蛍光ペンのインクが途中でなくなるほど線を引きながら読んだ。自分がここ数年薄々感じていたリベラルに対する疑問が気持ちよいくらいスッキリ解けた。ほとんど洗脳が解除された気分である。
高度経済成長、東西冷戦のさなかに義務教育を受けた人間にとってリベラル・デモクラシーは人類が二度の戦争を経て手にした尊いものという刷り込みがある。ちょうど成人したころに東西冷戦が終了し、リベラル・デモクラシーの最終勝利を宣言したフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』がベストセラーになった。
あれから30年、リベラル・デモクラシーはあらゆる先進国で衰退し、その最大の旗振り役であったアメリカが修復は不可能ではないかと思えるほどに分断され、権威主義の大国が覇権を広げつつある。このような状況のなか「リベラル・デモクラシーはなぜ劣化したのか」を問う書物が多く出された。
しかしそもそもこの問いが間違っていたのだ。リベラル・デモクラシーは劣化したリベラルと劣化したデモクラシーの妥協の産物であり、人類の叡智のとりあえずの到達点ですらなく、期間限定のクーポン券(しかも期限きれてる)みたいなものだったのだ。
「一般的にリベラリズムは個人の自由を、デモクラシーは個人間の平等を尊重するゆえに相性が悪いとされる」。しかし「リベラル・デモクラシーは・・・双方のネガティブな面――リベラリズムと資本主義の結びつき、デモクラシーの人民主義的側面――を抑制することで成り立った。そして、この取引が可能になったからこそ、不自然な組み合わせとのリベラル・デモクラシーが戦後にはじめて安定したのだ」。
ではなぜこのような「取引」が可能になったのか。本書はそれを「二つの条件が奇跡的に出揃ったから」と説明する。一つは「放っておけば衝突する資本主義と民主主義を、社民的な国家が媒介したから」。もうひとつが「冷戦構造がこうした戦後コンセンサスを背後から支えた」から。ここでいう「戦後コンセンサス」とは「戦前の野放図な資本主義の負の効果、市場の暴走を国家が公共部門や社会保障を通じて修正し、戦後復興による経済の果実が再分配されることを企図する」というものだ。
この「戦後コンセンサス」はアングロサクソンが戦勝国となったことで「リベラル・デモクラシー」という名で「事後的に」正当化された。一方で、戦争からの復興の過程、つまり「経済リベラリズム(ブルジョワのリベラリズム)と人民民主主義(労働者のデモクラシー)」の妥協によって」生まれた中間層が「史上はじめて社会の多数派に」なり、「リベラル・デモクラシーの果実の受益者となるとともに、その担い手となった」。
この「分厚い中間層」の出現により、「階級」が政治的に意味を持たなくなる。不平等や貧困は「政治を通じてその解消が実現されなくとも、経済発展と生産活動の拡大による分配が行き渡ればそれが可能になる」からだ。その結果、「左派による生産手段の国有化と保守の私的所有権の擁護」は政治的な争点ではなくなり、1980年代に入るころから先進国における選挙公約には「非経済的争点」が「経済的争点」を上回るようになっていく。
政治に文化的次元、脱物質的次元が加わることによって争点の対立軸が変容していくのは必然の流れだったが、「重要なのは、リベラルな価値と結びつくとされてきた脱物質主義が、実際には、権威主義的次元を伴っているという視点」だと著者は指摘する。さらに「権威主義的政治は左派[労働者の権利]、政治的リベラル[マイノリティの権利、個人の自己決定、寛容]、新自由主義[個人が市場を通じて能力を最大化する権利、いわゆるネオリベ]とそれに対立する潮流の新たなオルタナティブとして現れた」とし、「これは戦前のコミュニズム、議会エリート、資本階級をファシズムが攻撃した構図と類似している」と続ける。
そうやって生まれてきた「オルタナ右翼」「ニューライト」のちの「極右ポピュリスト」とよばれる層を伸張させた保革政党がそれぞれにリベラル化して対立軸を収斂させていった「リベラル・コンセンサス」である。経済リベラリズムを国の介入によって抑制しつつ復興の果実を平等に分配していこうという「戦後コンセンサス」は、中間層のマジョリティ化による階級政治の後退により、「富の分配」から「価値の分配」へと政治の争点が移るなかで、「リベラル・コンセンサス」に帰着した。それはまた高所得者の支持する保守と高学歴者の支持する左派による「複合エリート」政治であった。このリベラル・コンセンサスが完成していくのと並行して、グローバル化や産業構造の変化により、先進国において製造業が衰退し、中間層が没落していく。この中間層のニーズにこたえる政党はもはやなく、彼らがニューライトやポピュリズムの温床となっていく。「『国家』と『平等』の組合せは、今、権威主義政治として生まれつつある」。
個人の解放というリベラルな論理やそれに基づいた制度がそこからはみ出す人を生み、個人の自由をむしろ制限する権威主義的に向かわせた。その転換点は1968年だったというのが著者の見立てである。1968年にはフランスの「68年革命」をはじめとする学生や労働者による大規模な抗議運動が全世界で同時多発的に進行した。その担い手となったのは戦後生まれ世代、日本でいえば「団塊の世代」でありアメリカでいえば「ベビーブーマー」である。彼らにとっての争点は賃金や雇用ではなくアイデンティティや自己決定権などの非経済的価値だった。彼らの「新しい社会運動」は「組織と集団を否定し、個人を解放」することを目指した。敗戦国であった日本や西独においてそれは戦勝国(米英)によって強烈に刷り込まれた意識であったが、それを両国市民は喜んで受け入れ、「リベラル・デモクラシーが支配的な価値となった。
リベラルな価値を掲げた「新しい社会運動」は個人の承認欲求や自己実現欲求によって駆動されているものであり、社会運動といいながら、つまるところ「個人運動」の束であった。したがって、「何か具体的なことを実現するよりは、何か共有されたイメージを提示することを目的とするもの」でしかなくもはや運動というよりも現象に近いものとなる。本書でもっとも強調されているといっていいのが、こうした一連の運動というか現象に対するカウンターとして生まれてきたのがニューライトであるという説である。
「集団や組織が否定されて個人が優先されれば、その個人の間を取り持つのは赤裸々な権力関係でしかない。人間関係を左右するのが暴力でなければ、後は社会資本的資本や経済的資本が権力関係を左右することになる。・・・個人によって構成される社会は、個人の間に不可避的に横たわる不平等を埋める制度や手立て、組織を失うことになる」。
それによって生じた不安や理不尽を埋めるものとして権威主義に救いを求める層がニューライトである。リベラル・デモクラシーを標榜する新左翼とニューライト、そしてその「対立軸の間隙を突いて1970年代後半から80年代にかけて誕生したのは、新自由主義」だった。俗にネオリベと呼ばれる彼らは「個人の能力を最大化させることで、市場と社会の活力を取り戻す」ことを是とした。
乱暴だがわかりやすくいえば、日本では朝日新聞とほぼ日VS日本会議VSホリエモンみたいなことだろう。本書ではニューライトやネオリベの起源を68年革命に求めているが、もうひとつ重要な指摘は「68年革命が生んだ個人主義と消費資本主義は親和的な関係にある」ということだ。「抗議や抵抗を個人的なものだとした68年革命の精神が、組織的・集団的な抗議を忌避」した結果、消費資本主義に取り込まれるしかなかった。わかりやすい例として、管理社会の象徴としての制服を廃止した結果、若者たちがブランドや流行に走って自らを誇示するようになったという流れである。抗議や抵抗すらも「アピールの場であり、企業ブランドの価値向上の機会でしかない」。#MeTooやBLMやLGBTQ運動など、異論はなくむしろ共感を覚えつつもどこかフルコミットできないもどかしさがずっとあったが、その理由はここにあった。
「自己決定権そのものについての賛否と、その自己決定権による社会変容の成否は分けて議論しなければならない。・・・個人が幸せになることと、社会で正義がなされることは、地続きであるにせよ、完全に等価ではない余地が残る。・・・最終的に声が大きいもの・・・が社会的な正義として大手を振ることになる」。
そんななかで結局は保革の「複合エリート」が正義や正論をがなりたてて社会の分断を深めている。誰だって切り取り方によってはマイノリティだ。そのマイノリティ性につけこんで自分たちの運動に引き込もうとする勢力がある。その運動の目的は世直しをうたったセルフブランディングやアイデンティティ政治だったりして、そこがリベラルのうさん臭さんにつながっているのではないか。
誰もがマイノリティになりうるという前提でいえばマイノリティに必要なのは「自らがマイノリティであることを一度相対化し、マイノリティであるという属性から自由になったうえで、何を選択するのかという主体性を取り戻すこと」にあるという著者の指摘には完全に同意する。これは「自己リテラシー」ともいえるものだ。本当は自身のごく一部にすぎないマイノリティ性に依拠したアイデンティ対する承認を市場(SNSも含め)に求めるとき、「それはあえて美化されたり賞賛されたりする」だけでなく他のアイデンティティと衝突さえする。だから「ダイバーシティ」を声高に唱える人ほど「非寛容」という矛盾が起きる。「特定の集団や民族の属性のみを寛容の基準としたため、マジョリティによる不寛容を生み、敵対性を強めていく」とう現象がいま起きていることだ。
著者はこうした矛盾に容赦なく切り込んでいく。「個人が伝統的な集団(階級、宗教、地域、ジェンダーなど)から解放されればされるほどに、不安定で脆弱な存在になりえる」がゆえに「個人化が進むほどに新しい社会が要請されることになる」。そこに権威主義の入り込む大きな隙間ができる。本書の終章に出てくるホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』に沿って言えば、その隙間はリベラルが用意した。つまり野蛮は啓蒙に内在していたのである。
つまり「戦後にできあがったリベラル・デモクラシーの核となった中間層は68年以降の学生・労働運動とグローバル化によって解体され、それに付随してリベラルな価値観・文化的価値に基づく政治が生まれ、これに対する反作用から、政治のコンテンツそのものの変遷が歴史認識問題やテロとして生じている」ということになる。
本書の歴史認識についての章(第3章)はそれだけで別のレビューが1本かけてしまうほど興味深いものだったが、ここでとくに印象に残ったのは、「ホロコーストの問題が世界で広く認識されるようになったのは1980年代に入ってから」「『被害者』としてのドイツの記憶が語られ始めたのは冷戦が終わった1990年代だった」という話だ。「戦中に民衆が受けた苦しみと屈辱のすべてをナチスに責任を負わせることで、自らがユダヤ人を加害した記憶を忘却することができる」からだと著者は指摘する。日本の場合はいまだに「被害者」としての記憶がきちんと語られていない。ポスト冷戦期はそれまでの反共イデオロギーが後退して歴史の記憶がせり出してきた。著者は「記憶をめぐる問題はこれからも強度を増していき、世界の歴史認識をめぐる争点は内外で増えていくだろう」と指摘する。
といって、著者はリベラルをディスるために本書を書いたのではない。リベラリズム再生の提案もしている。そのひとつが「人びとの間の違いではなく、何を共通としているのかについての合意を得る努力を続けること」だ。つまり分かり合えない人間と対話を続ける努力である。「政治とは、異なる者との間の共存を可能にするための営みのことだ。そうであるならば、必然的に対話の契機が含まれていなければならない」。
あるべき理想を説くために常に誰かを悪者・敵にしたてあげるのではなく、自分を理解するためのリテラシー、他者と理解し合うため(あるいは対立し続けないため)の対話こそがいま求められている。
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アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治 (講談社現代新書) Kindle版
移民への憎悪、個人化するテロリズム、伸張する権威主義。リベラリズムが崩壊し、怒りの政治が展開する現在、その底流を抉り出す。
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2020/9/16
- ファイルサイズ6794 KB
商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
オルタナ右翼、権威主義の台頭、ヘイトクライム、歴史認識問題、テロリズム…不安な暗い時代を生き抜くための新しい見取図。行き場を失った中間層が疎外感を強め、凶暴になる理由。なぜ有権者は強い指導者を求めるようになったのか。 --このテキストは、paperback_shinsho版に関連付けられています。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
吉田/徹
1975年生まれ。慶應義塾大学法学部卒業、東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了、博士(学術)。比較政治、ヨーロッパ政治を専攻。現在、北海道大学大学院法学研究科教授。フランス国立社会科学高等研究院リサーチ・アソシエイト、シノドス国際社会動向研究所理事(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) --このテキストは、paperback_shinsho版に関連付けられています。
1975年生まれ。慶應義塾大学法学部卒業、東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了、博士(学術)。比較政治、ヨーロッパ政治を専攻。現在、北海道大学大学院法学研究科教授。フランス国立社会科学高等研究院リサーチ・アソシエイト、シノドス国際社会動向研究所理事(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) --このテキストは、paperback_shinsho版に関連付けられています。
登録情報
- ASIN : B08HM17HLF
- 出版社 : 講談社 (2020/9/16)
- 発売日 : 2020/9/16
- 言語 : 日本語
- ファイルサイズ : 6794 KB
- Text-to-Speech(テキスト読み上げ機能) : 有効
- X-Ray : 有効
- Word Wise : 有効にされていません
- 本の長さ : 279ページ
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- - 118位政治入門
- - 126位政治 (Kindleストア)
- - 150位講談社現代新書
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著者について
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東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒。日本貿易振興機構(JETRO)調査部、パリセンター調査ディレクターを経て、東京大学総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。日本学術振興会特別研究員等を経て、北海道大学法学研究科/公共政策大学院教授、現在同志社大学政策学部教授。その間、パリ政治学院ジャパンチェア招聘教授、同非常勤講師、同フランス政治研究所客員研究員、ニューヨーク大学客員研究員。現在、フランス国立社会科学高等研究院(EHESS)日仏財団(FFJ)リサーチアソシエイト。
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非常に丹念に描かれ、考察も俯瞰的である。しかし、カタカナが多く、言葉の定義を正確にしないと知らないまに迷子になってしまうような感じとなる。
「リベラルデモクラシーの衰退」はなぜ起こったのか?リベラルとは何か?デモクラシーとは何か?そして、リベラルとデモクラシーはなぜ接合したのか?ということを縷々と紡ぐ。大変な労作だと思う。
コロナ・パンディミックによって、これまでの日常が喪失する。街から人が消え、飲食店の灯りが消え、自宅に引きこもる。今の時代の内包していたものが露出して、社会の抱える弱点を白日の元に晒す。国家の政府は、災害に対する備え、ハザードマップの整備や、危険な地域の土地利用規制、安全な住まい方への誘導による被害に遭いにくい地域づくりが求められるが、地球温暖化で激化する災害対策の不備が目立つ。そして、医療や公衆衛生と統治能力を統合させ人々の健康と安全を守ることであるが、その対応はあまりにもお粗末な状況が日本のみならずアメリカや先進国で起こっている。統治能力の低下が明らかであるが、一方で非民主主義的な国家である中国が、IT&AIを駆使して徹底的に抑圧に成功している。台湾がコロナ制圧に成功しているのは、重要でもある。なぜ、こんなことが起こっているのかを、リベラルデモクラシーの側面から分析を試みようとする。
第1次世界大戦で広まったスペイン風邪は、戦死者以上の犠牲者を出した。それによって、ファシズムとコミュニズムの台頭が始まった。ナチズム・ファシズム・天皇イズムの連携が、自由主義勢力によって敗れ去った。戦後の復興は、リベラル(自由と平等の権利)デモクラシーが、急速な経済成長によって育まれることになる。所得の向上による中間層の増大が始まり、保守と革新(左派)の対立軸をつくることになる。
著者は、1975年生まれなのに、1968からはじまる学生運動が大きな起点となり、自由と自己決定が分岐点になったという分析をしているのが面白い。
1970年代、高度経済成長が失速し始め、そこから格差の拡大が始まる。1990年代は、バブルが崩壊し、グローバル化と産業構造の変化が始まる。産業の空洞化が始まり、低賃金で働く不安定な立場の労働者が増大する。①労働組合の衰退→社会民主主義の衰退につながる。②移民の増加による、多文化社会ではなく、多分化社会が生まれ、ヘイトクラムや個人的テロが頻発する。③宗教の権威の失墜が起こり、宗教が人間を操作していたのが、個人が宗教を自分のために利用し、テロに走る。
そのような背景のもとにポピュリズムとしてのトランプの登場。一般大衆の利益と権利を守るポーズと分断攻撃。本来はエリート層を叩くのであるが、増加する移民を叩き、メキシコの壁を作るといい、貿易赤字と職を奪われたと言って中国を叩く。アメリカーファースト主義と孤立した保護主義が急速に進められる。「怒りと憎悪」で政治が組み立てられ、大統領がフェイクニュースの震源地になり、エッセンシャルワーカーがそれに共感し、強力な指導者を期待し、フェイクを信じたいがゆえに凶暴化していく。ポスト真実なる信じたいものしか見ないというネット社会の普及によって、不満が結びついていく。警察官による黒人を捕捉して死に至らしめることで、Black is matter運動が盛り上がり、それに乗じた強奪が行われ、「法と秩序」が掲げられる。その多分化社会の衝突が様々なところで起こっていく。
そこには政治への不信、政治システムが応えられない状況での民意の反映させることの期待の高まり。結局は、今までの階層や階級、宗教などが崩壊して、アイデンティティ自体が空白化して崩壊し、解放されることで、不安定で脆弱な存在に成り下がる。また歴史認識が、公的な物語ではなく、個人的な記憶によって私的な歴史認識をすること、信じたいものしか信じないことによって、分断が急速に広がっている。価値観が、何が正しいか否かから、正しいと信じるか否かと言うことによるアイデンティティの脱物質的なものに移行している。
保守と革新(左派)の対立軸から、リベラルと権威主義の対立軸に移行する。ロシア、中国、そしてトルコなど、非民主主義的な権威主義が強固な形で形成されていく。
リベラルの衰退が、リベラル間で競い合うことになっていることが問題である。リベラリズムには5つのレイヤーがあり、そのレイヤーを正確に理解する必要があると著者はいう。
①ロックの社会契約論、イギリスの権利憲章、フランス人権宣言などの系譜にある王権や教会に対する個人の抵抗権や所有権、絶対的な権力との戦いをになってきた立憲主義のリベラリズム。
②商業や取引、貿易の自由を唱える、市場を中心とした自由、新自由主義の系譜の経済的リベラリズム。③個人主義を擁護し、古い習慣に対する人間的活動の闘い。個人の能力はその個人によって行使されなければならないとする個人主義的リベラリズム。④社会は、人為と人智で持ってよくすることができ、人権が守られる社会を志向する社会リベラリズム。⑤民族や宗教、ジェンダー的マイノリティの権利を擁護し、不平等や差別、貧困と闘う寛容の精神を説く、寛容リベラリズム。
5つの立憲主義リベラリズム、経済的リベラリズム、個人主義的リベラリズム、社会的リベラリズム、寛容リベラリズムが、アイデンティティ・個人・主体の緊張関係を持ち、意識的かつ反省的に発展均衡させていくことが必要で、分断をさせない勢力になっていくことにあるという。
カミュは、「不正義を人間社会に加えることではなく正義を尽くそうとすること、人間の痛みにではなく、その幸せに賭け、世界の嘘を増やさぬように明解な言葉で説明尽くすこと」(反抗的人間)
現在 横行する怒りと憎悪の政治は、荒々しくなく、静かに潜行して、分断攻撃を加えている中で、統合的なリベラルデモクラシーを復興させる時なのかもしれない。それにしても、俯瞰的に リベラルデモクラシーを捉えることは、難しい作業である。読むので、精一杯というところか。
少なくとも、私は、寛容デモクラシーでありたい。
「リベラルデモクラシーの衰退」はなぜ起こったのか?リベラルとは何か?デモクラシーとは何か?そして、リベラルとデモクラシーはなぜ接合したのか?ということを縷々と紡ぐ。大変な労作だと思う。
コロナ・パンディミックによって、これまでの日常が喪失する。街から人が消え、飲食店の灯りが消え、自宅に引きこもる。今の時代の内包していたものが露出して、社会の抱える弱点を白日の元に晒す。国家の政府は、災害に対する備え、ハザードマップの整備や、危険な地域の土地利用規制、安全な住まい方への誘導による被害に遭いにくい地域づくりが求められるが、地球温暖化で激化する災害対策の不備が目立つ。そして、医療や公衆衛生と統治能力を統合させ人々の健康と安全を守ることであるが、その対応はあまりにもお粗末な状況が日本のみならずアメリカや先進国で起こっている。統治能力の低下が明らかであるが、一方で非民主主義的な国家である中国が、IT&AIを駆使して徹底的に抑圧に成功している。台湾がコロナ制圧に成功しているのは、重要でもある。なぜ、こんなことが起こっているのかを、リベラルデモクラシーの側面から分析を試みようとする。
第1次世界大戦で広まったスペイン風邪は、戦死者以上の犠牲者を出した。それによって、ファシズムとコミュニズムの台頭が始まった。ナチズム・ファシズム・天皇イズムの連携が、自由主義勢力によって敗れ去った。戦後の復興は、リベラル(自由と平等の権利)デモクラシーが、急速な経済成長によって育まれることになる。所得の向上による中間層の増大が始まり、保守と革新(左派)の対立軸をつくることになる。
著者は、1975年生まれなのに、1968からはじまる学生運動が大きな起点となり、自由と自己決定が分岐点になったという分析をしているのが面白い。
1970年代、高度経済成長が失速し始め、そこから格差の拡大が始まる。1990年代は、バブルが崩壊し、グローバル化と産業構造の変化が始まる。産業の空洞化が始まり、低賃金で働く不安定な立場の労働者が増大する。①労働組合の衰退→社会民主主義の衰退につながる。②移民の増加による、多文化社会ではなく、多分化社会が生まれ、ヘイトクラムや個人的テロが頻発する。③宗教の権威の失墜が起こり、宗教が人間を操作していたのが、個人が宗教を自分のために利用し、テロに走る。
そのような背景のもとにポピュリズムとしてのトランプの登場。一般大衆の利益と権利を守るポーズと分断攻撃。本来はエリート層を叩くのであるが、増加する移民を叩き、メキシコの壁を作るといい、貿易赤字と職を奪われたと言って中国を叩く。アメリカーファースト主義と孤立した保護主義が急速に進められる。「怒りと憎悪」で政治が組み立てられ、大統領がフェイクニュースの震源地になり、エッセンシャルワーカーがそれに共感し、強力な指導者を期待し、フェイクを信じたいがゆえに凶暴化していく。ポスト真実なる信じたいものしか見ないというネット社会の普及によって、不満が結びついていく。警察官による黒人を捕捉して死に至らしめることで、Black is matter運動が盛り上がり、それに乗じた強奪が行われ、「法と秩序」が掲げられる。その多分化社会の衝突が様々なところで起こっていく。
そこには政治への不信、政治システムが応えられない状況での民意の反映させることの期待の高まり。結局は、今までの階層や階級、宗教などが崩壊して、アイデンティティ自体が空白化して崩壊し、解放されることで、不安定で脆弱な存在に成り下がる。また歴史認識が、公的な物語ではなく、個人的な記憶によって私的な歴史認識をすること、信じたいものしか信じないことによって、分断が急速に広がっている。価値観が、何が正しいか否かから、正しいと信じるか否かと言うことによるアイデンティティの脱物質的なものに移行している。
保守と革新(左派)の対立軸から、リベラルと権威主義の対立軸に移行する。ロシア、中国、そしてトルコなど、非民主主義的な権威主義が強固な形で形成されていく。
リベラルの衰退が、リベラル間で競い合うことになっていることが問題である。リベラリズムには5つのレイヤーがあり、そのレイヤーを正確に理解する必要があると著者はいう。
①ロックの社会契約論、イギリスの権利憲章、フランス人権宣言などの系譜にある王権や教会に対する個人の抵抗権や所有権、絶対的な権力との戦いをになってきた立憲主義のリベラリズム。
②商業や取引、貿易の自由を唱える、市場を中心とした自由、新自由主義の系譜の経済的リベラリズム。③個人主義を擁護し、古い習慣に対する人間的活動の闘い。個人の能力はその個人によって行使されなければならないとする個人主義的リベラリズム。④社会は、人為と人智で持ってよくすることができ、人権が守られる社会を志向する社会リベラリズム。⑤民族や宗教、ジェンダー的マイノリティの権利を擁護し、不平等や差別、貧困と闘う寛容の精神を説く、寛容リベラリズム。
5つの立憲主義リベラリズム、経済的リベラリズム、個人主義的リベラリズム、社会的リベラリズム、寛容リベラリズムが、アイデンティティ・個人・主体の緊張関係を持ち、意識的かつ反省的に発展均衡させていくことが必要で、分断をさせない勢力になっていくことにあるという。
カミュは、「不正義を人間社会に加えることではなく正義を尽くそうとすること、人間の痛みにではなく、その幸せに賭け、世界の嘘を増やさぬように明解な言葉で説明尽くすこと」(反抗的人間)
現在 横行する怒りと憎悪の政治は、荒々しくなく、静かに潜行して、分断攻撃を加えている中で、統合的なリベラルデモクラシーを復興させる時なのかもしれない。それにしても、俯瞰的に リベラルデモクラシーを捉えることは、難しい作業である。読むので、精一杯というところか。
少なくとも、私は、寛容デモクラシーでありたい。
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当り障りの無い、付け加えることが無い感想ですが…
新書の枠を超えたエクストリームで規格外な一冊です。
酒井隆史氏の『自由論』を読んだような読後感で原理的に
古今東西の政治や体制について熟知していないと描けない本で圧倒されます。
体制の変遷の共に自分の立ち位置も相対的なものでしか無く工業化社会や
ポスト工業化社会の土台の上で、ただ時代の恩恵に属しているだけで
ふんぞり返っている孤独な群衆の一人に過ぎないことが分かってきます。
(またはポストモダン社会のさまよえる自己)
読みながら図示化しないと情報量が多く事細かに描写していて錯綜しているので
途中で迷子になりそうですが、それだけ読む価値は十分にあります。
この本でしか登場しない事例や他で味わえない微妙なリベラルの違いや
逆説やパラドックスを起こしてしまう皮肉のような結果であったり
反動であったりすることを教えてくれます。無自覚で忘れがちですか、
やはり大きな強力な体制なくしては小さな個人的自由を謳歌できないのでしょうか。
世界を鑑みるにつけて、ある意味、リベラルぶるなんて贅沢過ぎるのかもしれません。
新書の枠を超えたエクストリームで規格外な一冊です。
酒井隆史氏の『自由論』を読んだような読後感で原理的に
古今東西の政治や体制について熟知していないと描けない本で圧倒されます。
体制の変遷の共に自分の立ち位置も相対的なものでしか無く工業化社会や
ポスト工業化社会の土台の上で、ただ時代の恩恵に属しているだけで
ふんぞり返っている孤独な群衆の一人に過ぎないことが分かってきます。
(またはポストモダン社会のさまよえる自己)
読みながら図示化しないと情報量が多く事細かに描写していて錯綜しているので
途中で迷子になりそうですが、それだけ読む価値は十分にあります。
この本でしか登場しない事例や他で味わえない微妙なリベラルの違いや
逆説やパラドックスを起こしてしまう皮肉のような結果であったり
反動であったりすることを教えてくれます。無自覚で忘れがちですか、
やはり大きな強力な体制なくしては小さな個人的自由を謳歌できないのでしょうか。
世界を鑑みるにつけて、ある意味、リベラルぶるなんて贅沢過ぎるのかもしれません。
2021年7月2日に日本でレビュー済み
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あ~都市リベラルの人の書いた内容ですねぇ〜って感じ
半分程度の記述がリベラルから見た現状認識という印象
リベラルの人って現状認識を国際関係やイデオロギーといったマクロな視点言い換えれば「上からの」視点で語りますよね、もちろん上からというのは、我々リベラルこそが社会最善の方策であって、それを支持しない民衆は愚かであるという真意が透けて見える
そういう所がウンザリされてるんじゃないの?と思うこと多々
〜である、なのだ、口調ですがそれってあなたの主観ですよね?と思いながら読んだし、それちょっと違うんでは?といった考えも多々あった
(たとえば
中間層の衰退→リベラルの支持低下→保護主義・排外主義、の論理って
リベラルグローバリズム→中間層の衰退→保護主義・排外主義
であって、保護主義・排外主義はリベラルグローバリズムが原因の一つでは?と思ったり、そもそもなぜ中間層の衰退が起きたか書いてない
まだ収束していないコロナの記述も含めて、賞味期限短めのあまり深い味のない読み捨て本といった感じですね
★5つではないでしよこの本
半分程度の記述がリベラルから見た現状認識という印象
リベラルの人って現状認識を国際関係やイデオロギーといったマクロな視点言い換えれば「上からの」視点で語りますよね、もちろん上からというのは、我々リベラルこそが社会最善の方策であって、それを支持しない民衆は愚かであるという真意が透けて見える
そういう所がウンザリされてるんじゃないの?と思うこと多々
〜である、なのだ、口調ですがそれってあなたの主観ですよね?と思いながら読んだし、それちょっと違うんでは?といった考えも多々あった
(たとえば
中間層の衰退→リベラルの支持低下→保護主義・排外主義、の論理って
リベラルグローバリズム→中間層の衰退→保護主義・排外主義
であって、保護主義・排外主義はリベラルグローバリズムが原因の一つでは?と思ったり、そもそもなぜ中間層の衰退が起きたか書いてない
まだ収束していないコロナの記述も含めて、賞味期限短めのあまり深い味のない読み捨て本といった感じですね
★5つではないでしよこの本





