「ウィトゲンシュタイン・言語の限界」の著者である飯田隆によれば、
現在の英米哲学の主流である「概念」分析に主眼を置く「分析哲学」において、
ウィトゲンシュタインの「哲学探究」は全く触れられることがないか、単に無視されて
おり、またよく言われるオックスフォード日常言語学派に対するウィトゲンシュタイン
の影響も極めて限定的のようです。
とは言え、多数派ではなくとも「哲学探究」を研究する「職業」哲学者はおり、
それらのいくつかは分析哲学、そして可能世界論を論じる「様相論理」(例えばクリプキの
固定指示詞に関する議論など)を援用し「哲学探究」の提示する様々な問題点を扱っています。
では、何故ウィトゲンシュタインの「哲学探究」がその影響力の大きさにもかかわらず、
現代「哲学」で主流になりえないのか?
また、そもそもウィトゲンシュタインはこの書物で何が言いたかったのか?
この「哲学探究」はご存知のように通常の哲学書や論文の体裁ではなく、ある程度の
まとまりはあるものの、例えばパスカルの「パンセ」にも似た幾つもの断片を
書き並べた形をとっており、ウィトゲンシュタイン自身も序文で、そうした断片の羅列
でしか本書が成立しえなかったと述べています。
様々な事柄が本書には一見脈絡なく提示されているかのようにみえますが、個人的に
最重要かつ「職業」哲学者あるいは言語学者にとって「壊滅的」である議論は次の二点でしょう。
1)「言語とはその使用である」
我々は言語がすでに我々の心、あるいは脳のなかに「存在」し、そこから語彙や文法を選び取り
表現していると考えがちです(例えばチョムスキーの生成文法)。が、ウィトゲンシュタインに
よれば言語は、食事をしたり眠るのと同じように、人が生きる「生の形式」の一部だということです。
言い換えれば「言語」を「使う」とは「食べ物」を「食べる」のと同様、その都度その都度の新たな
生きるための「実践」に他ならないのです。
2)「言語の規則は実践そのものである」
1)において言語の使用が生の形式たる「実践」だと述べました。では、言語自体の「規則」は
どうなるのか?我々は言語の規則に「従って」言葉を発したり、書いたりしているのではないか?
言語使用が実践だとしてもその使用自体は規則に基づくのではないか?
これに対するウィトゲンシュタインの答えは「規則はあらかじめ決まってはいないし、場合に
よってはでっち上げることさえできる」というものです。すなわち、言語の使用とは「事後的」に
共通の規則に従ってみえるだけで、実のところはそれが同じ言葉や表現だとしても常に「新しい」規則
の実践そのものなのです。
さて、上に述べた2点は、実は学問的にはデッドエンドであることに気づかれたでしょうか。「言語の
使用とその規則そのものが新たな実践である」。つまり言語使用の法則性自体がここでは生の地平に
解体されてしまっているのです。従って、「哲学探究」という書物はどこまでもアカデミックな哲学、
言語学の「外部」として、それをまともに見た職業哲学者や言語学者の眼が潰されかねないほど強い光
を放ち続けるのです。
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