レディング大学大学院)
英国レディング大学政治・国際関係学科教授。専門は戦略論や欧州の安全保障体制など。フランスのランス大学で教鞭をとった後に英国ロンドン大学キングス・カレッジの戦争学科で長年教授を務める。ポツダム大学やドイツ国防大学などで教授を歴任した後に現職。オックスフォード大学で博士号(D.Phil)を修了。1961年タイ生まれのドイツ系イギリス人。多言語を操るマルチリンガル。本書の他に北大西洋条約機構の核戦略や冷戦時代の旧ユーゴスラビアの外交史、戦略論の歴史についての本や論文が多数。本書はすでに数カ国後に翻訳されている。
訳者 奥山真司(国際地政学研究所上席研究員) 中谷寛士(英国レディング大学大学院)
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
ホイザー,ベアトリス
英国レディング大学政治・国際関係学科教授。専門は戦略論や欧州の安全保障体制など。フランスのランス大学で教鞭をとった後に英国ロンドン大学キングス・カレッジの戦争学科で長年教授を務める。ポツダム大学やドイツ国防大学などで教授を歴任した後に現職。オックスフォード大学で博士号(D.Phil)を修了。1961年タイ生まれのドイツ系イギリス人
奥山/真司
1972年生まれ。カナダのブリティッシュ・コロンビア大学卒業後、英国レディング大学大学院で博士号(PhD)を取得。戦略学博士。国際地政学研究所上席研究員、青山学院大学非常勤講師
中谷/寛士
1988年生まれ。英国バーミンガム大学大学院で修士(MA)取得。現在、英国レディング大学大学院博士候補(ベアトリス・ホイザー教授に師事)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
英国レディング大学政治・国際関係学科教授。専門は戦略論や欧州の安全保障体制など。フランスのランス大学で教鞭をとった後に英国ロンドン大学キングス・カレッジの戦争学科で長年教授を務める。ポツダム大学やドイツ国防大学などで教授を歴任した後に現職。オックスフォード大学で博士号(D.Phil)を修了。1961年タイ生まれのドイツ系イギリス人
奥山/真司
1972年生まれ。カナダのブリティッシュ・コロンビア大学卒業後、英国レディング大学大学院で博士号(PhD)を取得。戦略学博士。国際地政学研究所上席研究員、青山学院大学非常勤講師
中谷/寛士
1988年生まれ。英国バーミンガム大学大学院で修士(MA)取得。現在、英国レディング大学大学院博士候補(ベアトリス・ホイザー教授に師事)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
登録情報
- 出版社 : 芙蓉書房出版 (2017/1/20)
- 発売日 : 2017/1/20
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 400ページ
- ISBN-10 : 4829507039
- ISBN-13 : 978-4829507032
- 寸法 : 15 x 2.1 x 21 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 649,808位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2017年6月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2020年1月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
難解なクラウゼビッツの戦争論を読む前に、当時の時代背景等を理解する手助けとなります。
2022年11月5日に日本でレビュー済み
クラウゼヴィッツの戦争論はいろんな意味で難解であるとよく言われます。
以前挑戦してみましたが、見事に撃沈してから見向きもしませんでしたが、
本書のタイトルに惹かれて読んでみました。
何故難解であるかが丁寧に紐解かれていましたので、
その難解さの理由がよくわかりました。
最も大きな問題は、
観念主義者としてのクラウゼヴィッツと、現実主義者としてのクラウゼヴィッツが、
戦争論という一冊の本の中に同居しており、
現実主義者のクラウゼヴィッツとして全篇を書き換える前に他界してしまったが故に、
理論が混在し、不整合が生じてしまったことです。
これが元になって、
戦争論という同じ本から真逆の記述を引用することができ、
それによって真逆の解釈を成立させてしまうことが可能となり、
クラウゼヴィッツの信奉者の間でさえ戦争に対する考え方で大きな対立を生み出してしまっています。
最悪なのは、
軍事指導者の中で単純・短絡的・野蛮な人間がクラウゼヴィッツを引用すると、
総力戦となってしまい、
実際に第一次世界対戦から第二次世界対戦までその通りになってしまいました。
そして、戦争論を最も深く理解して最大限に活用したのが、
毛沢東という非西洋人であり、国共内戦を戦争論を駆使して勝利したというのも皮肉なものです。
戦争論の利用者の責任ではあるでしょうが、
戦争論を未完のまま世に出したクラウゼヴィッツにも責任があると言われても仕方ないでしょう。
このように戦争論は読み手に都合よく利用されてしまう危険性の高い本だと言えます。
一方で、真摯かつ冷静に戦争論に向き合うことができれば、
「戦争をどの様に考えるべきか」を説くという目的に関して言えば、
クラウゼヴィッツはそれ以前やそれ以降のどの戦略家よりも優れていると著者は述べています。
それ以降についてはよくわかりませんが、それ以前については、簡単に反論できます。
孫子の兵法があります。
クラウゼヴィッツの戦争論と比べてみると、
より一層、体系的・包括的・普遍的・整合的・論理的・道義的・実践的です。
(ご参考:デレク・ユアン氏著「真説ー孫子)」
上記の孫子解説書でも、毛沢東が登場して、孫子の兵法で国共内戦を勝利したとあります。
毛沢東自身は、ヒトラー・スターリン・ルーズベルトと並ぶ20世紀の大悪党ですが、
戦略論を研究する上では重要な人物だと思いますので、
クラウゼヴィッツと孫子の両方からアプローチすると興味深い研究ができるのではないでしょうか。
追記
クラウゼヴィッツの「戦争論」読みました。
戦争の目標は敵の完全な打倒と明確に定義しています。
また、あくまでも戦争のことしか考えていません。
戦争の後に行うべき政治の仕事については全く無視しています。
ですので、この本に従って戦争を行い勝利した後、勝者敗者何れにも平和は訪れません。
孫子の兵法の方が遥かに優れています。
クラウゼヴィッツの戦争論をわかりやすく例えるなら、
捻りのない直線的なハリウッドのアクション映画みたいなものだと言えるでしょう。
クラウゼヴィッツが未だに支持されているのは、理論的優位性というより文化的嗜好性故なのかもしれません。
本書の著者の言い分はわかりますが、クラウゼヴィッツを擁護し過ぎている感じがします。
従って、評価を少し下げます。
追記
念のため、リデル・ハート「戦略論」のまとめの章である、第19〜22章を読んでみました。
私のクラウゼヴィッツに対する所感が間違っていないことが確認できました。
今後、クラウゼヴィッツ信奉者の戦略論は読まないようにしたいと思います。
2018/6/24読了
以前挑戦してみましたが、見事に撃沈してから見向きもしませんでしたが、
本書のタイトルに惹かれて読んでみました。
何故難解であるかが丁寧に紐解かれていましたので、
その難解さの理由がよくわかりました。
最も大きな問題は、
観念主義者としてのクラウゼヴィッツと、現実主義者としてのクラウゼヴィッツが、
戦争論という一冊の本の中に同居しており、
現実主義者のクラウゼヴィッツとして全篇を書き換える前に他界してしまったが故に、
理論が混在し、不整合が生じてしまったことです。
これが元になって、
戦争論という同じ本から真逆の記述を引用することができ、
それによって真逆の解釈を成立させてしまうことが可能となり、
クラウゼヴィッツの信奉者の間でさえ戦争に対する考え方で大きな対立を生み出してしまっています。
最悪なのは、
軍事指導者の中で単純・短絡的・野蛮な人間がクラウゼヴィッツを引用すると、
総力戦となってしまい、
実際に第一次世界対戦から第二次世界対戦までその通りになってしまいました。
そして、戦争論を最も深く理解して最大限に活用したのが、
毛沢東という非西洋人であり、国共内戦を戦争論を駆使して勝利したというのも皮肉なものです。
戦争論の利用者の責任ではあるでしょうが、
戦争論を未完のまま世に出したクラウゼヴィッツにも責任があると言われても仕方ないでしょう。
このように戦争論は読み手に都合よく利用されてしまう危険性の高い本だと言えます。
一方で、真摯かつ冷静に戦争論に向き合うことができれば、
「戦争をどの様に考えるべきか」を説くという目的に関して言えば、
クラウゼヴィッツはそれ以前やそれ以降のどの戦略家よりも優れていると著者は述べています。
それ以降についてはよくわかりませんが、それ以前については、簡単に反論できます。
孫子の兵法があります。
クラウゼヴィッツの戦争論と比べてみると、
より一層、体系的・包括的・普遍的・整合的・論理的・道義的・実践的です。
(ご参考:デレク・ユアン氏著「真説ー孫子)」
上記の孫子解説書でも、毛沢東が登場して、孫子の兵法で国共内戦を勝利したとあります。
毛沢東自身は、ヒトラー・スターリン・ルーズベルトと並ぶ20世紀の大悪党ですが、
戦略論を研究する上では重要な人物だと思いますので、
クラウゼヴィッツと孫子の両方からアプローチすると興味深い研究ができるのではないでしょうか。
追記
クラウゼヴィッツの「戦争論」読みました。
戦争の目標は敵の完全な打倒と明確に定義しています。
また、あくまでも戦争のことしか考えていません。
戦争の後に行うべき政治の仕事については全く無視しています。
ですので、この本に従って戦争を行い勝利した後、勝者敗者何れにも平和は訪れません。
孫子の兵法の方が遥かに優れています。
クラウゼヴィッツの戦争論をわかりやすく例えるなら、
捻りのない直線的なハリウッドのアクション映画みたいなものだと言えるでしょう。
クラウゼヴィッツが未だに支持されているのは、理論的優位性というより文化的嗜好性故なのかもしれません。
本書の著者の言い分はわかりますが、クラウゼヴィッツを擁護し過ぎている感じがします。
従って、評価を少し下げます。
追記
念のため、リデル・ハート「戦略論」のまとめの章である、第19〜22章を読んでみました。
私のクラウゼヴィッツに対する所感が間違っていないことが確認できました。
今後、クラウゼヴィッツ信奉者の戦略論は読まないようにしたいと思います。
2018/6/24読了
2020年5月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
クラウゼヴィッツの戦争論の解説本かと思って購入したのですが、クラウゼビッツの書かれた時代状況や背景の研究論文でした。クラウゼヴィッツの著作の中身は時代研究に必要な引用がなされている程度です。戦争論入門ではなくクラウゼヴィッツ入門が正しいと思います。入門なので戦争論自体の解説はほぼ皆無です。自分の使用目的には合致しませんでしたので低評価にします。
2017年4月8日に日本でレビュー済み
■『戦争論<クラウゼヴィッツ>』という名の女神
「世界で最も有名な未完の彫像」といえばミロのヴィーナス(正式名称:アフロディーテ)でしょう。
1820年のメロス島での発見よりこの神像は、その優美さとその解釈を巡る謎により人々を魅了してやみません。
ルーヴル美術館の公式サイトにはこう解説されています。
「この女神はなぞに包まれており、その仕草もまた解読不可能である。不足する部位と象徴物の欠落は、この彫像の復元と識別を困難にする。そしてその仕草は、様々な憶測を呼び起こした。柱に寄りかかる姿勢、アレスの型に肘を付いている様子、または多様な象徴物を持っている様などがその例である。弓またはアンフォラを持っていたか否かで、これはアルテミスまたはダナイスと推定される。多くのものが、半裸の状態、波型の輪郭の女性らしさ、形の官能性から、この肖像をアフロディーテの彫像と考える。彼女はおそらくパリスの審判を暗示するリンゴ、冠、その反映が映し出された盾または鏡を持っていた。しかしこれはまたミロ島で崇拝されていた海の神、アンフィトリテの可能性もある。」
軍事・戦略の分野においてもミロのヴィーナス像と同様に未完であるがゆえに、様々な憶測をや議論を呼び起こし、未だ人々を魅了し続ける”女神”がいます。
それが『戦争論<クラウゼヴィッツ>』です。
日本では戦略論の分野では『孫子』と並んで最も有名な軍事戦略本の一つに数えられる『戦争論<クラウゼヴィッツ>』ですが、未完であるがゆえに全体の構成もまとまりがなく、また、日本人になじみの薄いフリードリヒ大王戦史やナポレオン戦争を題材にしていることから、「難解」というイメージが定着しており、その知名度のわりに実際に読み込んだ人間は非常に限られているという”いわくつき”の戦略書です。
「知名度のわりに実際には読まれていない」というのは実は日本特有のものではなく欧米諸国においても同じ傾向があるようで、クラウゼヴィッツは”孫引き”のような形で引用されることが多く、直接『戦争論<クラウゼヴィッツ>』を読み込んだ人というのはそう多くないようです。
また、「まとまりがなく、難解だ」というのは専門家も同様であると見られ、クラウゼヴィッツの熱心な信奉者であるコリン・グレイ氏ですら、
「『戦争論』を最初から最後まで読み通すのは、ほぼ不可能であり、これはその知識や、議論の進め方にまとまりがないからだ。ところがそれを拾い読みする読者たちは、どのページをめくっても宝石のような洞察を発見することができる」
と述べています。
とはいえ日本では『戦争論<クラウゼヴィッツ>」は古典(クラシック)と化しており、どちらかといえば「死んだ書物」となっているのと異なり、西洋の戦略論においては「現役の戦略書」という扱いを受けており、いまだ多くの現代の戦略家に大きなインスピレーションを与え続け、議論の中心に座しているのだそうです。
そんな「現役の戦略書」である『戦争論<クラウゼヴィッツ>』の解説書である本書『クラウゼヴィッツの「正しい読み方」』は世界各国の士官学校において、クラウゼヴィッツを理解するための授業の副読本として読まれ、生徒の間でも「概念がよくまとまっている」と評判になっている書です。
内容を大雑把に要約すると、あまり知られていないクラウゼヴィッツの素顔、生涯を振り返りつつ、『戦争論』がどのように解釈されてきたのか、その歴史について述べ、
・当初は観念主義的な思想をベースに書かれていたこと。
・その「欠点」にクラウゼヴィッツ自身が気づき、”現実主義者”の視点で手直しを施しかけたところで急死してしまったこと。
・そのため『戦争論』には”観念主義者としてのクラウゼヴィッツ”と”現実主義者のクラウゼヴィッツ”という二人のクラウゼヴィッツが混在していること。
・軍事・戦略に関する数々の独創的な視点が至るところに提唱されていること。
・未完にも関わらず(むしろそれがゆえに)、至るところに散りばめられた”宝石のような洞察”が独り歩きし、引用され、後世の戦略家たちに誤認、誤訳、誤用されて、時に賛美され、時に批判の対象となってきたこと。
が明らかにされています。
■女神の狂信者
単に知識の上での誤認や誤訳だけならマシだったかもしれませんが、”誤用”となるとその悪弊は甚大なものとなります。特にそれが戦争に関わるものとなれば、どれだけの害悪をもたらすか。
本書において最も批判的に描かれているのは第一次世界大戦前夜の、社会ダーウィン主義の熱にうかされた状態で『戦争論<クラウゼヴィッツ>』を斜め読みした当時の軍人・戦略家たちであるといえるでしょう。
(現代においても”日本は成長しない”、”金融緩和はハイパーインフレを招く”、”政府が破産する”などの誤った認識に基づき、緊縮財政、増税推進など誤った政策を推し進めようとする”自称”専門家のいかに多いことか。)
彼らはダーウィン主義の立場から「戦争は生存や、国家の独立と名誉を守るための、最後の、そして完全に正当化できる手段である。」(byモルトケ)、「戦争は人類の宿命であり、国家にとっての不可避なものだ」(byフォン・デア・ゴルツ)などと称し、「国民の戦争」としての戦争(=いわゆる総力戦)を望むようになり、モルトケにいたっては「絶滅のための戦争」を許容する発言までしたと言われています。
(これらの言葉も「増税は出世や、財務省の独立と名誉を守るための、最後の、そして完全に正当化できる手段である。」(by財務省)、「増税は人類の宿命であり、国家にとっての不可避なものだ」(by財務省誤用学者)と言い換えても意味が通じてしまいますね。)
「戦争における唯一の狙いは、敵軍の群れを殲滅することであった。ところがヨーロッパの主要国では…次第にクラウゼヴィッツの説く数の優位の重要性に気付くようになり、その軍隊の規模は着実に増大し、19世紀の始めには背を向けたもの、つまり国民戦争に回帰することになった。
もちろん大規模な軍隊に反対し小規模のエリート精鋭部隊を求める声もあったのだが、社会ダーウィン主義のおかげで、そのようなアイデアは考慮される余地がなくなってしまった。
社会ダーウィン主義は大規模な軍隊を合理的なものとしたのであり、さらに戦争の勃発を不可避なものと描いてしまったのだ。
戦争は次第に絶対的な観点から捉えられるようになり、この絶対的な形は必然なものに見られるようになったのである。」
(引用終わり)
と語るマンフレッド・ラウヘンシュタイナーの言葉が重く響きます。
「国民戦争」と「殲滅戦」が掛け合わされるとどうなるか。「敵国家(=敵国民族)を殲滅しなければ戦争における勝利はない」という形で結実します。
「民族」の殲滅の最も典型的な例であるユダヤ人の根絶もこの延長線上にあり、ドイツの軍人として有名なルーデンドルフ将軍は
「精神力の強い民族にとって、戦争の決着は戦場においてのみ決せられるものであり、しかもそれは敵の軍隊と敵の国家の殲滅にある」と記したと指摘されています。
このような「絶滅を目指す戦争」というアイデアは「ユダヤ人虐殺」の他にもアメリカのネイティブ・インディアンの扱いや、ベルギーがコンゴの植民地で行った残虐行為、そしてドイツがアフリカで行ったヘレロ・ナマクア虐殺など枚挙に暇がないようです。
※「社会ダーウィン主義の悪弊」については、ちょうど先ごろ書評を書いたばかりの海上知明著『新・環境思想論―二十一世紀型エコロジーのすすめ』でも描かれており、まさかこんなところでリンクしてくるとは、思いのほか意外でしたし、ユダヤ人虐殺に関しては内藤陽介著『アウシュヴィッツの手紙』がおススメです。
■女神を従えさせたければ、打ちのめし、突きとばせ
19世紀の軍人たちのような狂信者にならないためにはどうすべきか-。
本書でクラウゼヴィッツも称賛したと紹介されているマキャヴェリの『君主論』には次のような一節が記されています。
「運命の女神を、一つの破壊的な河川にたとえてみよう。川は怒りだすと、岸辺に氾濫し、樹木や建物をなぎ倒し、こちらの土を掘り返して、向こう岸におく。
(中略)
それでも、平穏なときに、あらかじめ堰や堤防を築いて、備えておくことはできる。
(中略)
同じことは運命についてもいえる。運命は、まだ抵抗力のついていないところで、猛威をふるうもので、堤防や堰ができていない、阻止されないと見るところに、その鉾先を向けてくる。
この例から、運命について、一般にどう対処したらよいのかの議論は、十分に尽くされていると思う。
ところで、さらに細部をつきつめて調べていくと、ある君主がきょうは隆盛をきわめているのに、翌日には、滅んでしまうようなことがよく起こる。その間、この君主の気質やもち味がなんら変化したわけではないというのに。
この理由は、さきにくわしく述べた事情によるものと、わたしは考える。つまり、全面的に運命に依存してしまう君主は、運命が変われば滅びてしまうということ。また、時勢とともに、自分のやり方を一致させた人は成功し、逆に、時代と自分の行き方がかみ合わない者は不幸になるということ、そこにある。
(中略)
それにしても、こうした状勢に即応できる懸命な人間はなかなか見あたらない。
その理由は、人間はもって生まれた性質に傾いて、そこから離れられないからである。もう一つのわけは、ある道を進んで繁栄を味わった人は、どうしてもその道から離れる気がしないということだ。だから、用意周到な人が、いざ果敢にふるまう時勢になると、腕をこまねいて、どうしていいか分からずに、けっきょく破滅してしまう。この人が、時勢と状況に合わせて、気性を変えてさえいれば、運命は変化しなかったにちがいない。
(中略)
さて、結論をくだすとすれば、運命は変化するものである。人が自己流のやり方にこだわれば、運命と人の行き方が合致するばあいは成功するが、しないばあいは、不幸な目を見る。
わたしが考える見解はこうである。人は、慎重であるよりは、むしろ果断に進むほうがよい。なぜなら、運命は女神だから、彼女を征服しようとすれば、打ちのめし、突きとばす必要がある。運命は、冷静な行き方をする人より、こんな人の言いなりになってくれる。」
(引用終わり)
全面的に『戦争論<クラウゼヴィッツ>』に依存し、絶対視してしまった第一次世界大戦の西欧列強は「敵を、敵国民を殲滅しなければならない」という狂信のもと野蛮化の一途をたどりました。
一方で、本書で明らかにされているのはコーベットやリデルハート、あるいは毛沢東など『戦争論<クラウゼヴィッツ>』に批判的な立場をとった者や『戦争論』からインスピレーションを得ながらもそれを昇華・発展させ「新たな戦略」を提唱した者の方がむしろ『戦争論<クラウゼヴィッツ>』の本質を理解していたということです。
■限定戦争、紛争、テロ
『戦争論<クラウゼヴィッツ>』は絶対視し、崇拝すべき対象ではなく、「戦争をどのように考えるべきかという視点を提示した一つのツールに過ぎない」と、打ちのめし、突き飛ばすことによって、むしろ『戦争論<クラウゼヴィッツ>』という女神の”真の価値”が見えてくるのだということを私たちに教えてくる本書。
現在において最も発生頻度の高いと思われるものに限定戦争、紛争、テロがあります。
日本を含む極東においても現に今すぐにでも起こりそうな切実な問題として北朝鮮問題があります。またトランプ政権はアサド政権による化学兵器使用に対する制裁としてシリア空爆を行いました。
本書に掲載されているベトナム戦争、湾岸戦争、ISによるテロなど現実に起きた数々の有事に関する『戦争論<クラウゼヴィッツ>』を引用したクラウゼヴィッツ主義者たちの論考と、エドワード・ルトワック氏の『自滅する中国』、『中国4.0』、コリン・グレイ氏の『現代の戦略』などと併せて読むことで、今のアメリカの戦略家たちは一体何を、どのようなに考えているのか、大国と弱小国が戦った場合どのような影響が考えられるのか、さらに突き詰めるのであれば、朝鮮半島有事が発生した場合「日本はどうすべきか」を考える上で意義があるのではないでしょうか。
おススメです!
「世界で最も有名な未完の彫像」といえばミロのヴィーナス(正式名称:アフロディーテ)でしょう。
1820年のメロス島での発見よりこの神像は、その優美さとその解釈を巡る謎により人々を魅了してやみません。
ルーヴル美術館の公式サイトにはこう解説されています。
「この女神はなぞに包まれており、その仕草もまた解読不可能である。不足する部位と象徴物の欠落は、この彫像の復元と識別を困難にする。そしてその仕草は、様々な憶測を呼び起こした。柱に寄りかかる姿勢、アレスの型に肘を付いている様子、または多様な象徴物を持っている様などがその例である。弓またはアンフォラを持っていたか否かで、これはアルテミスまたはダナイスと推定される。多くのものが、半裸の状態、波型の輪郭の女性らしさ、形の官能性から、この肖像をアフロディーテの彫像と考える。彼女はおそらくパリスの審判を暗示するリンゴ、冠、その反映が映し出された盾または鏡を持っていた。しかしこれはまたミロ島で崇拝されていた海の神、アンフィトリテの可能性もある。」
軍事・戦略の分野においてもミロのヴィーナス像と同様に未完であるがゆえに、様々な憶測をや議論を呼び起こし、未だ人々を魅了し続ける”女神”がいます。
それが『戦争論<クラウゼヴィッツ>』です。
日本では戦略論の分野では『孫子』と並んで最も有名な軍事戦略本の一つに数えられる『戦争論<クラウゼヴィッツ>』ですが、未完であるがゆえに全体の構成もまとまりがなく、また、日本人になじみの薄いフリードリヒ大王戦史やナポレオン戦争を題材にしていることから、「難解」というイメージが定着しており、その知名度のわりに実際に読み込んだ人間は非常に限られているという”いわくつき”の戦略書です。
「知名度のわりに実際には読まれていない」というのは実は日本特有のものではなく欧米諸国においても同じ傾向があるようで、クラウゼヴィッツは”孫引き”のような形で引用されることが多く、直接『戦争論<クラウゼヴィッツ>』を読み込んだ人というのはそう多くないようです。
また、「まとまりがなく、難解だ」というのは専門家も同様であると見られ、クラウゼヴィッツの熱心な信奉者であるコリン・グレイ氏ですら、
「『戦争論』を最初から最後まで読み通すのは、ほぼ不可能であり、これはその知識や、議論の進め方にまとまりがないからだ。ところがそれを拾い読みする読者たちは、どのページをめくっても宝石のような洞察を発見することができる」
と述べています。
とはいえ日本では『戦争論<クラウゼヴィッツ>」は古典(クラシック)と化しており、どちらかといえば「死んだ書物」となっているのと異なり、西洋の戦略論においては「現役の戦略書」という扱いを受けており、いまだ多くの現代の戦略家に大きなインスピレーションを与え続け、議論の中心に座しているのだそうです。
そんな「現役の戦略書」である『戦争論<クラウゼヴィッツ>』の解説書である本書『クラウゼヴィッツの「正しい読み方」』は世界各国の士官学校において、クラウゼヴィッツを理解するための授業の副読本として読まれ、生徒の間でも「概念がよくまとまっている」と評判になっている書です。
内容を大雑把に要約すると、あまり知られていないクラウゼヴィッツの素顔、生涯を振り返りつつ、『戦争論』がどのように解釈されてきたのか、その歴史について述べ、
・当初は観念主義的な思想をベースに書かれていたこと。
・その「欠点」にクラウゼヴィッツ自身が気づき、”現実主義者”の視点で手直しを施しかけたところで急死してしまったこと。
・そのため『戦争論』には”観念主義者としてのクラウゼヴィッツ”と”現実主義者のクラウゼヴィッツ”という二人のクラウゼヴィッツが混在していること。
・軍事・戦略に関する数々の独創的な視点が至るところに提唱されていること。
・未完にも関わらず(むしろそれがゆえに)、至るところに散りばめられた”宝石のような洞察”が独り歩きし、引用され、後世の戦略家たちに誤認、誤訳、誤用されて、時に賛美され、時に批判の対象となってきたこと。
が明らかにされています。
■女神の狂信者
単に知識の上での誤認や誤訳だけならマシだったかもしれませんが、”誤用”となるとその悪弊は甚大なものとなります。特にそれが戦争に関わるものとなれば、どれだけの害悪をもたらすか。
本書において最も批判的に描かれているのは第一次世界大戦前夜の、社会ダーウィン主義の熱にうかされた状態で『戦争論<クラウゼヴィッツ>』を斜め読みした当時の軍人・戦略家たちであるといえるでしょう。
(現代においても”日本は成長しない”、”金融緩和はハイパーインフレを招く”、”政府が破産する”などの誤った認識に基づき、緊縮財政、増税推進など誤った政策を推し進めようとする”自称”専門家のいかに多いことか。)
彼らはダーウィン主義の立場から「戦争は生存や、国家の独立と名誉を守るための、最後の、そして完全に正当化できる手段である。」(byモルトケ)、「戦争は人類の宿命であり、国家にとっての不可避なものだ」(byフォン・デア・ゴルツ)などと称し、「国民の戦争」としての戦争(=いわゆる総力戦)を望むようになり、モルトケにいたっては「絶滅のための戦争」を許容する発言までしたと言われています。
(これらの言葉も「増税は出世や、財務省の独立と名誉を守るための、最後の、そして完全に正当化できる手段である。」(by財務省)、「増税は人類の宿命であり、国家にとっての不可避なものだ」(by財務省誤用学者)と言い換えても意味が通じてしまいますね。)
「戦争における唯一の狙いは、敵軍の群れを殲滅することであった。ところがヨーロッパの主要国では…次第にクラウゼヴィッツの説く数の優位の重要性に気付くようになり、その軍隊の規模は着実に増大し、19世紀の始めには背を向けたもの、つまり国民戦争に回帰することになった。
もちろん大規模な軍隊に反対し小規模のエリート精鋭部隊を求める声もあったのだが、社会ダーウィン主義のおかげで、そのようなアイデアは考慮される余地がなくなってしまった。
社会ダーウィン主義は大規模な軍隊を合理的なものとしたのであり、さらに戦争の勃発を不可避なものと描いてしまったのだ。
戦争は次第に絶対的な観点から捉えられるようになり、この絶対的な形は必然なものに見られるようになったのである。」
(引用終わり)
と語るマンフレッド・ラウヘンシュタイナーの言葉が重く響きます。
「国民戦争」と「殲滅戦」が掛け合わされるとどうなるか。「敵国家(=敵国民族)を殲滅しなければ戦争における勝利はない」という形で結実します。
「民族」の殲滅の最も典型的な例であるユダヤ人の根絶もこの延長線上にあり、ドイツの軍人として有名なルーデンドルフ将軍は
「精神力の強い民族にとって、戦争の決着は戦場においてのみ決せられるものであり、しかもそれは敵の軍隊と敵の国家の殲滅にある」と記したと指摘されています。
このような「絶滅を目指す戦争」というアイデアは「ユダヤ人虐殺」の他にもアメリカのネイティブ・インディアンの扱いや、ベルギーがコンゴの植民地で行った残虐行為、そしてドイツがアフリカで行ったヘレロ・ナマクア虐殺など枚挙に暇がないようです。
※「社会ダーウィン主義の悪弊」については、ちょうど先ごろ書評を書いたばかりの海上知明著『新・環境思想論―二十一世紀型エコロジーのすすめ』でも描かれており、まさかこんなところでリンクしてくるとは、思いのほか意外でしたし、ユダヤ人虐殺に関しては内藤陽介著『アウシュヴィッツの手紙』がおススメです。
■女神を従えさせたければ、打ちのめし、突きとばせ
19世紀の軍人たちのような狂信者にならないためにはどうすべきか-。
本書でクラウゼヴィッツも称賛したと紹介されているマキャヴェリの『君主論』には次のような一節が記されています。
「運命の女神を、一つの破壊的な河川にたとえてみよう。川は怒りだすと、岸辺に氾濫し、樹木や建物をなぎ倒し、こちらの土を掘り返して、向こう岸におく。
(中略)
それでも、平穏なときに、あらかじめ堰や堤防を築いて、備えておくことはできる。
(中略)
同じことは運命についてもいえる。運命は、まだ抵抗力のついていないところで、猛威をふるうもので、堤防や堰ができていない、阻止されないと見るところに、その鉾先を向けてくる。
この例から、運命について、一般にどう対処したらよいのかの議論は、十分に尽くされていると思う。
ところで、さらに細部をつきつめて調べていくと、ある君主がきょうは隆盛をきわめているのに、翌日には、滅んでしまうようなことがよく起こる。その間、この君主の気質やもち味がなんら変化したわけではないというのに。
この理由は、さきにくわしく述べた事情によるものと、わたしは考える。つまり、全面的に運命に依存してしまう君主は、運命が変われば滅びてしまうということ。また、時勢とともに、自分のやり方を一致させた人は成功し、逆に、時代と自分の行き方がかみ合わない者は不幸になるということ、そこにある。
(中略)
それにしても、こうした状勢に即応できる懸命な人間はなかなか見あたらない。
その理由は、人間はもって生まれた性質に傾いて、そこから離れられないからである。もう一つのわけは、ある道を進んで繁栄を味わった人は、どうしてもその道から離れる気がしないということだ。だから、用意周到な人が、いざ果敢にふるまう時勢になると、腕をこまねいて、どうしていいか分からずに、けっきょく破滅してしまう。この人が、時勢と状況に合わせて、気性を変えてさえいれば、運命は変化しなかったにちがいない。
(中略)
さて、結論をくだすとすれば、運命は変化するものである。人が自己流のやり方にこだわれば、運命と人の行き方が合致するばあいは成功するが、しないばあいは、不幸な目を見る。
わたしが考える見解はこうである。人は、慎重であるよりは、むしろ果断に進むほうがよい。なぜなら、運命は女神だから、彼女を征服しようとすれば、打ちのめし、突きとばす必要がある。運命は、冷静な行き方をする人より、こんな人の言いなりになってくれる。」
(引用終わり)
全面的に『戦争論<クラウゼヴィッツ>』に依存し、絶対視してしまった第一次世界大戦の西欧列強は「敵を、敵国民を殲滅しなければならない」という狂信のもと野蛮化の一途をたどりました。
一方で、本書で明らかにされているのはコーベットやリデルハート、あるいは毛沢東など『戦争論<クラウゼヴィッツ>』に批判的な立場をとった者や『戦争論』からインスピレーションを得ながらもそれを昇華・発展させ「新たな戦略」を提唱した者の方がむしろ『戦争論<クラウゼヴィッツ>』の本質を理解していたということです。
■限定戦争、紛争、テロ
『戦争論<クラウゼヴィッツ>』は絶対視し、崇拝すべき対象ではなく、「戦争をどのように考えるべきかという視点を提示した一つのツールに過ぎない」と、打ちのめし、突き飛ばすことによって、むしろ『戦争論<クラウゼヴィッツ>』という女神の”真の価値”が見えてくるのだということを私たちに教えてくる本書。
現在において最も発生頻度の高いと思われるものに限定戦争、紛争、テロがあります。
日本を含む極東においても現に今すぐにでも起こりそうな切実な問題として北朝鮮問題があります。またトランプ政権はアサド政権による化学兵器使用に対する制裁としてシリア空爆を行いました。
本書に掲載されているベトナム戦争、湾岸戦争、ISによるテロなど現実に起きた数々の有事に関する『戦争論<クラウゼヴィッツ>』を引用したクラウゼヴィッツ主義者たちの論考と、エドワード・ルトワック氏の『自滅する中国』、『中国4.0』、コリン・グレイ氏の『現代の戦略』などと併せて読むことで、今のアメリカの戦略家たちは一体何を、どのようなに考えているのか、大国と弱小国が戦った場合どのような影響が考えられるのか、さらに突き詰めるのであれば、朝鮮半島有事が発生した場合「日本はどうすべきか」を考える上で意義があるのではないでしょうか。
おススメです!





