「完璧な文章なんて存在しない」と村上春樹が書いたのはもう30年近く前の話になるけど、私はこの作品を読んで「完璧な小説ならば存在するかもしれない」と、思いました。思ってしまいました。
長編では、時には冗長で退屈に感じられる時間がどうしても発生してしまいがちというイメージが「文学作品」とやらには付き物だけど、本作はそんな偏見をあっさりと打ち破ってくれます。
”後日、この日のことを大学の友人に伝えた。友人達はそんなにかわいいならその子を紹介しろと言ったが、ぼくはその反応に苛立った。Mの女の子としての魅力を伝えたかったんじゃない。自転車を買いに行く、たったそれだけのことでこんなにもチャーミングな一日が訪れるということ--それを伝えたかったのだ。(作中から引用)”
”私は「カタツムリの瞬間移動」を思い浮かべた。カタツムリはほとんど動いていないように見えるけれど、ちょっと目を離すと、いつの間にか別の場所に移動している。それはカタツムリがあんまりのろのろしているから、いつまでも見続けていられないせいなのだけれど、そののろさがなおさらカタツムリの移動を神秘的なものとして印象づける。ミユキの生き方には、どこかそういう飛躍的なところがあった。そのことを彼女に告げようとしたが、「カタツムリ」は褒め言葉ではないのでやめた。(作中から引用)”
上記のような「テクストそのものの躍動」を感じさせてくれるような箇所が随所に設けられています。
他にも。
カウボーイについて、言葉の奇形について、11.5cmについて。
著者は魅力的でパワフルな文章を実現してくれています。
でも、本作は総合小説です。少なくとも、そう言いたくさせる何かが本作にはあるように感じられます。
たくさんの登場人物がこれまたたくさん持論を展開していますが、皆がいつの間にか、その根底に同じもの、同じテーマについて話しているように思えてきます。その「根底」を一言で表現するのを、著者は本作において、ひたすら嫌います。(嫌っているように感じられます)。その姿勢だけは、主人公の姿と重なるようにして、一貫しているように思われます。
本作において著者の結論が出ているかどうか、は私には残念ながらわかりませんでした。でもそんな私ですら、「これは読んでおかないとヤバい」と思ったのです、読み終わったあとに、ですけど。
白状すると、私もこの作品を著者である高橋さんが企画してくださった無料キャンペーンで手に入れた1人です。こんなにも「冷たい斧で打ち砕かれた」と感じた私ですら、お金を出して本作を買っていない現状には、どこか違和感を覚えずにはいられません。なぜ私はこれを買わなかったのだろうか。申し訳ない気持ち以上に、現代文学の歪み、その根深さを感じた瞬間でした。
あえて本作の欠点を指摘させていただくとすれば、物語そのものが美しすぎるところでしょうか。美しすぎるパッケージ性は時にリアリティさに欠けていると思われる人もいるかもしれません。もっともその美しさを気にする余裕は私にはありませんでした。ただただ、テキストから成る物語のパワーに圧倒されるばかりでした。
今作の文中には「カフカの原稿の編集人であり、カフカの友人でもあるマックス・ブロート」に関する考察が度々書かれています。
なぜカフカはマックス・ブロートにだけ書かれることのなかった「ある作品の結末」を漏らしたのか。カフカがマックスには「原稿を燃やしてくれ」とは言いながらも、それが燃やされることはないと思惑していたのではないか、などなど。
でも私は本作を読んだことで、
カフカはたぶん、マックス・ブロートに本当の結末を言えなかったのではないのかなという妄想的結論に至ったのです。
「言わなかった」のではなく「言えなかった」。そんな妄想すら、させられてしまうほどに、力強い小説でした。
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