本書は、雨宮処凛が6人の論者と伴走しながら自身の「内なる優生思想(内なる植松)」の果てに何かを見い出そうとする鍛錬本であり、筆者にとってはハイライト(付箋)を付けまくるくらい重要な箇所が多い必読の書だった。
知識人たちからは、自分には理解不能という前提で、優生思想が語られがちだが、雨宮は、私自身の「内なる植松」との対話であると言い切った。
それだけでも、本書の価値がある。優生思想を語るには自分も当てはめて考え自問自答しなければならないつらい作業が伴うからだ。
相模原殺傷事件を引き金に、杉田水脈の「LGBT発言」で起きた『新潮45』廃刊事件から、川崎事件と練馬事件双方の反応の差(「一人で死ね」と「責任感のある父親だ」の不均等さ)に重ねる「8050(7040)問題」、安楽死・尊厳死をめぐる論争まで取り上げられることは予測できたが、出生前診断にまで展開するとは思わなかった。
下手をするとどのような理由であっても中絶は全面否定になりかねないことを、やんわりではあるが、警鐘を鳴らしたのは、雨宮でなく第3章の論者、岩永直子だったが。
「日本の財源にまだ余裕があるのではないか」と問う接見に来た教授に「ぼけてんじゃないよ」と反発する植松被告の気持ちが少しだけわかる、そして自身の中にある「内なる植松」を聞きたいと明かす雨宮はやはり少しだけその扉を開けようとしている。
「私自身も高齢者バッシングに乗ってしまいそうな瞬間があった」と序章で赤裸々に語る雨宮は、踏みとどまったと言いながら、今でもまだ迷走していることを隠さない。
「世代間格差を持ち込むのは良くないと言われても、体感として、どこか貧乏くじを引いた感はすごくある」、「『人権』という言葉への不信感は私にもありました」こと、右翼時代にはあった戦後民主主義的な正しさに対する反発も決して隠さないことも、ロスジェネ世代のど真ん中で左右双方の経験値があるからこそ雨宮の人間としての幅の広さになっている。
とは言うものの、その雨宮にも障害者の意見を一括りにしてしまう危険性もある。
「私は生まれ変わっても障害のある自分がいい」という意見はあくまで個人的意見で、障害者の代表的意見とは言えない。
有り体に言えば、健常者に都合のいい意見だし、全ての障害者が同じ考えということはない。患者なりに近未来の医療についての考えを摘んでしまうことにもなりかねない。
後天的な障害者が、自身の逸失利益を考える場合もあるし、必ずしも障害者というカテゴリーに関係のない特技を持つ障害者アート(アウトサイダーアート)はどうだろう。健常者にあるように、障害者にも承認欲求も欲望もあるし、心に闇も抱えている。障害者は聖なるものではない。
ただ「障害者には生産性がない」という批判に対して、「いや、生産性はある」と返すのはダメというのはわかるし、医療従事者側の偏見を認め、その理由の一つに従事者側も最前線で振り回される立場だと第2章の論者、熊谷晋一郎が論じる内容を否定するつもりもない。
第4章の論者、杉田俊介との対談は、まさにかつてのロスジェネ論壇の同窓会のようなものだ。この同窓会で必ず取り上げられることが決まっているような
「希望は戦争」と叫んだ同じロスジェネ世代で同じように左右をリバースする赤木智弘は雨宮の「一卵性双生児」と言ってもいい。
杉田自身もロスジェネ論壇の中にも団塊世代や高齢者への敵意があったことを告白している。
植松と世代が違うロスジェネ世代がはからずもシンクロを果たしてしまうのは皮肉といえば皮肉か?
雨宮もいつか京アニ事件にもいずれ辿り着くのだろう。
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