著者は真実は一つであり、その入り口は生と死が交差する「臨終の現場」であるとしている。死を頭でとらえようとするからまったく理解ができない。そうではなく死を五感で認識すれば「生死一如」である真理が見えてくる。その最大の方法は「臨終にたちあうこと」であるという。
死の現場に接したことがある人には「難しいようで簡単」の一冊といえる。
旅の切符は事前に購入しておくべきだ。
つまり、自分の死が訪れる前に、ここに書かれている内容を自分なりに咀嚼し、限られた人生を有意義にするために自分のエネルギーを使っていきたい。そう思わせる一冊である。
著者は死を論じているのではなく、「生と死は分けて考えるべきではない」と主張しているのではないか。本書は死にフォーカスすることで生と死をきり離さないように展開しているだけであり、決して「死のための本」ではない。生と死が同じ真理の中に存在することをしる本である。
何もかも分けて考える現代社会に
「永遠とは何か」、「真理とは何か」、「いのちとは何か」を問いかける貴重な一冊と言えよう。
この商品をお持ちですか?
マーケットプレイスに出品する

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません 。詳細はこちら
Kindle Cloud Readerを使い、ブラウザですぐに読むことができます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
それからの納棺夫日記 単行本 – 2014/2/15
青木 新門
(著)
購入を強化する
アカデミー賞受賞映画「おくりびと」の原案者が、映画では描かれなかった「生」と「死」の本当の意味は・・・。このたび、その後の「納棺夫日記」が一冊の本になりました。生と死を見つめ、命を繋いでいくことの大切さも実感できるお話です。
- 本の長さ171ページ
- 言語日本語
- 出版社法藏館
- 発売日2014/2/15
- ISBN-104831864269
- ISBN-13978-4831864260
この商品を見た後に買っているのは?
ページ: 1 / 1 最初に戻るページ: 1 / 1
商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
アカデミー賞受賞映画「おくりびと」では描かれなかった、「生」と「死」の本当の意味。「死ぬ」とは、どういうことか―?
著者について
詩人・作家。1937年、富山県(下新川郡入善町荒又)生まれ。早稲田大学中退後、富山市で飲食店「すからべ」を経営する傍ら文学を志す。吉村昭氏の推挙で「文学者」に短編小説「柿の炎」が載るが、店が倒産。1973年、冠婚葬祭会社(現オークス)に入社。専務取締役を経て、現在は顧問。1993年、葬式の現場の体験を「納棺夫日記」と題して著わしベストセラーとなり全国的に注目される。なお、2008年に『納棺夫日記』を原案とした映画「おくりびと」がアカデミー賞を受賞する。 (本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
青木/新門
詩人・作家。1937年、富山県(下新川郡入善町荒又)生まれ。早稲田大学中退後、富山市で飲食店「すからべ」を経営する傍ら文学を志す。吉村昭氏の推挙で「文学者」に短編小説「柿の炎」が載るが、店が倒産。1973年、冠婚葬祭会社(現オークス)に入社。専務取締役を経て、現在は顧問。1993年、葬式の現場の体験を「納棺夫日記」と題して著しベストセラーとなり全国的に注目される(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
詩人・作家。1937年、富山県(下新川郡入善町荒又)生まれ。早稲田大学中退後、富山市で飲食店「すからべ」を経営する傍ら文学を志す。吉村昭氏の推挙で「文学者」に短編小説「柿の炎」が載るが、店が倒産。1973年、冠婚葬祭会社(現オークス)に入社。専務取締役を経て、現在は顧問。1993年、葬式の現場の体験を「納棺夫日記」と題して著しベストセラーとなり全国的に注目される(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
Kindle化リクエスト
このタイトルのKindle化をご希望の場合、こちらをクリックしてください。
Kindle をお持ちでない場合、こちらから購入いただけます。 Kindle 無料アプリのダウンロードはこちら。
このタイトルのKindle化をご希望の場合、こちらをクリックしてください。
Kindle をお持ちでない場合、こちらから購入いただけます。 Kindle 無料アプリのダウンロードはこちら。
登録情報
- 出版社 : 法藏館 (2014/2/15)
- 発売日 : 2014/2/15
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 171ページ
- ISBN-10 : 4831864269
- ISBN-13 : 978-4831864260
- Amazon 売れ筋ランキング: - 398,886位本 (の売れ筋ランキングを見る本)
- - 534位死生観
- カスタマーレビュー:
カスタマーレビュー
5つ星のうち4.2
星5つ中の4.2
11 件のグローバル評価
評価はどのように計算されますか?
全体的な星の評価と星ごとの割合の内訳を計算するために、単純な平均は使用されません。その代わり、レビューの日時がどれだけ新しいかや、レビューアーがAmazonで商品を購入したかどうかなどが考慮されます。また、レビューを分析して信頼性が検証されます。
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2015年1月28日に日本でレビュー済み
違反を報告する
Amazonで購入
9人のお客様がこれが役に立ったと考えています
役に立った
VINEメンバー
Amazonで購入
ベストセラー『納棺夫日記』の著者が、同書の出版後の反響や、同書を原案とする映画「おくりびと」のブームをうけた世間の動きをふまえ、改めて自らの心境をつづった作品である。著者は『納棺夫日記』を、納棺夫の体験記である以上に、自己の宗教(仏教)に対する思いを語るための本として世に送りだした。だが「宗教」に対する無理解ゆえのアレルギー反応を起こしやすい日本の少なからぬ読者やほとんどの一般メディアは、「宗教」を黙殺ないしはそれに反発するかたちで同書を受容した。自分の伝えたかったことがろくに理解されていない、という違和感と苛立ちのもと、本書は現代において再び著者の考え信じるところの「宗教(仏教)」の意義を問うために、世に放たれた。
ご遺体にわいた蛆が光り輝く。人が死を迎え入れた瞬間に、光に出あう。そうした光の体験の意味を探究した果てに、著者はまさに著者独自の観点から、釈尊の悟りや、親鸞の救済論とは何であったのかを考え抜いていく。その探究の言葉は、大学や教団で説かれている仏教学や真宗学の説明や教理からは「誤解」や「偏見」として受け取られる可能性が高い。だが、そこには著者が自らの人生をかけて彫琢してきた表現の切実さがあり、深い実感がこもっている。学問的に正しかろうと無味乾燥な言葉より、明らかに強い。宗教とは、仏教とは何なのか。真摯に向き合ってそこから何かを受け取るべき大事なメッセージがそこには多分に含まれている。
ご遺体にわいた蛆が光り輝く。人が死を迎え入れた瞬間に、光に出あう。そうした光の体験の意味を探究した果てに、著者はまさに著者独自の観点から、釈尊の悟りや、親鸞の救済論とは何であったのかを考え抜いていく。その探究の言葉は、大学や教団で説かれている仏教学や真宗学の説明や教理からは「誤解」や「偏見」として受け取られる可能性が高い。だが、そこには著者が自らの人生をかけて彫琢してきた表現の切実さがあり、深い実感がこもっている。学問的に正しかろうと無味乾燥な言葉より、明らかに強い。宗教とは、仏教とは何なのか。真摯に向き合ってそこから何かを受け取るべき大事なメッセージがそこには多分に含まれている。
ベスト500レビュアー
著者は、映画「おくりびと」の原著者である。
しかし、名前の表示は断わった。ホームドラマ風になっていたのである。但し、映画としては、良い出来としている。
著者は、納棺の現場で蛆が光って見える体験をしている。
人間社会に生きているという事は、そのような状態になる事を邪魔する業繋に縛られているということでもある。
だが、死に臨んで世の中が輝いて見える人は多くいる。
著者によると、近代小説は宗教を扱ってはならないとする約束事がある。
人間親鸞、人間空海など宗教者の人間の部分を扱う程度にして置かねばならない。
著名な近代作家たちに見られる自殺は、小説(フィクション)という己が築いてきた虚構世界の価値観の正当性を維持出来なくなったからではないだろうか。そこには、我が絡んでいるように思える。
死には、激励も、説法も、言葉も、善意も不要である。ただ、立ち会えば良い。
著者は、納棺夫になってから仏教(親鸞)に興味を持つようになった。あの蛆の光、無量光、無碍光、いのちの光、如来の光明である。
親鸞は、「大無量寿経」を真実の教えであると断言している。その理由は、このお経の中にある釈迦の「光顔巍々」の様子によってである。
個(自我)中心によって構成されている今日の社会に於いては、我執に囚われて物事を分別(二元論)し、そのため「個の生」に執着し、「死」を厭うという生き方となった。老若・美醜・善悪等々全てがそういう構造となっている。
だが、本来無分別即ち一如なのだ。
著者は、妙好人のような人がこの世に居れば遭いたいと思っていたところスイス人の真宗僧侶ジャン・エラクルという人に出会った。
そしてその顔は、まさに「光顔巍々」としていたのであった。
道元は、「生から死へとうつるとこころうるは、これあやまりなり」と云っている。
冷静に考えれば、時間・空間は自我が創った抽象概念である。
人は、言語を持ったことにより概念に自縛されるに至った。
生死一如とは、分別してはならない眼前のままに生きよという事である。
近代人は、生命(いのち)と自我を取り違えたのである。その結果、社会の価値観も顛倒してしまった。
抑制の利いた硬質で立派な作品であった。
しかし、名前の表示は断わった。ホームドラマ風になっていたのである。但し、映画としては、良い出来としている。
著者は、納棺の現場で蛆が光って見える体験をしている。
人間社会に生きているという事は、そのような状態になる事を邪魔する業繋に縛られているということでもある。
だが、死に臨んで世の中が輝いて見える人は多くいる。
著者によると、近代小説は宗教を扱ってはならないとする約束事がある。
人間親鸞、人間空海など宗教者の人間の部分を扱う程度にして置かねばならない。
著名な近代作家たちに見られる自殺は、小説(フィクション)という己が築いてきた虚構世界の価値観の正当性を維持出来なくなったからではないだろうか。そこには、我が絡んでいるように思える。
死には、激励も、説法も、言葉も、善意も不要である。ただ、立ち会えば良い。
著者は、納棺夫になってから仏教(親鸞)に興味を持つようになった。あの蛆の光、無量光、無碍光、いのちの光、如来の光明である。
親鸞は、「大無量寿経」を真実の教えであると断言している。その理由は、このお経の中にある釈迦の「光顔巍々」の様子によってである。
個(自我)中心によって構成されている今日の社会に於いては、我執に囚われて物事を分別(二元論)し、そのため「個の生」に執着し、「死」を厭うという生き方となった。老若・美醜・善悪等々全てがそういう構造となっている。
だが、本来無分別即ち一如なのだ。
著者は、妙好人のような人がこの世に居れば遭いたいと思っていたところスイス人の真宗僧侶ジャン・エラクルという人に出会った。
そしてその顔は、まさに「光顔巍々」としていたのであった。
道元は、「生から死へとうつるとこころうるは、これあやまりなり」と云っている。
冷静に考えれば、時間・空間は自我が創った抽象概念である。
人は、言語を持ったことにより概念に自縛されるに至った。
生死一如とは、分別してはならない眼前のままに生きよという事である。
近代人は、生命(いのち)と自我を取り違えたのである。その結果、社会の価値観も顛倒してしまった。
抑制の利いた硬質で立派な作品であった。