本書は”IT doesn’t matter”で名を馳せたニコラス・カー氏によるオートメーション批判の本です。まずこれは第一印象なのですが、邦題がかなり軽い感じの名前になっているため、ビジネス雑誌程度の軽い調子でオートメーションを批判している読み物かと思ったのですが、いざ読み始めるとかなり骨太な本でギャップを感じました(この邦題は著者のキーメッセージを伝えているとはいえ、本の格を落としている気もします)。カー氏は基本的にテクノロジーの負の側面に焦点をあてる、あるいはテクノロジー過信論者を戒めるのがスタイルですが、それは本書でも踏襲されています。かなりの数のインタビューに加えて、アカデミック界の研究成果などもふんだんに参照しているので、簡単に読めるような本ではありませんが、逆にいえば予想外に中味が濃くて満足しました。
本書の主張は邦題通り(オートメーション・バカ)です。技術をオートメーション推進(人間代替)の方向で使っていくと、人間の可能性や能力が衰えていって我々自身の世界の認知能力低下にもつながってしまうので、技術を人間拡張的に用いるべきだ、というのがカー氏のキーメッセージになります。飛行機のオートパイロット機能が人間のパイロットの能力低下につながっていることや、イヌイットがGPS機能つきナビゲーション機器を使って狩をしはじめたら、むしろ狩の能力が低下した、というような興味深い事例が紹介されています。
カー氏の主張はなるほどと思う点も多々ありましたが、本書を読んで強く感じたのは、人間という存在をどう見るかという意味での価値観あるいは視点の対立があるという点です。一方では、カー氏のような人間礼賛型の人々がおり、我々人類の真の進化のためには人間を中心としたテクノロジー社会を目指すべきだと言いますが、他方、人間不信型の価値観を持つ人々がいる。つまり、人間は悪いことをする存在で、人間が関与するから汚職も戦争もあるし、事故も度々起こるのだから、いかに人間を重要な活動領域から排除し機械に任せていくかがユートピア構築への真の道なのだ、という価値観です。つまりテクノユートピア主義者は、裏返すと人間落胆(不信)主義者でもと呼べる存在で、結局は人間をどう見るかの対立だと思いました。私自身はどちらかといえばカー氏のように人間礼賛型なのですが、テクノユートピア主義者の主張もある程度は理解できます。おそらく両者ともにある程度は正しい、ということなのでしょうが、本書を読んでそのあたりを深く考えるきっかけになりました。
オートメーション・バカ -先端技術がわたしたちにしていること- (日本語) 単行本 – 2014/12/25
-
本の長さ336ページ
-
言語日本語
-
出版社青土社
-
発売日2014/12/25
-
ISBN-104791768442
-
ISBN-13978-4791768448
よく一緒に購入されている商品
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ: 1 / 1 最初に戻るページ: 1 / 1
- デジタルで読む脳 X 紙の本で読む脳 :「深い読み」ができるバイリテラシー脳を育てるメアリアン・ウルフ単行本
- プルーストとイカ―読書は脳をどのように変えるのか?ハードカバー
- ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていることニコラス・G・カー単行本
- もうすぐ絶滅するという紙の書物についてウンベルト・エーコ単行本
- クラウド化する世界~ビジネスモデル構築の大転換単行本
- 本を読むときに何が起きているのか ことばとビジュアルの間、目と頭の間ピーター・メンデルサンド単行本
Kindle 端末は必要ありません。無料 Kindle アプリのいずれかをダウンロードすると、スマートフォン、タブレットPCで Kindle 本をお読みいただけます。
Kindle化リクエスト
このタイトルのKindle化をご希望の場合、こちらをクリックしてください。
Kindle をお持ちでない場合、こちらから購入いただけます。 Kindle 無料アプリのダウンロードはこちら。
このタイトルのKindle化をご希望の場合、こちらをクリックしてください。
Kindle をお持ちでない場合、こちらから購入いただけます。 Kindle 無料アプリのダウンロードはこちら。
商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
運転手がいなくても車が走り、パイロットが操縦しなくても飛行機が安全に飛び、さらには、自分の必要としているものも、道徳的な判断さえも、すべて機械が教えてくれる世界。それは一体どんな世界なのか―。ベストセラー『クラウド化する世界』『ネット・バカ』の著者が鮮やかに暴き出す、すべてが自動化する世界のおそるべき真実!
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
カー,ニコラス・G.
著述家。『ガーディアン』紙などでコラムを連載するほか、多くの有力紙誌に論考を発表。テクノロジーを中心とした社会的、文化的、経済的問題を論じる
篠儀/直子
名古屋大学大学院(西洋史学)・東京大学大学院(表象文化論)を満期退学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
著述家。『ガーディアン』紙などでコラムを連載するほか、多くの有力紙誌に論考を発表。テクノロジーを中心とした社会的、文化的、経済的問題を論じる
篠儀/直子
名古屋大学大学院(西洋史学)・東京大学大学院(表象文化論)を満期退学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
登録情報
- 出版社 : 青土社 (2014/12/25)
- 発売日 : 2014/12/25
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 336ページ
- ISBN-10 : 4791768442
- ISBN-13 : 978-4791768448
-
Amazon 売れ筋ランキング:
- 129,787位本 (の売れ筋ランキングを見る本)
- - 141位メカトロ・ロボット工学
- - 942位社会一般関連書籍
- - 5,443位社会学概論
- カスタマーレビュー:
この商品を買った人はこんな商品も買っています
ページ: 1 / 1 最初に戻るページ: 1 / 1
カスタマーレビュー
5つ星のうち4.0
星5つ中の4
20 件のグローバル評価
評価はどのように計算されますか?
全体的な星の評価と星ごとの割合の内訳を計算するために、単純な平均は使用されません。その代わり、レビューの日時がどれだけ新しいかや、レビューアーがAmazonで商品を購入したかどうかなどが考慮されます。また、レビューを分析して信頼性が検証されます。
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
ベスト1000レビュアー
Amazonで購入
9人のお客様がこれが役に立ったと考えています
役に立った
2020年11月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
AIという言葉が嫌いだ。昔からある技術なのでNNとか機械学習というべき、そう思う。そんな話を若者にしたら、「いやぁ、理解できない上司に説明するときは、AIで片付けることがあるのです。」と言われた。なるほど。
そんな時代にこんな本を読む。なかなか面白い。エアバス設計の主幹が、「操作を易しくし過ぎた」と語った挿話は面白かった。
ところで最近はやりのアフォーダンス理論を読むと、NNの学習プロセスやターカーの仕事も変わる気がする。
そんな時代にこんな本を読む。なかなか面白い。エアバス設計の主幹が、「操作を易しくし過ぎた」と語った挿話は面白かった。
ところで最近はやりのアフォーダンス理論を読むと、NNの学習プロセスやターカーの仕事も変わる気がする。
ベスト500レビュアー
「
ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること
」と、この本を連続で読ませていただいた。実はニコラス・G・カーが、警告している内容は「人間」にとって恐ろしく重要なことが書かれているので著者以上に恐怖を覚えています。それゆえにレビューを書くのも、どうしても怖くなったから書きたいという衝動を覚え、一人でこの怖い内容を抱えるくらいなら「共有化」した方が少しは楽になるのではないか?という、情け無い理由(笑)からです。
よく「体で判る」ということを言いますが、この言葉ほど乱暴かついい加減に扱われたものはなく、また言葉以上に重要な秘密を持っているものは、そうないのです。実はこの本で「暗黙知」という用語が頻繁に出てきます。
松岡正剛氏によれば
「暗黙知とは科学的な発見や創造的な仕事に作用した知のことなのである。もっとわかりやすくいえば、思索や仕事や制作のある時点で創発されてきた知が暗黙知なのだ。言いかえるなら創発知とか潜在知とか、さらにわかりやすくしたいのなら、暗黙能とか潜在能と見たほうがいいだろう。しかし、ポランニーは暗黙知を安易には語らなかった。(中略)、ポランニーにとっての暗黙知は「方法」そのものなのである。方法が知識であるような、そのような脈絡が知識にひそんでいることを提言したのである」
(1042夜「暗黙知の次元」 参照「 暗黙知の次元 」)
ニコラス・G・カーも「暗黙知とは、意識の下のほうにあるために取り出せなくなっている知識のことをいうのではない」という松岡正剛氏の指摘していた誤用もあります。けれど方法としての知が、オートメーションによって切り離されているという指摘はさすがに慧眼ではあると思います。
例えば、サン=テクジュペリの名著「 人間の土地 」は、当時のパイロット達に熱狂的に受け入れられ、「共感」を生んだのはなぜか?それは、パイロットが中々言語化出来なかった、恐怖と勇気の裏腹の危うい心情を忌憚無く書いたからだと私は思います。それ故にその秘匿の「身体知」を暴露したことによって、同僚からは反発もあったのは、「そういう体で判るという「秘密の言葉」を語ることへの嫌悪」であったわけですが、一方でそれを綴ることでファンも獲得出来たからです。こういう文章が当時の最先端の現場から生まれたことが大きかったと思います。
また、身体と精神を分けるというデカルト的な二元論が、欧米諸国特有の「文化」によって分断されていたことが、私には大問題に移っていたことは若いころから考えてた「確信」に近いものがありました。それが、このネットの社会、デジタル技術の精緻化とオートメーションによる「身体知」を変容させる、という恐るべき事情はもっと真剣に考える必要があるということを言いたいのです。
職人的な「体性感覚」を暗黙知といいたいのではないです。私は逆に観察すること、自己検証出来ること、言語化できることは徹底的にすべきであるという考えなのです。ルーチンワークから脱出して、新たな創発を自発的に生むことは、恐らく今後もAIには出来ないだろう。それが今後われわれがすべきことかもしれない。
以前、建築に携わる人に、CADを使うことをどう思うのか、と尋ねたことがあり、以下の様に応えてくれました。
「あるパターンにハマる危険性はありますね。もちろん建築家が自分のパターンを持つことはありますが、自分で開発したパターンでなく、ソフトが開発したパターンにハマるということがもしかしたらあるかもしれない」
と述べておられた。そのままのことが、この本に書かれていたのには驚きました(笑)。慧眼です。
ちなみ、この気づきはジャロン・ラニアー「 人間はガジェットではない 」にも同じことが書かれていた。人間がコンピュータとしての道具の「パターン」に支配されるということです。
同じことは、私の勤めている、印刷会社でデザイン制作をしているスタッフにもあって極めて同感なんです。もっとアナログ感覚を取り戻すべきではないか、と思っています。先日ある不動産会社を訪ねたところ、「手描きの方がお客の目に留まってくれるので整然とした、機械的なデザインの方がインパクトが無い」という、衝撃的な話をされ、ぐうの音も出なかったという情け無い経験もしました。デジタルが便利な反面、商品的価値を下げている喜ばしくない事実もあるのです。かといってノスタルジーに浸る気もないのですが、かつての懐かしい触感、手触り感が失われているのは間違いないのはないでしょうか。(2016.1.1読了)
よく「体で判る」ということを言いますが、この言葉ほど乱暴かついい加減に扱われたものはなく、また言葉以上に重要な秘密を持っているものは、そうないのです。実はこの本で「暗黙知」という用語が頻繁に出てきます。
松岡正剛氏によれば
「暗黙知とは科学的な発見や創造的な仕事に作用した知のことなのである。もっとわかりやすくいえば、思索や仕事や制作のある時点で創発されてきた知が暗黙知なのだ。言いかえるなら創発知とか潜在知とか、さらにわかりやすくしたいのなら、暗黙能とか潜在能と見たほうがいいだろう。しかし、ポランニーは暗黙知を安易には語らなかった。(中略)、ポランニーにとっての暗黙知は「方法」そのものなのである。方法が知識であるような、そのような脈絡が知識にひそんでいることを提言したのである」
(1042夜「暗黙知の次元」 参照「 暗黙知の次元 」)
ニコラス・G・カーも「暗黙知とは、意識の下のほうにあるために取り出せなくなっている知識のことをいうのではない」という松岡正剛氏の指摘していた誤用もあります。けれど方法としての知が、オートメーションによって切り離されているという指摘はさすがに慧眼ではあると思います。
例えば、サン=テクジュペリの名著「 人間の土地 」は、当時のパイロット達に熱狂的に受け入れられ、「共感」を生んだのはなぜか?それは、パイロットが中々言語化出来なかった、恐怖と勇気の裏腹の危うい心情を忌憚無く書いたからだと私は思います。それ故にその秘匿の「身体知」を暴露したことによって、同僚からは反発もあったのは、「そういう体で判るという「秘密の言葉」を語ることへの嫌悪」であったわけですが、一方でそれを綴ることでファンも獲得出来たからです。こういう文章が当時の最先端の現場から生まれたことが大きかったと思います。
また、身体と精神を分けるというデカルト的な二元論が、欧米諸国特有の「文化」によって分断されていたことが、私には大問題に移っていたことは若いころから考えてた「確信」に近いものがありました。それが、このネットの社会、デジタル技術の精緻化とオートメーションによる「身体知」を変容させる、という恐るべき事情はもっと真剣に考える必要があるということを言いたいのです。
職人的な「体性感覚」を暗黙知といいたいのではないです。私は逆に観察すること、自己検証出来ること、言語化できることは徹底的にすべきであるという考えなのです。ルーチンワークから脱出して、新たな創発を自発的に生むことは、恐らく今後もAIには出来ないだろう。それが今後われわれがすべきことかもしれない。
以前、建築に携わる人に、CADを使うことをどう思うのか、と尋ねたことがあり、以下の様に応えてくれました。
「あるパターンにハマる危険性はありますね。もちろん建築家が自分のパターンを持つことはありますが、自分で開発したパターンでなく、ソフトが開発したパターンにハマるということがもしかしたらあるかもしれない」
と述べておられた。そのままのことが、この本に書かれていたのには驚きました(笑)。慧眼です。
ちなみ、この気づきはジャロン・ラニアー「 人間はガジェットではない 」にも同じことが書かれていた。人間がコンピュータとしての道具の「パターン」に支配されるということです。
同じことは、私の勤めている、印刷会社でデザイン制作をしているスタッフにもあって極めて同感なんです。もっとアナログ感覚を取り戻すべきではないか、と思っています。先日ある不動産会社を訪ねたところ、「手描きの方がお客の目に留まってくれるので整然とした、機械的なデザインの方がインパクトが無い」という、衝撃的な話をされ、ぐうの音も出なかったという情け無い経験もしました。デジタルが便利な反面、商品的価値を下げている喜ばしくない事実もあるのです。かといってノスタルジーに浸る気もないのですが、かつての懐かしい触感、手触り感が失われているのは間違いないのはないでしょうか。(2016.1.1読了)
2015年2月8日に日本でレビュー済み
本書の内容を一言で言えば、「ルーチンワークとクリエイティビティはそう単純に分割出来ない」という事だと思います。
オートメーション化=人間の仕事を機械・システムによって代替する事のメリットはよく、
「ルーチンワークを機械に代替させる事で、人間は人間にしか出来ない仕事にリソースを割く事が出来る事」だと言われます。
しかし本書は飛行機パイロットや医者、建築家といった事例から、
ルーチンワークの機械化が人間から同時にクリエイティブワーク(創造的仕事だけでなく、人間にしか出来ない仕事全般)の能力も衰退させる事を示唆します。
例えば飛行機のオートパイロット化はパイロットの飛行能力を錆びつかせる(仕事は毎日しないと錆び付くものです)ことで、
システムが想定していないトラブルに陥った場合に、パイロットの危機回避能力が落ちているために、しばしば最悪の事態に陥ると著者は言います。
医者や建築家でも事態は同様で、ルーチンワーク的とみなされていたものがクリエイティビティの基礎である事が示唆されています。
ルーチンワークはクリエイティブワーク能力を育てるためのファクターを含んでいる、それゆえそれらは単純には分割不可能であり、
ルーチンワークなきクリエイティブワークは骨抜きになりかねない、というのが本書のテーマだと思います。
それを乗り越えるために著者は、そういった人間能力を損なわない形での、クリエイティビティを損なわない形での、
もっと人間の行動特性に沿った、クリエイティビティと調和のとれたオートメーション化を提唱します。
しかしそれが実現されるためには、ルーチンワークのどのような要素・ファクターが、人間のクリエイティビティを育てているのか?を
私たちがあらかじめ認識していなくてはなりません。そうでなければそんなシステムは作るどころか発想すら出来ないからです。
しかしそれはそうそう簡単に出来ることではありません。
本書でもクリエイティビティ衰退への心配からシステムを一部廃止した建築家や写真家の事例が語られていますが、
彼らもまた「一度機械化して、しっくりこなかったから、戻した」のです。
つまりその道のプロですらも一度は失敗しないと、
普段のルーチンワークのどの要素がクリエイティブの基礎になっているのか気がつかなかったわけです。
そんな繊細な事を、果たしてシステムの作り手はあらかじめ先回りして予想して、それをシステムとして作るなんて可能でしょうか?
著者も「人間の能力への不安、という曖昧な理由で、この流れが止まるだろうか?」と悲観的なつぶやきを漏らしています。
「人間の能力と調和の取れたオートメーション化」という発想が現実のものとなるためには、
まだまだ私たちは失敗を繰り返さなくてはならないのかもしれません。
オートメーション化=人間の仕事を機械・システムによって代替する事のメリットはよく、
「ルーチンワークを機械に代替させる事で、人間は人間にしか出来ない仕事にリソースを割く事が出来る事」だと言われます。
しかし本書は飛行機パイロットや医者、建築家といった事例から、
ルーチンワークの機械化が人間から同時にクリエイティブワーク(創造的仕事だけでなく、人間にしか出来ない仕事全般)の能力も衰退させる事を示唆します。
例えば飛行機のオートパイロット化はパイロットの飛行能力を錆びつかせる(仕事は毎日しないと錆び付くものです)ことで、
システムが想定していないトラブルに陥った場合に、パイロットの危機回避能力が落ちているために、しばしば最悪の事態に陥ると著者は言います。
医者や建築家でも事態は同様で、ルーチンワーク的とみなされていたものがクリエイティビティの基礎である事が示唆されています。
ルーチンワークはクリエイティブワーク能力を育てるためのファクターを含んでいる、それゆえそれらは単純には分割不可能であり、
ルーチンワークなきクリエイティブワークは骨抜きになりかねない、というのが本書のテーマだと思います。
それを乗り越えるために著者は、そういった人間能力を損なわない形での、クリエイティビティを損なわない形での、
もっと人間の行動特性に沿った、クリエイティビティと調和のとれたオートメーション化を提唱します。
しかしそれが実現されるためには、ルーチンワークのどのような要素・ファクターが、人間のクリエイティビティを育てているのか?を
私たちがあらかじめ認識していなくてはなりません。そうでなければそんなシステムは作るどころか発想すら出来ないからです。
しかしそれはそうそう簡単に出来ることではありません。
本書でもクリエイティビティ衰退への心配からシステムを一部廃止した建築家や写真家の事例が語られていますが、
彼らもまた「一度機械化して、しっくりこなかったから、戻した」のです。
つまりその道のプロですらも一度は失敗しないと、
普段のルーチンワークのどの要素がクリエイティブの基礎になっているのか気がつかなかったわけです。
そんな繊細な事を、果たしてシステムの作り手はあらかじめ先回りして予想して、それをシステムとして作るなんて可能でしょうか?
著者も「人間の能力への不安、という曖昧な理由で、この流れが止まるだろうか?」と悲観的なつぶやきを漏らしています。
「人間の能力と調和の取れたオートメーション化」という発想が現実のものとなるためには、
まだまだ私たちは失敗を繰り返さなくてはならないのかもしれません。
2015年3月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
自動化された「機械」は「機械中心」に設計されていて,人間の特性を無視している. その機械を監視するのは人間にとって苦痛でしかないし,たまに機械がヘマをしでかしたときにうまく対応できるかどうかわからない. この本はそうではなくて「人間中心」でなければならないと主張している. そうすることで人間にとって労働は余暇よりたのしいものになる. この本をこれからも機械中心で機械につかわれる「オートメーション・バカ」がふえるというふうに悲観的に読むこともできるが,「人間中心」に変えればそうでなくなるというふうに読んだ方がよいだろう.
2018年2月8日に日本でレビュー済み
機械化、自動化することが文明だと信じていたし、人間にとっても重労働や煩雑な仕事から解放されるので正しい進化の姿だと思っていた。
しかし、過度のオートメーション化は人間の思考形態をも変化させてしまうようだ。コンピューターやネットワークの進化のスピードが、人間の適応スピードを超えてしまっているのであろう。
極端な話、オートメーション化が進み過ぎると、自分が生きているのか、生かされているのか、はたまた本当に存在しているのかさえ分からなくなってしまいそうだ。
コンピューターやネットワークとの付き合い方を再考する必要があることを教えてくれる良書である。
しかし、過度のオートメーション化は人間の思考形態をも変化させてしまうようだ。コンピューターやネットワークの進化のスピードが、人間の適応スピードを超えてしまっているのであろう。
極端な話、オートメーション化が進み過ぎると、自分が生きているのか、生かされているのか、はたまた本当に存在しているのかさえ分からなくなってしまいそうだ。
コンピューターやネットワークとの付き合い方を再考する必要があることを教えてくれる良書である。