本書は、その第一に歯切れがよいこと、第二にハンナ・アレントの主要三著作、1)『全体主義の起源』、2)『人間の条件』、3)『イエルサレムのアイヒマン』を発行順に並べ、三論文の関連性、連続性をきちんと捕らえている点において、数あるアレント入門書を卓越していると思う。
さらに、アレント晩年の諸論文が参照されている。私は上記三作品のうち2)と3)しか読んでなく、3)に対するユダヤ人社会からのごうごうたる非難を(ある程度は)納得できると考えてきただけに、その後の彼女がこれとどう向き合おうとしていたかに関心があった。本書のこれに答えようとする姿勢を称えたい。
「歯切れがよい」と書いたが、根拠がある。本書が各処で俎上させる問題を徹底的に三要素に分節化し、その一つ一つに順序良く答えてゆくというスタイルをとっている点だ。問題を三分割する手法は、講演などでの「判りやすさ」を強調するテクニックとして知られているが、論旨明快な印象を与え、説得力に富むことは明白だ。
さて、著者が読み取った各書の主張を私の理解する限りで要約してみたい。
最初の『全体主義の起源』では、ドイツにおけるナチズム誕生の原因を探る。弱小国が分立した封建制が長く続いたドイツでは、「市民」の誕生が遅れ、国民国家の理念よりも、「血の絆」のような幻想的「種族的なナショナリズム」を願う国民感情が強く育った。この情念は人種民族差別意識を必然的に生み出さざるを得ないものであって、ヒトラーの「人種の疑似階層的な原理を組織原理に転化させる」反ユダヤ主義観念の展開を容易にした、とする。
次の『人間の条件』では、こうした観念の史的観察が行われる。まず古代ギリシャにおける人間の働きは、生命維持のために私的空間で行われる「労働」、人間の創造的表現としての「仕事」、明確なアイデンティティを持った人々が議論したり行動したりする「活動」に分類される。その活動の場が「現われの空間」(ポリス)であるとする。これと反対にアリストテレスなどの哲学者は「神の観想」という私的な領域での営みを重視した。
中世のキリスト教時代になると、この「神の観想」が人の生の基本となり、ポリス的人間は影をひそめていったが、近代の到来とともに、労働と仕事の領域が混ぜあった「社会」が生まれ、公人と私人の区別はさらにあいまいになった。「社会」発生のもう一つの特徴は「経済学」の誕生で、人はそれぞれの私的利益を最大にすることを目指して行動する「ホモ・エコノミクス」(経済人)となる。このような「顔のない無名の群衆」として登場する人の価値は、他者による評価に依存する。人の「物心化」であり、人は孤立する。この孤立した大衆社会の隙間に発生したのが、二つの全体主義-まずマルクス主義が生み出したスターリニズムと、その対照としてのナチズムだとする。
最後の『イエルサレムのアイヒマン』はこうした論旨の帰結を述べる。600万人のユダヤ人を死に送った親衛隊のアイヒマン中佐は「私は一人も殺さなかった」とうそぶく。彼は狂信者ではなかった。ナチは慎重に、倒錯者やサディスト等精神異常者を組織から除外していたという。事実アイヒマンは「恐ろしいほどノーマルな」な小市民だった。彼の喜びは命令に最大の能力を費やし、能吏として認められることだった。
アイヒマンは「自分はカントの定言命法に従って行動した」と述べる。定言命法は「あなたの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」とする。アイヒマンにとっての「立法の原理」はヒットラーだった。
アレントはカントの「普遍的な立法」は一地方的な法を指すのではなく、世界法(道徳律)のことだと反論するが、ドイツにおけるアイヒマンの違法性を明白に断じることができず、巨大な悪をなしたアイヒマンを「悪の凡庸さ」と思考能力の停止という言葉でとらえるのが精いっぱいだった、と読める。この論文はむしろユダヤ人の絶滅計画に手を貸した上層ユダヤ人の告発で話題を呼び、ユダヤ人社会から村八分的な仕返しを受けることになる。私も冒頭で述べたように、アレントの学者としての見識に敬服しながらも、この書では虐殺されたユダヤ人は鎮魂されないと感じたのだった。
『イエルサレムのアイヒマン』が出版されたのが1963年、彼女が69歳で亡くなったのは1975年である。この間著作を世に問うこともなく何をしていたか気がかりだった。本書が「晩年」のアレントを紹介しているのが魅力だ。第三の主著となるはずの『精神の生活』三部作を執筆中だったが、未完のままに亡くなったという。
だが著者がここで取り上げるのは、連続講座の講義録「道徳哲学のいくつかの話題」である。悪の凡庸さと思考能力の停止が再び論じられる。アレントは「思考停止」したはずのドイツ人の中にも少数だが、その弊害に染まらなかった「無辜の」人々がいたことを例に挙げる。親衛隊への入隊を拒んで死刑となった二人の兄弟は「わたしはこんなことをすべきではない」ではなくて、「わたしにはこんなことはできない」と言ったという。
アレントはこの事例に対してソクラテスの『ゴルギウス』の対話集を引き合いに出す。論旨は難しいが、「わたしという自己のうちにもう一人の『わたし』がいて、わたしは常にこのもうひとりの『わたし』と調和していなければならない」という。これが思考の本質的な特徴であるとともに良心の機能を告げているものだ。この機能は誰の中にもあり、知識とも善悪とも関わりない、と言う。
このもう一人の「わたし」は「個人的なもので個人的なものではない」。この思考回路は、人間集団が「手本」として育て上げてきたものだ。「手本」とは、「客観的な妥当性を備えていない命題でありながら、それでいて普遍的な妥当性が含まれる命題」のことを言う。すべての人がアイヒマンを敵とみなせばアイヒマンには地上で暮らす場所がないし、わたしが「自分の手本を選択することができない場合、あるいはそもそも選択する意志がない場合」は、私の生きる道は閉ざされてしまう。これがアレントのいう道徳の原理である。
著者は最後に「わたしたちは他人の立場に立って、創造力を働かせて考えることをやめた瞬間から、凡庸な悪を体現しながら、人道に反する悪の片棒を担ぐ道を歩み始めるかもしれないのである」と書いて書を締めくくる。結局は「汝の隣人を愛せ」と謳うキリストへ戻るのかと思い、善の「凡庸さ」に驚きつつも、真理は一つに過ぎないのだとも思うのである。
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