1950年、18歳で来日、以後24年間にわたって外資系銀行で要職を歴任しながら、戦後復興期日本の姿をつぶさに見聞したオランダ人が、当時を知らない若い日本人たちからの要望にも促されて、回想録を執筆。文芸
の素養があり、国際文化交流の活動にも携わった著者が、自身の体験・紀行、芸術や宗教についての省察、日々の社会的・政治的・経済的現実などを、豊富な逸話をまじえて年代順に綴る。読み物としての面白さと、
体験談を越えて掘り下げた批判的洞察を兼ね備えた、貴重なドキュメント。
昭和25から49年まで銀行マンとして日本で暮らしたオランダ人ハンスブリンクマンが客観的な視点で戦後日本を観察し、一西洋人の視点で描かれた当時の日本をしのぶ回想録。激動の戦後日本を知る資料的価値もある。
また、資料性の高さもさることながら、当時の写真など貴重なものが多く、団塊世代に関わらず、広い世代にうける内容になっている。
内容(「BOOK」データベースより)
昭和25年~48年、戦後の復興期。そこには貧しくても活気ある日本があった。私たちが忘れていた昭和をオランダ人が克明に記録していた。
抜粋
――それでも外国の銀行は別格で、おそらく二流の日本の会社よりはマシだったようだ。……そうは言っても外国の銀行は、たとえ本国においては規模も大きく強固で社会的地位も高くとも、決して一流ではなかった。外国の企業に勤めていた日本人は、たぶん日本の大義からすればいささか“裏切り者”と見なされていたようだし、系列企業に就職できなかったので、言うまでもなく二流だった。
そもそも日本人は大きさ、伝統、それからブランド名に弱かった。平社員でも、名刺に三菱のダイヤモンド入りロゴが印刷されていれば有無を言わずに信用された。その反対に、無名の会社名が印刷されていたら、たとえ社長であろうとも誰もとりあってくれなかった。……よく同僚たちが、三井や住友グループの社員たちに、申し訳なさそうな顔をして名刺を渡している光景を目にした。まるで、「一流でなくてスミマセン。仕方がないけど、それが人生」と言っているみたいだった。(「昭和29年」より)
――日本では、幻想というものの力が、現実の姿と同じくらいに重要なのかもしれない。このことは、盆栽や日本庭園を思い浮かべればわかる。ミニチュア版の自然だ。能、そして特に文楽などの古典芸能も、いかに観客の想像力を求めているのかがわかる。内向的で自分のことに無我夢中である人生観は、もしかしたら島国という現実にもとづく必然の結果なのかもしれない。隣で起こっている出来事の影響から隔離されていたおかげで、落ち着いてあれこれ選択する性向や聡明な順応性だけではなく、抽象的な象徴主義を発達させられたのかもしれない。その結果、独自の形式ばった文化ができあがったのだろう。外部の世界にさらされてきた社会でよく見られるさまざまな変動も、日本では時間をかけてゆっくりと起こり、時には手を加えて受け入れられてきた。だから日本では、決断を下す必要性や催促は希薄化されたのかもしれない。(「昭和45年」より)
――田中首相への表敬訪問……二つの理由からこの時のことをはっきりと覚えている。ひどい頭痛と田中首相から受けた悪い印象だ。……首相はわたしたちが椅子に腰掛けた瞬間から時計を気にしていた。表敬訪問を承諾したものの、明らかにこれは無駄な時間であると見なしていたようだった。たとえわずかの時間でも、彼にはこちらをくつろいだ気持ちにさせてくれる度量を持ち合わせていないことは明らかだった。……日本は、どうしてあんなに器の小さい人間にリーダーシップを執らせることができるのだろうか。強引なセールスマンみたいな握手をする、取るに足りない男が日本で大人気だというのは本当の話なのか。(「昭和48年」より)
著者について
■著者・ハンス・ブリンクマン HANS BRINCKMANN
1932年オランダ・ハーグ生まれ。オランダの銀行の銀行員として1950年に来日。
29歳で東京支店支店長、36歳でアメリカ・コンチネンタル銀行日本担当重役就任。24年間の日本暮らしの中で、日本文化に対する興味を深め、京都のボヘミアンたちとも交流する。
また、日蘭協会での活躍や日蘭学会の創立メンバーとして日本とオランダの文化交流にも力を注ぐ。日本を去ってからは、キュラソー島、アムステルダム、ニューヨークでは国際銀行協会会長を務めた。その一方、アメリカとオランダ間の文化・教育交流活動を積極的に支援。
1986年、オランダ王室よりオランダの有力紙ドォ・ヴォルクスクラントやNRCに日本に関する記事を寄稿。
現在は妻とロンドン・東京それぞれで一年の半分を過ごす生活。
■訳者・溝口広美(みぞぐち・ひろみ)
1965年東京生まれ。九州大学大学院比較社会文化研究科修士課程修了。翻訳家。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
ブリンクマン,ハンス
1932年オランダ・ハーグ生まれ。オランダの銀行の銀行員として1950年に来日。29歳で東京支店支店長、36歳でアメリカ・コンチネンタル銀行日本担当重役就任。24年間の日本暮らしの中で、日本文化に対する興味を深め、京都のボヘミアンたちとも交流する。また、日蘭協会での活躍や日蘭学会の創立メンバーとして日本とオランダの文化交流にも力を注ぐ。日本を去ってからは、キュラソー島、アムステルダム、ニューヨークで国際銀行の要職を歴任し、ニューヨークでは国際銀行協会会長を務めた。その一方、アメリカとオランダ間の文化・教育交流活動を積極的に支援。1986年、オランダ王室よりオランユ・ナソー勲章を叙勲。銀行業を退いた後は、オランダの有力紙ドォ・ヴォルクスクラントやNRCに日本に関する記事を寄稿。現在は妻とロンドン・東京それぞれで一年の半分を過ごす生活
溝口/広美
1965年東京生まれ。九州大学大学院比較社会文化研究科修士課程修了。翻訳家(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)