今回読み直してみて、以前に読んだ時はヒンズー教で使われる言葉の意味もわからなかったということもありましたが、瞑想と探究の違いを理解できていませんでした。
編者序文で「訪問者に対して、彼(マハルシ)はつねにより高度な教えを説こうと試みてきたが、彼らが教えを受け入れようとしなかった時だけ、彼は教えの調子を弱め、より相対的なレベルから話したのだった。」と書かれています。
つまり相対的なレベルの教えである瞑想と高度な教えである探究の違いを以前読んだ時に、理解できていませんでした。章ごとの編者の解説もわかりやすく理解の参考になりました。
覚者の真理に関する教え、真理の見方の説明には「本来の自己」についてと「現象世界の見方」についての2種類あるので、違いを理解していないと混乱します。
真理の見方は修練・修行法ではないこと。
修行法(瞑想等)とは「真理の見方の障害を除くための、修行者のためのもの」で真理そのものではないという理解も必要です。
印象に残った言葉として、
「電源を切ったあとでも、しばらくの間、扇風機は回りつづけている。それと同じようにプラーラブダ(宿命のカルマ)は身体を作り出し、何であれ運命づけられた行動をそれが通っていくように強いるだろう。だが、ジニャーニは行為者であるという観念をもたないまま、それらの行動を通り抜けていく。どうしてそのようなことが可能なのかを理解するのは難しい。」P71
「アジニャーニはある人をジニャーニと見なし、彼を身体と同一視する。それは彼が真我を知らず、身体を真の自己と見なすからだ。そのため、ジニャーニも身体だと考えてしまうのである。」P72
「また、アジニャー二は行為者ではないにもかかわらず、身体の行なう行為を自分がしていると考え、自分を行為者と見なす。そのため、ジニャーニの身体が活動的であるのを見て、彼が行為者と見なしてしまうのである。」P72
「私達は眠りの状態(スシュプティ)において身体や心と関係を持たずに存在しています。しかし目覚めと夢見の状態の中では身体や心と関係しています。もし私達が身体とともにあるというなら、どうして眠りの状態の中では身体なしに存在していたのでしょうか?私達は自分の外側にあるものから自分を分離することはできますが、自分と一つであるものから分離することはできません。それゆえ、自我は身体と一つではないのです。これが目覚めの状態において理解されなければなりません。アヴァスター・トラヤ(目覚め、夢見、深い眠りの三つの状態)を学ぶことによって得た確信をもとに、二つの合間を認識しなさい。」P489
「自我が姿を現すとき、それはあらゆるものをともなって現れ、自我が沈みゆくとき、すべてがそれとともに消え去るのです。」P489
「曇り空の夜に目に見えるのは暗闇だけで、目を見開いても対象物を個別に見極めることは不可能です。同様に眠りの状態では、見る者はただ無知だけに気ついているのです。」P490
熟睡状態の中で「私」という想念は消え去ってしまいますが、今はあります。
どこからこの「私」が立ち現れて来るのかを見るように。
想念を鎮めても、また再び想念は起こってくる。
「私」という想念は、その源を探ることによってのみ終焉するとマハルシは指摘しています。
(追伸)絶版だった「ラマナ・マハリシの教え」の改訂新版が出版されています。(2019.7)
質疑応答が非常に分かりやすくまとめられていたので、そちらもお勧めします。
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