チェコが生んだ非凡にして偉大な指揮者、カレル・アンチェルの伝記や記念ディスクはチェコを中心とするヨーロッパからはそれなりのものがリリースされているが、最初から日本語で書かれた彼の評伝は全く初めての試みで、著者のひたむきな取材と研究、そして熱意に感謝したい。伝記部分は第一章『誕生からプラハ音楽院入学まで』 第二章『学生時代からプラハ放送交響楽団指揮者就任までの歩み』 第3章『暗黒の時代 テレジーンからアウシュヴィッツへ』 第四章『楽壇復帰からチェコ・フィル音楽監督時代』 第5章『トロント交響楽団の音楽監督として』までの123ページで、貴重な写真と共に要領を得た簡潔な文章でアンチェルの生涯が綴られているが、最後に補章『アンチェル再評価の動向・CD一覧』が設けられていて、巻末には70ページに及ぶ壮観な作曲家別ディスコグラフィーが掲載されている。これで彼の全集盤は勿論総ての音源を検索することができる。
僅か21歳の時にヘルマン・シェルヘンのアシスタントとしてハーバの微分音オペラ初演の下稽古を行った逸話は貴重だ。シェルヘンが事実上彼に殆んど総ての仕事を任せていたことが、その後の現代音楽演奏のための修行にもなっている。アンチェル一家がアウシュヴィッツに収容されて家族全員が殺され、奇跡的に彼1人生還を果たしたことは良く知られているが、一般にあまり知られていないエピソードも数多く紹介されている。例えば最初の強制収容所テレジーンでは仲間達とかなり本格的な音楽活動ができたことが興味深い。しかし実際にはナチスのプロパガンダ映画『総統はユダヤ人にひとつの街を贈った』の撮影に利用され、国際赤十字団の視察に当たってヒットラーの政策を正当化するための手段に使われた。だからナチスは彼らがオーケストラを組織し、収容所の中にコンサート・ホールまで新設されるのを黙認していた。この間アンチェルは足りない楽器や人員のためにスコアの編曲やその練習、コンサートのオーガナイズや本番の指揮も受け持っていた。しかしそれが1日12時間の強制労働の余暇に行われたことを考えれば、彼らの音楽への飽き足らない情熱と意志がひしひしと伝わってくる。
戦後の楽壇への復帰も決して順調な道筋ではなかった。ナチスから解放された後もチェコではユダヤ人への差別意識は変わらなかったからだ。チェコ・フィルの首席指揮者はアンチェルの恩師ターリヒの後クーベリックが就任していたが、チェコの共産主義化を嫌って亡命する。首席の選任に当たってはアンチェルとスメターチェクが候補にあがり、両者の演奏後に団員達の投票で決定することになったが、以前協演したオイストラフからの賞賛が文化大臣を動かし、投票なしで彼が首席の地位を得た。ただ当初団員達の眼は冷たく、彼らの信頼を得るためにも尽力しなければならなかったが、最終的にはチェコ・フィルにターリヒ以来の黄金時代をもたらしたのはまさにアンチェルだった。
参考までに本家チェコ・スプラフォンからはアンチェル生誕100周年盤として2008年にDVDがリリースされている。この中ではアンチェル自身がインタビューに応えている場面を挿入した約30分の伝記や、プラハの春音楽祭でのチェコ・フィルを指揮する勇姿も収録されている。
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