道徳の教科化に納得できない理由を整理したくて、関連書籍にあたってきました。 本書は、そのひとつです。 前著「学校をつくり直す」を、道徳教育の観点で思考延長した内容ですね。 興味深く読みました。
結論から述べます。 志やよし、実行(実効)に矛盾あり。 そう思いました。 その理由を、若干の引用をご容赦いただき書いてみます。 急いで前置きしたいのは、道徳が教科化された背景です。 いじめ問題による悲惨な事件は、社会問題として看過できません。 政府としても、対策実績を残さなければならない、ということだったのでしょう。 いじめ問題を道徳カテゴリーと位置づけ、学校教育の強化で制圧しようとの意図があった、、、推察含みですが、そうは反論はないかと思います。
しかし、「学校で『習ったから』いじめはいけない」。 そう『理解』していいのでしょうか。 強化を教科にすり替え、成績としての評価がともなうわけでしょ? 誤解を恐れずに言うなら、授業内容から得た『知識』をもとに ”いい答え” を返した生徒に高評価が与えられる道徳教育ほど不道徳な教育はないと思うのです。 「いじめは本当にいけないのか。それはなぜか」、という問題意識から始めてほしい。 大人の社会において、ビジネスは企業同士の合法的ないじめ合いともいえますし、外交もそういったかけひきに躍起です。 だから「いけない、だめ」の前に問題意識をもってほしい、、、それが道徳の教科化に眉をひそめた理由です。 そういったことを考える場が必要なのは確かです。 必然的に哲学的な議論にもなるでしょう。 しかし、その実践は学校という同質性を帯びた場で行うことが最適なのか。 道徳の教科化への疑問はそんなところにもあります。
前置きが長くなりました。
本書の底流にある「道徳」の目的・定義は一筆書きするなら、「自由に生きるため多様性を受容し、そこに共通理解可能な自由の相互承認を形成するルール作りをすること」といえます。 その根拠を哲学的思考で熱く述べておられます。 しかし、哲学的な論破にはかならず矛盾が伴います。 だからダメという意味ではありませんよ。 だからこそ読んでる方もツッコミを入れながら思考を巡らす、、、それは、批判を浴びながら読み手の問題意識を高める、著作物の宿命でしょう。 本書のレビューは、そういった説得力への矛盾や疑問をならべることとなりそうです。
前作では「自由に生きる”ため”」の「自由」の意味が不明でした。 別の著作で論じ済みとはいえ、本著では49ページに、それは「”さしあたり” 生きたいように生きられること」、と補足されています。 本書の主張を裏書きするためには「自由」への定義づけは非常に重要です。 なぜなら、「自由」は本著が主張する道徳教育の「目的」だからです。 「自由に生きる”ため”」なのですから。 ですから ”とりあえず式” の補足では困ります。 「自由」を論じ始めたらキリがないのは承知のうえですが目的があいまいなままでは、その後に展開する「道徳教育かくあるべし」の説得力は大幅ダウンとならざるを得ません。
帯にもありますが、道徳教育は学校でやることではない(今のままの学校の体制・道徳教育のままでは)、と論破しながら、学校での道徳教育の方法論が熱く語られる矛盾を指摘せざるを得ません。 自由を尊重しながら、”多様性を受け入れない自由”は否定されるのか、、、という矛盾が背中合わせです。 それは、多様性を受け入れない自由を欄外にする多様性、という矛盾に発展します。 自由はその矛盾を乗り越えない限りバイアスのかかった閉ループに陥ります。 そういった矛盾に対抗できる我慢とか自制心、もっというなら理性の確立が置き去りにされたままの道徳の方法論に、説得力はいぶかしいと感じます。
道徳とは絶対に正しい価値観ではなく、ある限定された ”習俗の価値” と繰り返しています。 したがって、そういう限定的な価値を学校教育で教えることに批判的です。 それはそうですね。 ですから、本当の多様性とは、著者の言う「ごちゃまぜ」な、同質性を廃した学校も”あってよい”、という多様性なのでしょうけれども、本来ならそれは、むしろ「特殊性」というべきではないでしょうか。
多様性に基づく自由の相互承認の重要性を哲学の知見を用いながら解説をすすめるのですが、そこにも疑問が湧いてきます。 他者の自由を侵害しない限り、という条件が腑に落ちないのです。 他者が、自由を侵害されたと思うことを当事者はどう感知するのでしょう。 「自由」の定義が不確定なままですから、「他者の自由」という定義はなおさら不確定です。 他者の自由を身勝手に解釈することが、「他者の自由を侵害しない限り」の前提では、すでに不道徳といわざるを得ません。 たとえの悪さを承知で言うなら、他者を殺してもいいという思想の自由(たとえば自己防衛。アメリカの銃社会など)、暴力を使うことを容認する自由、という価値観も存在します。 そういった自由との相互承認を得る、という自由は、否定されないのでしょうか。 それは倫理という別もので、ということになってしまうのでしょうか。 そういったことも、お互いの自由を調整し合うことができるのでしょうか。 事例が極端すぎて混乱します??
136ページあたりでは、校則と道徳の関係が述べられています。 ここも違和感を禁じ得ません。 画一的な校則には、統制と管理の効率化、という動機が潜んでいる、と批判的です。 ここでも、「学校は子どもたちに『自由の相互承認』の感度を育み、子どもたちが自由になることの力を育むためにあり、皆の自由が生かせるようルール作り合うところ」と繰り返しますが、果たしてそうでしょうか。 たとえば生徒も先生も、金髪ピアスや、アニメに出てくるキャラクターのようなミニスカ制服で、その自由の相互承認、自律的なルール作りは成功しといえますでしょうか。 束縛のない自由ってあるんでしょうか? ルールづくりすればいいってこと? 相互承認、というもっともらしいことばが曲者です。 なにか、自分たちさえよければいい、というニュアンスが含まれていませんか? 日本の全学校が「自分たちさえよければいい」という相互承認のベクトルを放射し続けたらどうでしょう。
校則とは、子どもたちの自由を縛り、教師が管理しやすくするものになってしまっている、と憂えていますが、校則って、そういうもんでしょう。
無言給食とか、無言清掃を、目的と手段を取り違えていると強く否定していますが、ちょっと過剰反応ではりませんか? ムダ話ばかりでダラダラしていることにケジメをつける学校ルールがコミュニケーションの阻害要因とまでいえるかどうか疑問です。 それを定期的に見直そうという柔軟な発想(つまり自由)が必要、との批判なら理解は可能ですが、、、。 公教育の本質は、「自由な」教育ではなく、「自由」に」なるための教育、、、ですもんね?
プロジェクト型の学びの重要性を論じていますが、ここにも違和感があります。 学ぶとは「探究」、というのは理解できますが、「言われたことを言われた通りに」はダメなんでしょうか。 学校で、カリキュラム通りに勉強を進めるのはダメなんでしょうか。 「探究」はたしかに重要ですが、そこに必要な「思考」は自分の身につけた知識を関連づける営みです。 定型ワークは基本ですし、それが確実に身につくほど、著者の連呼する「探究」がより展開されるのではありませんか? 定型ワークに基づく知識なしに、探究ばかりに前のめりでは、どこかで迷子になることは想像に難くありません。
「多様性を受容し自由を相互承認するため」に、”ごちゃまぜラーニングセンター” を提唱します。 年齢的、立場的に違う人がごっちゃになったクラス編成にそれが育まれる、というロジックなのでしょう。 でも、幼児としょっちゅう遊んでいる高校生って、それでいいのかなぁ? 同じことを同じペースで同じやり方で学ばせる大量生産型教育って、そんなにダメですかね? まずは、公平性と効率性の担保あっての公教育でしょう。 幼児と遊ぶ体験は、それこそ「学校外の社会」のなかで育むのが第一選択肢ではありませんか? ここでも、「道徳は学校でやるべきではない」との主張に矛盾します。 「画一的だから学校はきらい」なら、それでいいじゃないですか。 問題は、画一的でない多様性の経験が、学校以外の場でできないことでしょ? 学校を多様な人が集う相互刺激の場にしちゃって大丈夫ですか? やっかいな人ってたくさんいます。 そういう人が普通の教育の場に入り込んでくるわけです。 そこで自由の相互承認を維持しながら「探究心」を旺盛に発揮できますか? 道徳の目的は、多様性の受容に尽きると思います。 それを実践する場は学校ではない、と論じておきながら、学校を多様な人が集う相互刺激の場に、とは真逆の発想です。
「市民社会は、異なるモラルや価値観を持つ人たちが、他者の自由を侵害しない限りにおいて、その多様性を承認し合うこと、つまり『自由の相互承認』で成り立つ社会」、との説明は間違いではないと思いますが、それを道徳的とは思えません。 「他者の自由を侵害しないかぎり」の自由を認めることは、「迷惑をかけなければ何をしてもいい」ということになるからです。 「他者の自由を侵害しない」ということは、「自分さえよければいいという自由の行使」という非道徳的な姿勢と思えます。 他者に迷惑をかけない(自由を侵害しない)ことは、当たり前のことです。 特別な条件ではありません。 他者に迷惑をかけないのは当然として、「他者のためになる」ことが真の道徳的振る舞いではありませんか。
他者の自由を侵害しなければ、と条件づけるエクスキューズが、そもそも非道徳的な発想であり、その行く末が「自己中」といわれる「思考停止」症候群だったはずです。
道徳性とは相互承認の感度であり、教育とはその「自由の相互承認」の感度を育むことを土台に、「自由」に生きるための力を育むコトを根本使命とする、と喝破します。 それはそのとおりですね。 しかし、本書を拝読したかぎり、その施策を実際の学校現場に落とし込むには相当のムリを感じます。 著者の主張する多様性(の尊重)は、じつは公教育の同質性と混同させた”特殊性”ではないでしょうか。 学校の画一的同質性は道徳に反することではなく道徳心を育むための基本であり、多様性の受容(つまり道徳)は学校とは違う場で行えるよう峻別が必要と考えます。 著者のチャレンジング精神には敬意を表しますが、その点で著者の主張に賛同しきれず、この星の数とさせていただきました。
ほんとうの道徳 (日本語) 単行本(ソフトカバー) – 2019/6/10
苫野一徳
(著)
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本の長さ192ページ
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言語日本語
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出版社トランスビュー
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発売日2019/6/10
-
ISBN-104798701718
-
ISBN-13978-4798701714
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商品の説明
著者について
1980 年兵庫県生まれ。熊本大学教育学部准教授。哲学者、教育学者。主な著書に、『どのような教育が「よい」教育か』(講談社選書メチエ)、『教育の力』(講談社現代新書)、『「自由」はいかに可能か』(NHKブックス)、『子どもの頃から哲学者』(大和書房)、『はじめての哲学的思考』(ちくまプリマー新書)、『「学校」をつくり直す』(河出新書)がある。幼小中「混在」校、軽井沢風越学園の設立に共同発起人として関わっている。
登録情報
- 出版社 : トランスビュー (2019/6/10)
- 発売日 : 2019/6/10
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 192ページ
- ISBN-10 : 4798701718
- ISBN-13 : 978-4798701714
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2019年6月26日に日本でレビュー済み
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義務教育において「道徳の時間」が「道徳科」に格上げされた。学習指導要領の総則には「学校における道徳教育は、道徳科を要として学校の教育活動全体を通じて行うもの」と明示されている。
このように「道徳」という言葉は、よくも悪くも今の教育制度を読み解くうえで看過できないキーワードのひとつになっている。だが、改めて「道徳」とは何かと問われ、明快な答えを返せるだろうか。
著者は本書の第1部でその答えを述べている。論旨は下記のようになる。
「『道徳』とは、絶対に正しい価値観ではなく、ある限定された『習俗の価値』である。近代社会でそのようなものを学校で教えると、異なる価値観との対立を促すことになりかねない。学校が教えるべきは『自由の相互承認』たる『倫理』である。換言すれば、学校は『道徳教育』ではなく『市民教育』をすべきである。だが、今の学習指導要領では『道徳教育』が大半を占めてしまっている」。
この第1部を読み、これまで学校の「道徳」に抱いていた違和感の真因を理解することができた。「道徳」の正体が「習俗の価値」であると知り霧が晴れる思いであった。この部を読むだけでも、本書を手にとる価値はある。
第2部では学習指導要領と折り合いをつけた道徳教育のアイデアが提示され、第3部では市民教育の観点からこれからの学校のあるべき姿が語られる。「道徳科」の現状を哲学的に批判するだけで終わらないところに、本書の真価を垣間見る。
「道徳」という言葉を曖昧なまま放置しておくわけにはいかなくなった今、ぜひ読んでおきたい一冊である。
このように「道徳」という言葉は、よくも悪くも今の教育制度を読み解くうえで看過できないキーワードのひとつになっている。だが、改めて「道徳」とは何かと問われ、明快な答えを返せるだろうか。
著者は本書の第1部でその答えを述べている。論旨は下記のようになる。
「『道徳』とは、絶対に正しい価値観ではなく、ある限定された『習俗の価値』である。近代社会でそのようなものを学校で教えると、異なる価値観との対立を促すことになりかねない。学校が教えるべきは『自由の相互承認』たる『倫理』である。換言すれば、学校は『道徳教育』ではなく『市民教育』をすべきである。だが、今の学習指導要領では『道徳教育』が大半を占めてしまっている」。
この第1部を読み、これまで学校の「道徳」に抱いていた違和感の真因を理解することができた。「道徳」の正体が「習俗の価値」であると知り霧が晴れる思いであった。この部を読むだけでも、本書を手にとる価値はある。
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「道徳」という言葉を曖昧なまま放置しておくわけにはいかなくなった今、ぜひ読んでおきたい一冊である。
2019年6月28日に日本でレビュー済み
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2018年度から小学校で、2019年度からは中学校で「道徳」が正式に教科として子ども達に教えられるようになった。しかし、この道徳教育には様々な疑問がある。そもそものきっかけは2011年の大津市のいじめ事件のようだが、安倍総理を始めとする保守派の政治家達による画策もあり、子ども達を国に従順な人間にしようとしているというきな臭い情報もある。恐らくそれらは事実だと思うが、もう決まってしまったものは仕方が無いので、実りある道徳教育を行うにはどうすれば良いかを考えていくのが本書の内容である。
基本的に、学校教育では多くの子ども達を画一的に教えるシステムが使われている。しかしこれでは、子ども達の自主性・発想力・行動力などが磨かれない。道徳教育ならなおさらだ。著者が、学校では本来道徳教育を行うべきではないと主張する所以である。
ならどうすれば良いのか?従来の道徳教育を一歩推し進めて、市民教育を行うべきである。人間は、全て社会に所属しているが、そこには様々な派閥や価値観(習俗の価値)がある。それらを統一する事など不可能だから、それぞれの自由を尊重し合う事が最重要である。(自由の相互承認)その為にルールが必要になってくる。これらの内容を子ども達に教えなければならないと、著者は説く。非常にヘーゲルの影響が強い。
まずは子ども達に、物事の本質を洞察し言葉化する「本質洞察」の為の対話をさせてみるべきだ。例え本質が分からなかったとしても、それぞれの共通了解を得るまでは、最低限続けさせる。道徳の有名な教材として、「星野君の二塁打」がある。果たして、星野君は間違っていたのか、例え監督の指示に背いたとしても勝つ事が重要なのではないのか、勝つ事よりも選手が楽しくプレイする事も大切だ、などと、様々な意見が飛び出すだろう。先入観にとらわれず、真っ新な頭で考えなければならない。
対話が終わったら、次は実践だ。子ども達にルール作りをさせる。従来、ルールは上から与えられるものばかりだが、市民性を身につけるには、自分達のルールを自主的に作る事が最適だ。自分達で作ったルールには不満を持ちにくく、従いやすい。
本書は哲学書という訳ではないが、著者の哲学に対する学識が存分に活かされている。正直なところ、哲学にはあまり詳しくない自分のような人間にも、哲学の面白みが伝わってきた。
基本的に、学校教育では多くの子ども達を画一的に教えるシステムが使われている。しかしこれでは、子ども達の自主性・発想力・行動力などが磨かれない。道徳教育ならなおさらだ。著者が、学校では本来道徳教育を行うべきではないと主張する所以である。
ならどうすれば良いのか?従来の道徳教育を一歩推し進めて、市民教育を行うべきである。人間は、全て社会に所属しているが、そこには様々な派閥や価値観(習俗の価値)がある。それらを統一する事など不可能だから、それぞれの自由を尊重し合う事が最重要である。(自由の相互承認)その為にルールが必要になってくる。これらの内容を子ども達に教えなければならないと、著者は説く。非常にヘーゲルの影響が強い。
まずは子ども達に、物事の本質を洞察し言葉化する「本質洞察」の為の対話をさせてみるべきだ。例え本質が分からなかったとしても、それぞれの共通了解を得るまでは、最低限続けさせる。道徳の有名な教材として、「星野君の二塁打」がある。果たして、星野君は間違っていたのか、例え監督の指示に背いたとしても勝つ事が重要なのではないのか、勝つ事よりも選手が楽しくプレイする事も大切だ、などと、様々な意見が飛び出すだろう。先入観にとらわれず、真っ新な頭で考えなければならない。
対話が終わったら、次は実践だ。子ども達にルール作りをさせる。従来、ルールは上から与えられるものばかりだが、市民性を身につけるには、自分達のルールを自主的に作る事が最適だ。自分達で作ったルールには不満を持ちにくく、従いやすい。
本書は哲学書という訳ではないが、著者の哲学に対する学識が存分に活かされている。正直なところ、哲学にはあまり詳しくない自分のような人間にも、哲学の面白みが伝わってきた。
2019年7月11日に日本でレビュー済み
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小学校の教師になりたての頃、道徳の授業は常に悩みの種だった。
特に、初任から高学年を担当することとなり、副教材の物語を読み解き、最後に自分事に一般化するお決まりの流れをどのようにすれば成功させられるかと、随分長い時間悩んだ。
一般的な授業の場合、賢い子どもであれば副読本を読み終わった時点で「どんな回答が必要か」ということがもうわかってしまう。そうであるのに、教師は発問を繰り返しながら主人公の心情の変化を読み取っていく。
「これは国語なのか?なんなのか。」
こうした疑問をベテランの先生方も持っていて、多くの人がわかっているようでよくわからない道徳の授業をやらざるを得ない状況であった。あくまで私が見てきた経験だが、そう間違っていないはずだ。
本書の提案は、大胆だ。
私のような悩みを抱えている教師の方々に光を与える提案が載っている。
特に、哲学対話のテーマ例は、
道徳の副読本を使用しながらも、児童と共に考えることのできるテーマをたくさん紹介してくれている。
本書が提示しているものは、道徳の授業についてのみならず、
学校教育全般にわたる児童観、教育観の再考を促してくれるでしょう。
これからの時代を生きる子供たちに、どんな力を育むべきなのか。
この点をまず、我々教師が真摯に考えるべきである。
その視点がない限り、子供の本音を引き出し、答えのない問いを考えるような手間のかかる授業を開発する意味すらつかめないはずだから。
道徳は、市民教育に変わるべきだ。
自由を守るためにルールが必要なのだ。
その合意を得るために考えていくことが市民教育だ。
子どもたちは自由を行使する経験が必要だ。
学校の中で、教師が子供たちと必要なルールを作り合い、協同探究者としての立場で
学級経営および道徳の授業を展開してきた。
そんな私にとってこの本は、大きなエネルギーと勇気を与えてくれる。
全ての教師に必読の本である。
「何が絶対に正しい道徳かで争うのはやめよう。代わりに、どんな道徳の持ち主でも、できるだけ自由に、そして、平和に共存できるための「市民社会のルール」を作り合うことだ。モラルの統一ではなく、ルールの統一を!」(要旨)
特に、初任から高学年を担当することとなり、副教材の物語を読み解き、最後に自分事に一般化するお決まりの流れをどのようにすれば成功させられるかと、随分長い時間悩んだ。
一般的な授業の場合、賢い子どもであれば副読本を読み終わった時点で「どんな回答が必要か」ということがもうわかってしまう。そうであるのに、教師は発問を繰り返しながら主人公の心情の変化を読み取っていく。
「これは国語なのか?なんなのか。」
こうした疑問をベテランの先生方も持っていて、多くの人がわかっているようでよくわからない道徳の授業をやらざるを得ない状況であった。あくまで私が見てきた経験だが、そう間違っていないはずだ。
本書の提案は、大胆だ。
私のような悩みを抱えている教師の方々に光を与える提案が載っている。
特に、哲学対話のテーマ例は、
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本書が提示しているものは、道徳の授業についてのみならず、
学校教育全般にわたる児童観、教育観の再考を促してくれるでしょう。
これからの時代を生きる子供たちに、どんな力を育むべきなのか。
この点をまず、我々教師が真摯に考えるべきである。
その視点がない限り、子供の本音を引き出し、答えのない問いを考えるような手間のかかる授業を開発する意味すらつかめないはずだから。
道徳は、市民教育に変わるべきだ。
自由を守るためにルールが必要なのだ。
その合意を得るために考えていくことが市民教育だ。
子どもたちは自由を行使する経験が必要だ。
学校の中で、教師が子供たちと必要なルールを作り合い、協同探究者としての立場で
学級経営および道徳の授業を展開してきた。
そんな私にとってこの本は、大きなエネルギーと勇気を与えてくれる。
全ての教師に必読の本である。
「何が絶対に正しい道徳かで争うのはやめよう。代わりに、どんな道徳の持ち主でも、できるだけ自由に、そして、平和に共存できるための「市民社会のルール」を作り合うことだ。モラルの統一ではなく、ルールの統一を!」(要旨)
2019年7月6日に日本でレビュー済み
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哲学的知見からの筆者の意見は、とても説得力があり、学校現場で是非、具体化して実行して欲しい。しかしながら、方法論的に迷いや不安がある教員がいるかもしれない。各現場で教員間の上下の関係なく互いに、授業内容や方法について、この本を土台にしてアイデアを生み出し、楽しく構築していくことも、子どもたちのお手本として映るのではないかと想像します。子どもたちの前で、子どもたちと一緒に行うことも面白い内容となり、子どもたちが教員と共に作った授業として、真剣味も増し、教師の心理的負担も軽減できるかもしれない。社会のための道徳教育にと願うなら、教師も子どもも楽しみ会話しながら、この教科を発展させて欲しい。将来の日本を担う人間力を育む大切な教科にもなりそうだ。自由の相互承認の心を培うことで、子どもも、大人も互いの違いを認め合い、多様性を受け入れて幸せな日本になればと、つくづく考えさせられました。
とても、素晴らしい本です。現代社会の問題に照らしながら、こころの奥深いところで、読んでいただきたいです。
とても、素晴らしい本です。現代社会の問題に照らしながら、こころの奥深いところで、読んでいただきたいです。
2019年11月7日に日本でレビュー済み
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道徳教育が最近話題になる中で、「定食型授業」や「国語と道徳の時間」の違いなどが論点になることが少なくない。
そういった中で、「道徳」の捉えを再考するきっかけになるかもしれない。
そういった中で、「道徳」の捉えを再考するきっかけになるかもしれない。