ウイリアム・ウイリス伝―薩摩に英国医学をもたらした男 単行本 – 2019/1/1
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本の長さ435ページ
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出版社書籍工房早山
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発売日2019/1/1
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ISBN-104904701518
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ISBN-13978-4904701515
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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
彼が日本医学の運命を決めたかもしれない!明治維新の立役者アーネスト・サトウの盟友にして大西郷に信頼され、我国医学の運命を決めたかもしれない地位に就きながら独逸派に敗れ、歴史の闇に沈んだ英国人医師の生涯!
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
山崎/震一
1957年千葉県立東葛飾高等学校卒業。1963年日本医科大学卒業。NTT東日本関東病院インターンを経て、1964年日本医科大学第二外科入局、助手。1971年同大学医学博士。1972年山崎外科内科開業。日本外科学会(前)認定医、日本大腸肛門学会、日本消化器内視鏡学会(前会員)、現産業医
森田/隆二
1962年一橋大学商学部卒業。1962年川崎製鉄(現JFE)入社。1997年同社退社(定年)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
1957年千葉県立東葛飾高等学校卒業。1963年日本医科大学卒業。NTT東日本関東病院インターンを経て、1964年日本医科大学第二外科入局、助手。1971年同大学医学博士。1972年山崎外科内科開業。日本外科学会(前)認定医、日本大腸肛門学会、日本消化器内視鏡学会(前会員)、現産業医
森田/隆二
1962年一橋大学商学部卒業。1962年川崎製鉄(現JFE)入社。1997年同社退社(定年)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
登録情報
- 出版社 : 書籍工房早山 (2019/1/1)
- 発売日 : 2019/1/1
- 単行本 : 435ページ
- ISBN-10 : 4904701518
- ISBN-13 : 978-4904701515
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Amazon 売れ筋ランキング:
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- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2019年4月23日に日本でレビュー済み
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戊辰戦争時に英国人の医師が、たとえば西郷従動らの治療に当たったという史実は知っていましたが、その人がウイリアム・ウイリスとはしりませんでした。彼が日本に来たいきさつは複雑なものがあったようですが、まさに日本の近代医学に貢献した筆頭の人であることは間違いないと思います。動乱の時代に日本に貢献してくれたことに感謝したいと思います。その後の日本が昭和時代まで独逸医学一辺倒になったことを考えると、英国医学が主流であったら、また別な発展があったのではないかと、つくづくと思いました。
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役に立った
2019年5月6日に日本でレビュー済み
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明治期維新前後に来日し、日本に西洋医学を伝えた医師の一人である英国人医師ウイリスの伝記である。しかし、ウイリスだけではなく、当時の諸事情も明らかにしている。興味深い内容である。しかし、サトウの事、パークスの事などに多くの頁が割かれすぎていると感じた。もっと「医師ウイリス」が何をどのように日本人医師に伝えたのかを詳述して欲しかった。
2019年2月11日に日本でレビュー済み
ウイリスに関する著書は複数出版されているようであるが、著者と親しくさせていただいている縁で、私は謹呈いただいたこの本で知った。ウイリスの患者さんに対する姿勢は、『治るであろう環境を邪魔することなく、作ってゆく』まさに私が日頃心掛けていることであった。赴任した鹿児島においては鹿児島大学医学部の基礎を作られ、たくさんの子弟、門弟の教育に力を注いだ。同時に地域医療、高度先進医療を根付かせ、医療とは何かを教えていった。しかし、江戸から明治と時代の変わろうとしている真っただ中の鹿児島にいたおかげで、たくさんの得たものと、失たものがあったようである。現在では英国流もドイツ流もフランス流もない医学ですが、明治初期は日本においてはドイツ流が主流をなし、ウイリスの学んだ英国流の医学は受け入れられず、最終的には母国に56歳で帰り、57歳で亡くなった。医学、医療に対する姿勢は一貫していたようである。
この本はウイリスについて、たくさんの文献をひも解き、引用し事実を記録しようとする筆者の医師としてのまさに学術論文である。これも筆者の医師としての信条を貫いた大作と思われた。
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