人間のおかす、逆さまな物事の捉え方を指摘しています。
かならず裏切る肉体のために、われわれは他の生命にとんでもなく残酷
なことをして生きているのだと知らされます。
一読をおすすめします。
あべこべ感覚―役立つ初期仏教法話7 (サンガ新書) (日本語) 新書 – 2008/5/1
アルボムッレ スマナサーラ
(著)
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本の長さ195ページ
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言語日本語
-
出版社サンガ
-
発売日2008/5/1
-
ISBN-104901679716
-
ISBN-13978-4901679718
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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
「人生は楽しい」と考えても、実際の人生は「苦」ばかり。「私は死なない」と思っても、人間には必ず「死」が訪れます。―「世の中の考え」と「お釈迦さまが言うこの世の真理」はあべこべです。それは、私たちがものごとを勝手に捏造していることが原因なのです。あべこべ感覚でものごとをさかさまに理解していたら、いくら努力しても幸福になれるはずはありません。真の幸福と成功と安らぎを得るために、ものごとをありのままに知るお釈迦さまの道をご紹介します。
抜粋
お釈迦さまからみれば、実際は皆、あべこべ感覚で生きています。では、なにとなにが、あべこべなのでしょうか? 「本当のこと」と「世の中の考え」が、あべこべです。「お釈迦さまが言うこの世の真理」と「あなたを含めた世間一般の認識」と言い換えてもよいでしょう。具体的な例を挙げてみましょう。たとえば、人生は苦しいものです。これは真理です。しかし、皆、「人生は楽しい」と思って暮らしています。人間はいつか死にます。これも当たり前のことです。それなのに世の中の人々は「私は死なない」という幻想を抱いて生きています。
著者について
アルボムッレ・スマナサーラ Alubomulle Sumanasara
スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)長老。1945年4月、スリランカ生まれ。スリランカ仏教界長老。13歳で出家得度。国立ケラニヤ大学で仏教哲学の教鞭をとる。1980年に来日。駒澤大学大学院博士課程を経て、現在は(宗)日本テーラワーダ仏教協会で初期仏教の伝道と瞑想指導に従事している。朝日カルチャーセンター(東京)の講師を務めるほか、NHK教育テレビ「こころの時代」などにも出演。著書に『ブッダの実践心理学』、『怒らないこと』(以上サンガ)、『原訳「法句経」一日一悟』(佼成出版社)、『「やさしい」って、どういうこと?』(宝島社)、『ブッダの幸福論』(筑摩書房)などがある。
スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)長老。1945年4月、スリランカ生まれ。スリランカ仏教界長老。13歳で出家得度。国立ケラニヤ大学で仏教哲学の教鞭をとる。1980年に来日。駒澤大学大学院博士課程を経て、現在は(宗)日本テーラワーダ仏教協会で初期仏教の伝道と瞑想指導に従事している。朝日カルチャーセンター(東京)の講師を務めるほか、NHK教育テレビ「こころの時代」などにも出演。著書に『ブッダの実践心理学』、『怒らないこと』(以上サンガ)、『原訳「法句経」一日一悟』(佼成出版社)、『「やさしい」って、どういうこと?』(宝島社)、『ブッダの幸福論』(筑摩書房)などがある。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
スマナサーラ,アルボムッレ
スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)長老。1945年4月、スリランカ生まれ。スラリンカ仏教界長老。13歳で出家得度。国立ケラニヤ大学で仏教哲学の教鞭をとる。1980年に来日。駒澤大学大学院博士課程を経て、現在は(宗)日本テーラワーダ仏教協会で初期仏教の伝道と瞑想指導に従事している。朝日カルチャーセンター(東京)の講師を務めるほか、NHK教育テレビ「こころの時代」などにも出演(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)長老。1945年4月、スリランカ生まれ。スラリンカ仏教界長老。13歳で出家得度。国立ケラニヤ大学で仏教哲学の教鞭をとる。1980年に来日。駒澤大学大学院博士課程を経て、現在は(宗)日本テーラワーダ仏教協会で初期仏教の伝道と瞑想指導に従事している。朝日カルチャーセンター(東京)の講師を務めるほか、NHK教育テレビ「こころの時代」などにも出演(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2019年8月14日に日本でレビュー済み
スリランカ仏教(分別説部)は観察できる観察対象の感覚、概念、意思・思考と認識不可能な認識主体の自己・意識をまとめて心として、肉体・身体とあわせて五蘊としています。
観察できるものは観察の対象です。
観察できる怒らない私、慈悲の私は観察対象であって、認識主体の本来の自己・意識ではありません。
思考で生じた観察できる感覚、概念、思考を「自己・私の心」と誤解・錯覚している有身見そのものです。
世間の一般常識と同じ観察できる有身見の私が前提なので、誰でも特に修行をしなくても一般常識だけで理解できます。
出世間の真理は世間の処世術の常識とは関係ないから出世間です。
思考で生じた観察対象の怒らない私、慈悲の私などは思考が消える眠りとともに消滅して、起きると思考とともに現れる有身見の私、自我の錯覚です。
有身見は意識によって認識・知覚されている意識の中の見かけ、実体のない解釈、思考なので、思考のない熟睡中は怒らない私も慈悲の私も消滅して何も認識できません。
有身見は観察対象の身体と心を認識主体の本来の自己と同一視した勘違いの私、自我の錯覚です。
認識主体の本来の自己・意識が観察できる観察対象になることはありません。
観察できる観察対象の怒らない私、慈悲の私などは思考で生じた有身見の私そのもの、愚か者です。
思考のない身口意の沈黙、無分別智の賢者・覚者は観察対象の有身見の私を「知らない」「不識」です。
観察対象の身体と心を認識主体の本来の自己・意識と同一視すると身体と心を持った独立した「個人の私」という勘違いが起こります。
身体が生まれて名前を付けられて、身体と心を持った「個人の私」と私以外の世界に分離していると誰でも自然に錯覚します。
無我とは観察対象の身心を認識主体の本来の自己・意識と同一視した「有身見の私」は認識主体の本来の自己では無い、「我では無い」、意識ではない、独立した個人という実体はないということです。
世間の処世術の常識と出世間の教えの違いは、有身見「私の身体、個人の私・エゴ」を前提としているかどうかで区別します。
道徳は「私の身心」の行為に関することなので、社会生活上のマナー、規律です。
仏陀の智慧ではありません。
スリランカ仏教(分別説部)は、観察対象の私の怒りや欲を無くし、怒りの私を慈悲深い私に変えるなど、有身見の私、観察対象の私の改善を目指します。
前提としている観察できる私が「本当の私、認識主体の本来の自己」かどうか調べる必要があることを理解していません。
認識主体の本来の自己・意識を調べずに、観察対象の怒りや欲を無くして、欲のない私、慈悲深い私になることを教えます。
怒りの私も慈悲深い私も、思考で生じた有身見の私なので、思考が消滅する眠りとともに消滅して、起きると思考とともに現れる思考で生じた「私のイメージ」です。
思考がなく何も認識をしていない熟睡中も存在して生きている「私」の正体、自己・意識がどこから生じてくるのか、その源泉・故郷を知ることが必要なことです。
「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」 (道元禅師 正法眼蔵)
意識が観察対象の身体と心を認識しないと「自己=有身見の私」が消えて意識のみになります。
対象が消えると自他の区別・分離が消えて、全体と一つの本来の自己意識のみ、「存在の自覚」、身心脱落・脱落身心=有身見の消滅です。
熟睡中はサマディーの至福ですが、意識の自覚がないだけの休眠状態です。
ブッダは身体は寝ていても意識以前に存在する純粋な気づき、夢も見ない「目覚めた方」です。
私達は起きている時は意識が身体の感覚を使って外側を認識するので、身体に制限されます。
意識が身体と感覚を手放して意識の内側に入つていくことがありませんので、意識以前に存在する純粋な気づきのない、起きている時はいつも思考・概念で一杯の有身見の私の夢の中です。
「一人の個人として存在しながら人生を切り抜けていくという、見かけ上の経験に閉じ込められたままでいるかぎり、私達は夢を見ている状態で生きている。
その夢見の状態においては、何をしようとすべては見かけ上で相対の法則に支配されていて、その法則により、いわゆる肯定的行為はそれと釣り合う正反対の行為によって寸分の狂いもなく相殺される。
したがって、人生をうまくいかせたい、完璧を目指したい、個人として開放されたいといった動機でなされる個々の試みは、そのすべてが中和されることになる。」
「「秘密」とは分離がないということです。ところがそのことは、自分は誰かだと信じている間は秘密のままです。」(オープン・シークレット トニー・パーソンズ)
あるがままの完全を疑うことが「疑」です。ブッダの言葉を疑うことではありません。
真理を言葉で語ることなどできません。たとえ仏陀でも真理「そのもの」は語れません。
「百聞は一見にしかず」。愛も悲しみも、絶望も語れません。お茶の味すら語ることはできません。
真理「に関して」、「について」言及するのがせいぜいです。
真理「に関して」一度でも語ってしまうと、真理「そのもの」ではないので、その言葉の補足修正が必ず必要になり、その後もその補足訂正が必要なので切りがなく、八万四千の経典が出来て対機説法をするハメになりました。
「釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな」一休宗純
スリランカ仏教(分別説部)シャム派は、善悪の分別判断の絶対基準であるパーリ経典が教団存続の生命線です。
ブッダの話した「言語」がパーリ語だから「パーリ経典が仏陀の真理の言葉」で他の言語の経典は偽教典だと主張するのは、パーリ経典が真理の言葉かどうかは教団の存続に関わる生命線だからです。
パーリ語はお釈迦様の行ったことのない西インドの言語です。布教をした北東インドのマガダ語圏でパーリ語を話すわけがありません。
大乗仏教、般若心経、以心伝心、教外別伝、不立文字等が教える「真理は言葉では語れない」という事実は、パーリ経典が唯一の仏陀の語った「真理の言葉」だと主張するスリランカ仏教(分別説部)教団にとって、決して認めることができない不都合な真実です。
「真理はたとえブッダでも語ることはできないのに、ダンマパダ(真理の言葉)」。
現実歪曲空間に要注意です。
農民以上のカーストの男性でないと出家できないスリランカ仏教(分別説部)シャム派は、世間の常識と同じ私・個の「分別知」の教えなので、修行をせずに本を読んだだけで誰でも常識だけですぐに理解できますが、覚者の思考のない「無分別智の真理」を常識と同じ思考による「分別知の理性」で理解することなどとうてい不可能です。
言葉の繰り返しによる自己催眠の慈悲の瞑想では、カースト差別には何の慈悲もない偽り、偽善を証明しています。
農民よりも下のカーストは生きとし生ける者にも入りません。
慈悲は自他の区別のない一心同体、全体と一体になった境界の無い一つの生命という智慧の現われ、表現です。
慈悲と智慧は表裏一体、同じものです。
お母さんと赤ちゃんのように「一心同体」自他の区別も他者も存在しません。
自他の区別のある「上から目線の慈悲深い私」と「真理を知らないかわいそうな生きとしきる者」に分離した自己満足の偽善の慈悲や損得勘定の処世術ではありません。
慈悲の象徴でもある千手千眼観自在菩薩の手の平には智慧の眼が描かれています。
問題は「自他の区別のある偽りの慈悲」を育てている限り、偽りが自他の区別のない一心同体の真の慈悲に変化することはなく、偽りのままです。
因果法則は「生じた現象・思考が滅し、新たに現象・思考が生じる」前後際断が事実です。
「既存の現象・思考が変化」することはありません。変化は完全な錯覚・誤解です。
自他の区別のある偽りの慈悲が消滅する必要があります。
自他の区別のある偽りを育てているため永久に偽善の慈悲を保持し囚われることになる、エゴトリップ・巧妙な罠です。
暗闇で縄を蛇だと勘違いの思考を保持している限り、縄という正しい思考の理解は永久に生じません。
イミテーションゴールドが本物の金に変化することはありません。偽りを捨て去るだけです。
お釈迦様の行ったことのない西インドの言語のパーリ語のパーリ経典でさえ慈悲の言葉を唱えるようと書いてあるものなどないことに留意するべきです。
慈悲の言葉のバージョンも解釈も勝手に作り放題です。
思考によって自他の区別とエゴは同時に生じます。
自他の区別のあるカースト差別はそのままの「大衆」の教えではない上から目線のカースト上位の「上座部」仏教です。
「偽物を偽物と理解しなさい。それがあなたにできるすべてだ。あなたはあるものを別のものに変えることはできない。」
(意識に先立って ニサルガダッタ・マハラジ)
パーリ語はお釈迦様の行ったことのない西インドの言語です。
お釈迦様が生まれて布教をした北東インドのマガダ語圏で、行ったことのない西インドの言語のパーリ語を話すわけがありません。
証拠もないのに、仏陀の誕生と成道と涅槃を同じ日にしてしまうようないい加減な人たちに、2500年も前の、紀元前の言い伝えの口伝が元の教えを一字一句違わず伝えられると本当に思いますか。
「千の質問も、たくさんの瞑想法の知識も、自分を決して真理へと導かないということを知るようになる。」
「ダルマは限定的な世俗の科学による理解を超えた智慧です。」
「表面的な経典の学習は重要ではありません。正しい智慧を授けてくれるものではないのです。」
「自分自身の内面に向き合わないのなら、現実を知ることはありません。」
「三宝は私たちの師となり、ただ一つの生命の真の姿を明示しているのです。」
(アーチャン・チャー 手放す生き方)
観察できるものは観察の対象です。
観察できる怒らない私、慈悲の私は観察対象であって、認識主体の本来の自己・意識ではありません。
思考で生じた観察できる感覚、概念、思考を「自己・私の心」と誤解・錯覚している有身見そのものです。
世間の一般常識と同じ観察できる有身見の私が前提なので、誰でも特に修行をしなくても一般常識だけで理解できます。
出世間の真理は世間の処世術の常識とは関係ないから出世間です。
思考で生じた観察対象の怒らない私、慈悲の私などは思考が消える眠りとともに消滅して、起きると思考とともに現れる有身見の私、自我の錯覚です。
有身見は意識によって認識・知覚されている意識の中の見かけ、実体のない解釈、思考なので、思考のない熟睡中は怒らない私も慈悲の私も消滅して何も認識できません。
有身見は観察対象の身体と心を認識主体の本来の自己と同一視した勘違いの私、自我の錯覚です。
認識主体の本来の自己・意識が観察できる観察対象になることはありません。
観察できる観察対象の怒らない私、慈悲の私などは思考で生じた有身見の私そのもの、愚か者です。
思考のない身口意の沈黙、無分別智の賢者・覚者は観察対象の有身見の私を「知らない」「不識」です。
観察対象の身体と心を認識主体の本来の自己・意識と同一視すると身体と心を持った独立した「個人の私」という勘違いが起こります。
身体が生まれて名前を付けられて、身体と心を持った「個人の私」と私以外の世界に分離していると誰でも自然に錯覚します。
無我とは観察対象の身心を認識主体の本来の自己・意識と同一視した「有身見の私」は認識主体の本来の自己では無い、「我では無い」、意識ではない、独立した個人という実体はないということです。
世間の処世術の常識と出世間の教えの違いは、有身見「私の身体、個人の私・エゴ」を前提としているかどうかで区別します。
道徳は「私の身心」の行為に関することなので、社会生活上のマナー、規律です。
仏陀の智慧ではありません。
スリランカ仏教(分別説部)は、観察対象の私の怒りや欲を無くし、怒りの私を慈悲深い私に変えるなど、有身見の私、観察対象の私の改善を目指します。
前提としている観察できる私が「本当の私、認識主体の本来の自己」かどうか調べる必要があることを理解していません。
認識主体の本来の自己・意識を調べずに、観察対象の怒りや欲を無くして、欲のない私、慈悲深い私になることを教えます。
怒りの私も慈悲深い私も、思考で生じた有身見の私なので、思考が消滅する眠りとともに消滅して、起きると思考とともに現れる思考で生じた「私のイメージ」です。
思考がなく何も認識をしていない熟睡中も存在して生きている「私」の正体、自己・意識がどこから生じてくるのか、その源泉・故郷を知ることが必要なことです。
「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」 (道元禅師 正法眼蔵)
意識が観察対象の身体と心を認識しないと「自己=有身見の私」が消えて意識のみになります。
対象が消えると自他の区別・分離が消えて、全体と一つの本来の自己意識のみ、「存在の自覚」、身心脱落・脱落身心=有身見の消滅です。
熟睡中はサマディーの至福ですが、意識の自覚がないだけの休眠状態です。
ブッダは身体は寝ていても意識以前に存在する純粋な気づき、夢も見ない「目覚めた方」です。
私達は起きている時は意識が身体の感覚を使って外側を認識するので、身体に制限されます。
意識が身体と感覚を手放して意識の内側に入つていくことがありませんので、意識以前に存在する純粋な気づきのない、起きている時はいつも思考・概念で一杯の有身見の私の夢の中です。
「一人の個人として存在しながら人生を切り抜けていくという、見かけ上の経験に閉じ込められたままでいるかぎり、私達は夢を見ている状態で生きている。
その夢見の状態においては、何をしようとすべては見かけ上で相対の法則に支配されていて、その法則により、いわゆる肯定的行為はそれと釣り合う正反対の行為によって寸分の狂いもなく相殺される。
したがって、人生をうまくいかせたい、完璧を目指したい、個人として開放されたいといった動機でなされる個々の試みは、そのすべてが中和されることになる。」
「「秘密」とは分離がないということです。ところがそのことは、自分は誰かだと信じている間は秘密のままです。」(オープン・シークレット トニー・パーソンズ)
あるがままの完全を疑うことが「疑」です。ブッダの言葉を疑うことではありません。
真理を言葉で語ることなどできません。たとえ仏陀でも真理「そのもの」は語れません。
「百聞は一見にしかず」。愛も悲しみも、絶望も語れません。お茶の味すら語ることはできません。
真理「に関して」、「について」言及するのがせいぜいです。
真理「に関して」一度でも語ってしまうと、真理「そのもの」ではないので、その言葉の補足修正が必ず必要になり、その後もその補足訂正が必要なので切りがなく、八万四千の経典が出来て対機説法をするハメになりました。
「釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな」一休宗純
スリランカ仏教(分別説部)シャム派は、善悪の分別判断の絶対基準であるパーリ経典が教団存続の生命線です。
ブッダの話した「言語」がパーリ語だから「パーリ経典が仏陀の真理の言葉」で他の言語の経典は偽教典だと主張するのは、パーリ経典が真理の言葉かどうかは教団の存続に関わる生命線だからです。
パーリ語はお釈迦様の行ったことのない西インドの言語です。布教をした北東インドのマガダ語圏でパーリ語を話すわけがありません。
大乗仏教、般若心経、以心伝心、教外別伝、不立文字等が教える「真理は言葉では語れない」という事実は、パーリ経典が唯一の仏陀の語った「真理の言葉」だと主張するスリランカ仏教(分別説部)教団にとって、決して認めることができない不都合な真実です。
「真理はたとえブッダでも語ることはできないのに、ダンマパダ(真理の言葉)」。
現実歪曲空間に要注意です。
農民以上のカーストの男性でないと出家できないスリランカ仏教(分別説部)シャム派は、世間の常識と同じ私・個の「分別知」の教えなので、修行をせずに本を読んだだけで誰でも常識だけですぐに理解できますが、覚者の思考のない「無分別智の真理」を常識と同じ思考による「分別知の理性」で理解することなどとうてい不可能です。
言葉の繰り返しによる自己催眠の慈悲の瞑想では、カースト差別には何の慈悲もない偽り、偽善を証明しています。
農民よりも下のカーストは生きとし生ける者にも入りません。
慈悲は自他の区別のない一心同体、全体と一体になった境界の無い一つの生命という智慧の現われ、表現です。
慈悲と智慧は表裏一体、同じものです。
お母さんと赤ちゃんのように「一心同体」自他の区別も他者も存在しません。
自他の区別のある「上から目線の慈悲深い私」と「真理を知らないかわいそうな生きとしきる者」に分離した自己満足の偽善の慈悲や損得勘定の処世術ではありません。
慈悲の象徴でもある千手千眼観自在菩薩の手の平には智慧の眼が描かれています。
問題は「自他の区別のある偽りの慈悲」を育てている限り、偽りが自他の区別のない一心同体の真の慈悲に変化することはなく、偽りのままです。
因果法則は「生じた現象・思考が滅し、新たに現象・思考が生じる」前後際断が事実です。
「既存の現象・思考が変化」することはありません。変化は完全な錯覚・誤解です。
自他の区別のある偽りの慈悲が消滅する必要があります。
自他の区別のある偽りを育てているため永久に偽善の慈悲を保持し囚われることになる、エゴトリップ・巧妙な罠です。
暗闇で縄を蛇だと勘違いの思考を保持している限り、縄という正しい思考の理解は永久に生じません。
イミテーションゴールドが本物の金に変化することはありません。偽りを捨て去るだけです。
お釈迦様の行ったことのない西インドの言語のパーリ語のパーリ経典でさえ慈悲の言葉を唱えるようと書いてあるものなどないことに留意するべきです。
慈悲の言葉のバージョンも解釈も勝手に作り放題です。
思考によって自他の区別とエゴは同時に生じます。
自他の区別のあるカースト差別はそのままの「大衆」の教えではない上から目線のカースト上位の「上座部」仏教です。
「偽物を偽物と理解しなさい。それがあなたにできるすべてだ。あなたはあるものを別のものに変えることはできない。」
(意識に先立って ニサルガダッタ・マハラジ)
パーリ語はお釈迦様の行ったことのない西インドの言語です。
お釈迦様が生まれて布教をした北東インドのマガダ語圏で、行ったことのない西インドの言語のパーリ語を話すわけがありません。
証拠もないのに、仏陀の誕生と成道と涅槃を同じ日にしてしまうようないい加減な人たちに、2500年も前の、紀元前の言い伝えの口伝が元の教えを一字一句違わず伝えられると本当に思いますか。
「千の質問も、たくさんの瞑想法の知識も、自分を決して真理へと導かないということを知るようになる。」
「ダルマは限定的な世俗の科学による理解を超えた智慧です。」
「表面的な経典の学習は重要ではありません。正しい智慧を授けてくれるものではないのです。」
「自分自身の内面に向き合わないのなら、現実を知ることはありません。」
「三宝は私たちの師となり、ただ一つの生命の真の姿を明示しているのです。」
(アーチャン・チャー 手放す生き方)
2018年8月20日に日本でレビュー済み
「あべこべ」という概念を使って、仏教を説明すると、こんなにも理解しやすくなる。そもそも仏教の考え方と行動は、一般のそれと比べて分かりにくいとよく聞きます。
さて、この書籍には特に最後の章にある「死を知って生を知る」というところが他の書籍にはない(私が知る限り)内容です。淡々と語る長老の本音を文字で追うに、その真剣さが伝わってきました。覚りや解脱を得た人は、人格が変わると聞きます。死を知り生を深く知ることは、人格に大きな影響を与えるのでしょう。それほど価値のある智慧なのですね。
さて、この書籍には特に最後の章にある「死を知って生を知る」というところが他の書籍にはない(私が知る限り)内容です。淡々と語る長老の本音を文字で追うに、その真剣さが伝わってきました。覚りや解脱を得た人は、人格が変わると聞きます。死を知り生を深く知ることは、人格に大きな影響を与えるのでしょう。それほど価値のある智慧なのですね。
殿堂入り
スマナサーラさんの
怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉 (サンガ新書) (サンガ新書) がとても面白かったので、
こちらも読んでみました。
まず、とっても難しかった。
「怒らないこと」は「怒る」という普段から自分が接している
感情に対することなので、
比較的(実践が)「難しい」と思いつつも
読み進めることが出来ました。
今回は内容自体が難しかった。
4章まではとても難しく、5章になって
やっと少し理解できるようになりました。
スマナサーラさんは人間は必ず死ぬもの、
生きるとは苦しいこと、
そうわかっていればすべてそのまま受け入れることが出来るのに、
どうして人はみな、あたふた、どたばたするんだろう?と
簡潔にいうと、そういうことが書いてあります。
たとえば「癌です」といわれて、七転八倒するのではなく、
「ああそうですか。では、現在ある治療法で最善を尽くしましょう」
それでいいじゃないか、と仰っています。
スマナサーラさんご自身腹部に手術の跡があり、
そこが痛むので病院に行ったら
「そういうこともあります」といわれたのだとか。
で、「あ、そうなんですか!」と納得し、
それ以来、痛いとも思わなくなったんだとか。
とどのつまり、「こだわる」ということが
どれだけ悪影響を及ぼしているのか、ということが
よく分かりました。
難しくて、そしてこだわるな、常に死につつあるのだ、
などということに「ごもっとも」とは思いつつ、
私は到底まだそのレベルには達することが出来ません。
でも、この本を読んだら、今まで小さなことを
気にして気に病んでいたことが少しバカらしくなりました。
内容も難しいし、実践することはさらに難しいですが、
でも心に留めておくことは必要だと思います。
一読をオススメします。
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まず、とっても難しかった。
「怒らないこと」は「怒る」という普段から自分が接している
感情に対することなので、
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今回は内容自体が難しかった。
4章まではとても難しく、5章になって
やっと少し理解できるようになりました。
スマナサーラさんは人間は必ず死ぬもの、
生きるとは苦しいこと、
そうわかっていればすべてそのまま受け入れることが出来るのに、
どうして人はみな、あたふた、どたばたするんだろう?と
簡潔にいうと、そういうことが書いてあります。
たとえば「癌です」といわれて、七転八倒するのではなく、
「ああそうですか。では、現在ある治療法で最善を尽くしましょう」
それでいいじゃないか、と仰っています。
スマナサーラさんご自身腹部に手術の跡があり、
そこが痛むので病院に行ったら
「そういうこともあります」といわれたのだとか。
で、「あ、そうなんですか!」と納得し、
それ以来、痛いとも思わなくなったんだとか。
とどのつまり、「こだわる」ということが
どれだけ悪影響を及ぼしているのか、ということが
よく分かりました。
難しくて、そしてこだわるな、常に死につつあるのだ、
などということに「ごもっとも」とは思いつつ、
私は到底まだそのレベルには達することが出来ません。
でも、この本を読んだら、今まで小さなことを
気にして気に病んでいたことが少しバカらしくなりました。
内容も難しいし、実践することはさらに難しいですが、
でも心に留めておくことは必要だと思います。
一読をオススメします。
2008年5月17日に日本でレビュー済み
モラルの欠如や年々増える自殺者、凶悪犯罪となにかと問題がおおい昨今だ。閉塞感をテーマにとりあつかった本や報道の数が、問題の多さを象徴している。本書は、単純明快に閉塞感を浮き彫りにしている。
それはつまり、人間の間違った認識が苦しみを生み出しているという考えである。間違った認識とは、本書のタイトルにあるように情報の捏造「あべこべ感覚(パパンチャ)」あるいは「顛倒」のことだ。
まず、やってはいけない顛倒とは「常住」、「楽・善」、「我はいる」、「身体はきれい」という4つの顛倒である。それぞれの顛倒に「概念の顛倒」・「心の顛倒」・「見解の顛倒」がおこる。
さらに、人間がいかに非論理的であり得ないことを期待しているかについて、長老は5つに分類している。「生まれないこと」「老いないこと」「病まないこと」「死なないこと」「憂い・嘆き・苦しみ・悲しみ・悩みがないこと」だ。
お釈迦さまは
「かなわない期待を持つことが、すごい苦しみです」「年をとることや老いること自体は、本当は『苦しみ』ではありません。『老いないように』との期待こそが苦しみなのです」(p131)
とおっしゃったそうだ。
長老も、
「(上記は)生命の本質です。逃げることはできません。これらが『嫌だ』ということは、いわば魚が『泳ぎたくない』というようなものです」(p135)
とおっしゃっている。したがって、生命の本質に抗おうとする近頃のアンチエイジングブームには危険を感じる。
最後にあべこべ感覚に対する、処方箋は「生きるとは死につつあることだ」(p184)と知ることだ。道元禅師も、「生と死というのは、同じ意味です」(p184)といったそうだ。死と生に一線を画してしまう私たちは、死を極端に恐れる。だが、死ぬことは生きることの延長なのだという教えは安らぎを持たせてくれるだろう。
それはつまり、人間の間違った認識が苦しみを生み出しているという考えである。間違った認識とは、本書のタイトルにあるように情報の捏造「あべこべ感覚(パパンチャ)」あるいは「顛倒」のことだ。
まず、やってはいけない顛倒とは「常住」、「楽・善」、「我はいる」、「身体はきれい」という4つの顛倒である。それぞれの顛倒に「概念の顛倒」・「心の顛倒」・「見解の顛倒」がおこる。
さらに、人間がいかに非論理的であり得ないことを期待しているかについて、長老は5つに分類している。「生まれないこと」「老いないこと」「病まないこと」「死なないこと」「憂い・嘆き・苦しみ・悲しみ・悩みがないこと」だ。
お釈迦さまは
「かなわない期待を持つことが、すごい苦しみです」「年をとることや老いること自体は、本当は『苦しみ』ではありません。『老いないように』との期待こそが苦しみなのです」(p131)
とおっしゃったそうだ。
長老も、
「(上記は)生命の本質です。逃げることはできません。これらが『嫌だ』ということは、いわば魚が『泳ぎたくない』というようなものです」(p135)
とおっしゃっている。したがって、生命の本質に抗おうとする近頃のアンチエイジングブームには危険を感じる。
最後にあべこべ感覚に対する、処方箋は「生きるとは死につつあることだ」(p184)と知ることだ。道元禅師も、「生と死というのは、同じ意味です」(p184)といったそうだ。死と生に一線を画してしまう私たちは、死を極端に恐れる。だが、死ぬことは生きることの延長なのだという教えは安らぎを持たせてくれるだろう。
VINEメンバー
マナーやルールを重視するのはマニュアル主義と呼ばれる。仏教用語の「戒(禁)取」や「身見」が対応する。「戒取」は、自分のしている事が一番正しいと思う考え方である。聖典や経典の言葉に執着することも、マニュアル主義になるだろう。法律文書を自分たちの都合に合わせて解釈する官僚国語などもこれに該当するに違いない。「身見」は、自己中心の考え方である。これらは、仏教では「世間法」とも呼ばれる。
それに対し、正しい生き方を教える道徳や倫理を重視する立場は、徳治主義と呼ばれる。仏教用語の「出世間法」の入り口に対応する。道徳や倫理の躾けは、私の子供時代ならば、家庭教育や地域教育の役割だった。現在はモンスター・ペアレントという言葉が意味するように、家庭教育から失われている。日本テーラワーダ仏教徒としての日本人の役割には、その復活もあるのではないだろうか。
それに対し、正しい生き方を教える道徳や倫理を重視する立場は、徳治主義と呼ばれる。仏教用語の「出世間法」の入り口に対応する。道徳や倫理の躾けは、私の子供時代ならば、家庭教育や地域教育の役割だった。現在はモンスター・ペアレントという言葉が意味するように、家庭教育から失われている。日本テーラワーダ仏教徒としての日本人の役割には、その復活もあるのではないだろうか。