「里」という思想 (新潮選書) (日本語) 単行本 – 2005/9/21
内山 節
(著)
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本の長さ218ページ
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言語日本語
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出版社新潮社
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発売日2005/9/21
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ISBN-104106035545
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ISBN-13978-4106035548
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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
世界を席巻したグローバリズムは、「ローカルであること」を次々に解体していった。たどりついた世界の中で、人は実体のある幸福を感じにくくなってきた。競争、発展、開発、科学や技術の進歩、合理的な認識と判断―私たちは今「近代」的なものに取り囲まれて暮らしている。本当に必要なものは手ごたえのある幸福感。そのために、人は「ローカルであること」を見直す必要があるのだ。
著者について
1950年東京生まれ。哲学専攻。立教大学大学院教授。現在、東京と群馬の山村に暮らす。著書に『自然と労働』(86年)、『<森林社会学>宣言』(89年)、『自然・労働・協同社会の理論』(89年)、『山里紀行』(90年)、『やませみの鳴く谷』(92年)、『森へかよう道』(94年)、『貨幣の思想史』(97年)、『市場経済を組み替える』(99年)、『哲学の冒険』(99年)、『里の在処』(2001年)など。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
内山/節
1950年東京生まれ。哲学専攻。立教大学大学院教授。現在、東京と群馬の山村に暮らす(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
1950年東京生まれ。哲学専攻。立教大学大学院教授。現在、東京と群馬の山村に暮らす(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
登録情報
- 出版社 : 新潮社 (2005/9/21)
- 発売日 : 2005/9/21
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 218ページ
- ISBN-10 : 4106035545
- ISBN-13 : 978-4106035548
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- - 11,973位ノンフィクション (本)
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2020年7月13日に日本でレビュー済み
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資本主義・新自由主義が常識となりつつある現代に対する批判的視点を与えてくれる。大学受験の文章題でもよく使われる、内山節さんの文章のこともあって、非常に読みやすく、人間科学系の科目全般に応用できる内容となっている。とてもおすすめの一冊。
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VINEメンバー
Amazonで購入
「真理はひとつ」、「正義はひとつ」を唱える社会のまずさが指摘される。グローバリズムは、世界を一元的に
統合しようとする。それが席巻した世界では、「ローカルであること」が解体されていった。
グローバルの対極にあるローカルな世界は、その地域が生み出した伝統的なものを持っている。伝統的な習慣や
ものの考え、伝統的な技術、伝統的な自然との関わりあい方等々。
現代、実体のある幸福を感じにくくなっているとしたら、そこには無意識の不安があるからだろう。その不安の、
根底には、「ローカルであること」から離れてしまったことがあるのではないか。
統合しようとする。それが席巻した世界では、「ローカルであること」が解体されていった。
グローバルの対極にあるローカルな世界は、その地域が生み出した伝統的なものを持っている。伝統的な習慣や
ものの考え、伝統的な技術、伝統的な自然との関わりあい方等々。
現代、実体のある幸福を感じにくくなっているとしたら、そこには無意識の不安があるからだろう。その不安の、
根底には、「ローカルであること」から離れてしまったことがあるのではないか。
2016年12月9日に日本でレビュー済み
全てのビジネスマンが読んでおくべきだ。歴史の中で自分達が、現代の日本に日本人として住む我々がどこにいるのかを良く分からせてくれる。日本において哲学者の本を読み、「哲学の本を読んでいる」という状態とは、哲学とは西洋哲学を詳細に解説することだけでは無いと言う事が平易ながらも独特の粘着質で美しい文体により生々しく語られる。本当にこの人の文章はこの人の身体から絞り出され語られる。9.11数年後に書かれ9.11により世界がどう変わったのか等言及される部分も多いが、今読んでそれらが決して古いという事は全く無い。それどころか本の中で普遍性一般についても語られる部分があるが、正に普遍的価値を持つ作品だと思う。それらが平易ながらも何回も読み返さないと分からない密度の文章で語られる。意味がぐっと分かったときには感動すら覚える。それが何回もある。本当に美しく鍛え上げられた筋肉美の如きの文章。
ベスト500レビュアーVINEメンバー
2007年再掲
図書館本
「戦争と言う仕事」の前作である。これもポストイットだらけになった一冊である。いかに自分が真剣に社会は人生を考えてこなかったか身にしみて分かった。備忘録的に各章のはじめを書き留める。
内山さんが信濃毎日に2000年1月から2002年3月まで掲載したものに加筆したもの。
在野の哲学者として上野村に住み(釣りを通して住むことになる)、自然と人間のかかわりを本質的に見直さなければいけないのだと主張されていると理解した。資本主義、社会主義などと言う枠組みを超え、経済的な勝ち負けなどという短絡的な評価ではない人間としての生き様はどうあるべきかを自然をどのように捉えるかを考える事により提示している。生きる上で最も重要な因子である労働と言う思想にも言及し、この後の著作である「戦争という仕事」に繋がっていく。2001年9月のアメリカでのテロ事件の根底に流れるアメリカ的思想の危険性をグローバリズムと言う単一思想の価値観の押し付けとして厳しく批判していると思う。
第一章 山里にて
一九七〇年代に入った頃、私ははじめて群馬県の山村、上野村を訪れた。村の面積の九四パーセントを森がしめ、谷底を利根川の支流、神流川が流れる。何となくこの村が気に入り、私は村と東京とを往復しながら暮らすようになった。いまの上野村は、千六百人ほどの人々が暮らす。
私もわずかな畑を耕し、森に入り、本を伐り、川で釣りをする。村の人たちといろいろな活動をする。
この村で私は、思想は、その思想を包んでいる時空から離れてはありえないことを知った。
第二章 歴史の意味
歴史の研究者たちは、これまで、「真実の歴史」を明らかにしようとしてきた。しかし、歴史の意味はそれだけではないのだと思う。現在の自分たちとは何かを教えてくれる時間の蓄積。だから私たちは、たえず過去に問いかけ、「いま」とは何かを考えようとする。歴史は人間の思考を深いところに導く。
現在の私たちは、歴史をもたない社会がもつ暴力性や一面性を、「アメリカ的行動」のなかにみている。哲学は歴史哲学を取り戻さなければならない。
第三章 思想のローカル性
近代社会が形成されてくると、人々は真理は普通的なものだという強い確信をいだくようになった。自然科学が発見した「真理」が世界のどこでも通用するように、あらゆる真理は普遍性をもつている、と。
本当の普遍性には、「場所的普遍性」、あるいは「空間的普遍性」と「時間的普遍性」うべきものがある。「場所的普遍性」とは、どこの場所でも通用するものであり、「時間的普遍性」とはいつの時代にも通用する普遍性である。このように分けるなら、近代社会とは、「時間的普遍性」に対する忘却を重ねながら、「場所的普遍性」を重要視することによって生れた社会だといってもよい。たとえば今日のグローバル化していく市場経済とは、アメリカ的な市場経済のあり方が「場所的普遍性」を確立していく過程である。
近代社会におけるこの精神的雰囲気が、思想にも大きな影響を与えた。すぐれた思想は「場所的普遍性」をもつと人々は考えた。
だが、本当にそうなのだろうか。むしろ逆に、思想はローカルなものとしてしか成立しえないのではないか。私たちはもう一度、「思想とは何か」という問いにたち返ってみる必要がある。
第四章 グローバルな時間と私たちの仕事
かつての人々はさまざまな時間のなかで働き暮らしていた。各地で暮らしていた先住民たちは自分たちの時間を持っていたし、仕事のあり方も時間に多様性を与えた。農家の時間、漁民の時間、職人の時間・・・・。時間は風土であり、文化であった。
現代社会とは、時間の画一化によって生まれた世界なのだと思う。いまでは、世界が同じ基準で動く時間に管理されているかのようである。そして、その時間が経済と労働の領域から発生してきたことに気づくとき、さらに、時間の統一こそが今日のグローバリゼーションの基盤になっていることを知るとき、私たちは問いかけたくなる。その結果、人間の労働はどう変わったのかを。この延長線上に豊かな労働の世界を思い描くことができるのかを。
第五章 日本的精神
明治以降の私たちの社会は、日本それぞれの地域がもっていた、 ローカルな時間の歴史的な蓄積を破壊しつづけてきた。この破壊のうえに国民国家という統合社会を形成してきたといってもよい。
この過程ではさまざまなものが変容している。ローカルであることの意味も変わった。社会観も、人間観も、自然観も変わった。そして知の営み方が変わったとき、私たちは日本的精神とは何かがわからなくなった。共同体とともに生きながら、孤独な個人主義をもちつづけた庶民の精神も、自然とともに生きつづけた人々の精神も。
私たちは今日、現代世界はどこかで方向性を間違えたと感じている。とすると、どこで、何を間違えたのか。その解明をすすめるために、新しい視点で日本的伝統とは何かを検証する。
第六章 九月十一日からの三カ月
二〇〇一年のある初秋の日、私は上野村の家で過ごしていた。夜になってテレビをつけると、ニューョークのワールド・トレード・センタービルから煙の上がる映像が映し出されている。しばらくすると二機目の飛行機がもう一方のビルに衝突した。「テロらしい」。私はパソコンの回線を「ニューョークタイムズ」や「ヮシントンポスト」に手はじめにつなぎ、次々に接続を変えながら情報を得ようとした。しかしそれは虚しい行為だった。テレビの画像以外には、いかなる情報も得られない。人間がインターネット上に情報を入れなければ、パソコンは何の情報も提供しないのである。
翌日になると、インターネット上では人間の入れた大量の情報が提供されはじめた。ところが、それをみていた私は唖然とした。すべての情報が、人間たちをひとつの方向に誘導しようとしているかのようだった。アメリカから発せられたものばかりでなく、イギリスからのものも、フランスやドイツからのものも。〈テロとの闘い〉がこうしてはじまっていったのである。この事態をいかに考えるか。ここに私の9.11以降もはじまった。
この章で収録したのは、ほとんどが二〇〇一年九月十一日直後から三カ月ほどの間に書いた文章である。同時進行的に執筆しているので、 いまとなっては多少わかりにくさもあるかもしれない。アフガニスタンヘの戦争は、その後イラク侵攻へと拡大した。しかし、私は大した訂正もせずにこの章を組んだ。九月十一日以降の時間のなかで、私たちが問い直さなければいけないことを明らかにするために。「里(ローカル)という思想」という本書のテーマをいっそう明確にするために。
図書館本
「戦争と言う仕事」の前作である。これもポストイットだらけになった一冊である。いかに自分が真剣に社会は人生を考えてこなかったか身にしみて分かった。備忘録的に各章のはじめを書き留める。
内山さんが信濃毎日に2000年1月から2002年3月まで掲載したものに加筆したもの。
在野の哲学者として上野村に住み(釣りを通して住むことになる)、自然と人間のかかわりを本質的に見直さなければいけないのだと主張されていると理解した。資本主義、社会主義などと言う枠組みを超え、経済的な勝ち負けなどという短絡的な評価ではない人間としての生き様はどうあるべきかを自然をどのように捉えるかを考える事により提示している。生きる上で最も重要な因子である労働と言う思想にも言及し、この後の著作である「戦争という仕事」に繋がっていく。2001年9月のアメリカでのテロ事件の根底に流れるアメリカ的思想の危険性をグローバリズムと言う単一思想の価値観の押し付けとして厳しく批判していると思う。
第一章 山里にて
一九七〇年代に入った頃、私ははじめて群馬県の山村、上野村を訪れた。村の面積の九四パーセントを森がしめ、谷底を利根川の支流、神流川が流れる。何となくこの村が気に入り、私は村と東京とを往復しながら暮らすようになった。いまの上野村は、千六百人ほどの人々が暮らす。
私もわずかな畑を耕し、森に入り、本を伐り、川で釣りをする。村の人たちといろいろな活動をする。
この村で私は、思想は、その思想を包んでいる時空から離れてはありえないことを知った。
第二章 歴史の意味
歴史の研究者たちは、これまで、「真実の歴史」を明らかにしようとしてきた。しかし、歴史の意味はそれだけではないのだと思う。現在の自分たちとは何かを教えてくれる時間の蓄積。だから私たちは、たえず過去に問いかけ、「いま」とは何かを考えようとする。歴史は人間の思考を深いところに導く。
現在の私たちは、歴史をもたない社会がもつ暴力性や一面性を、「アメリカ的行動」のなかにみている。哲学は歴史哲学を取り戻さなければならない。
第三章 思想のローカル性
近代社会が形成されてくると、人々は真理は普通的なものだという強い確信をいだくようになった。自然科学が発見した「真理」が世界のどこでも通用するように、あらゆる真理は普遍性をもつている、と。
本当の普遍性には、「場所的普遍性」、あるいは「空間的普遍性」と「時間的普遍性」うべきものがある。「場所的普遍性」とは、どこの場所でも通用するものであり、「時間的普遍性」とはいつの時代にも通用する普遍性である。このように分けるなら、近代社会とは、「時間的普遍性」に対する忘却を重ねながら、「場所的普遍性」を重要視することによって生れた社会だといってもよい。たとえば今日のグローバル化していく市場経済とは、アメリカ的な市場経済のあり方が「場所的普遍性」を確立していく過程である。
近代社会におけるこの精神的雰囲気が、思想にも大きな影響を与えた。すぐれた思想は「場所的普遍性」をもつと人々は考えた。
だが、本当にそうなのだろうか。むしろ逆に、思想はローカルなものとしてしか成立しえないのではないか。私たちはもう一度、「思想とは何か」という問いにたち返ってみる必要がある。
第四章 グローバルな時間と私たちの仕事
かつての人々はさまざまな時間のなかで働き暮らしていた。各地で暮らしていた先住民たちは自分たちの時間を持っていたし、仕事のあり方も時間に多様性を与えた。農家の時間、漁民の時間、職人の時間・・・・。時間は風土であり、文化であった。
現代社会とは、時間の画一化によって生まれた世界なのだと思う。いまでは、世界が同じ基準で動く時間に管理されているかのようである。そして、その時間が経済と労働の領域から発生してきたことに気づくとき、さらに、時間の統一こそが今日のグローバリゼーションの基盤になっていることを知るとき、私たちは問いかけたくなる。その結果、人間の労働はどう変わったのかを。この延長線上に豊かな労働の世界を思い描くことができるのかを。
第五章 日本的精神
明治以降の私たちの社会は、日本それぞれの地域がもっていた、 ローカルな時間の歴史的な蓄積を破壊しつづけてきた。この破壊のうえに国民国家という統合社会を形成してきたといってもよい。
この過程ではさまざまなものが変容している。ローカルであることの意味も変わった。社会観も、人間観も、自然観も変わった。そして知の営み方が変わったとき、私たちは日本的精神とは何かがわからなくなった。共同体とともに生きながら、孤独な個人主義をもちつづけた庶民の精神も、自然とともに生きつづけた人々の精神も。
私たちは今日、現代世界はどこかで方向性を間違えたと感じている。とすると、どこで、何を間違えたのか。その解明をすすめるために、新しい視点で日本的伝統とは何かを検証する。
第六章 九月十一日からの三カ月
二〇〇一年のある初秋の日、私は上野村の家で過ごしていた。夜になってテレビをつけると、ニューョークのワールド・トレード・センタービルから煙の上がる映像が映し出されている。しばらくすると二機目の飛行機がもう一方のビルに衝突した。「テロらしい」。私はパソコンの回線を「ニューョークタイムズ」や「ヮシントンポスト」に手はじめにつなぎ、次々に接続を変えながら情報を得ようとした。しかしそれは虚しい行為だった。テレビの画像以外には、いかなる情報も得られない。人間がインターネット上に情報を入れなければ、パソコンは何の情報も提供しないのである。
翌日になると、インターネット上では人間の入れた大量の情報が提供されはじめた。ところが、それをみていた私は唖然とした。すべての情報が、人間たちをひとつの方向に誘導しようとしているかのようだった。アメリカから発せられたものばかりでなく、イギリスからのものも、フランスやドイツからのものも。〈テロとの闘い〉がこうしてはじまっていったのである。この事態をいかに考えるか。ここに私の9.11以降もはじまった。
この章で収録したのは、ほとんどが二〇〇一年九月十一日直後から三カ月ほどの間に書いた文章である。同時進行的に執筆しているので、 いまとなっては多少わかりにくさもあるかもしれない。アフガニスタンヘの戦争は、その後イラク侵攻へと拡大した。しかし、私は大した訂正もせずにこの章を組んだ。九月十一日以降の時間のなかで、私たちが問い直さなければいけないことを明らかにするために。「里(ローカル)という思想」という本書のテーマをいっそう明確にするために。
2006年12月14日に日本でレビュー済み
著者は、グローバル化を進める現代文明は全てにおいて根本的に間違っていると断罪する。それでは私たちはどこに新しい思想を紡ぎはじめるべきなのか。著者はグローバルの対極にあるローカルなもの=「里」という概念から私たちが進むべき方向を説き示す。
人間の歴史・自然の歴史・世俗の歴史・霊的な歴史など、本来は多層的な時間の流れ多層的な歴史を、ひとつの歴史に統合することによって近代社会はつくられた。そしてひとつに統合された歴史は文明の発展を唯一の目的とした。
しかし21世紀の現在、『近代的な市民社会の形成が孤立した不安な個人をつくりだし、人間的な自由の確立がエゴイスティックな個人をつくりだし、自然の自由を奪っていった。近代的正義が、正義の名を借りた戦争を生み出しつづけた。そして現代文明の発展は間違いなく環境を悪化させる。p215』
著者は、ローカルな思想から「折り合いをつけながら生きることが可能なこと=そうするしか方法がないこと」と、「折り合いのつけられないこと=対決するしかないこと」を、私たちが見定めることが重要だと説く。
著者は最後に下記の言葉で締めくくっている。一見悲観的に読めるが全編を読んだ方には、「発展史観の消費する時間」への決別と、「風土との関係性の中に蓄積する時間」への志向が読み取れるはずだ。
『素晴らしき末来を提示し、そこにむかって人々を誘導する方法を、私たちは捨てなければいけないのではなかろうか。その意味で、私は、末来を喪失させようと思う。p216』
人間の歴史・自然の歴史・世俗の歴史・霊的な歴史など、本来は多層的な時間の流れ多層的な歴史を、ひとつの歴史に統合することによって近代社会はつくられた。そしてひとつに統合された歴史は文明の発展を唯一の目的とした。
しかし21世紀の現在、『近代的な市民社会の形成が孤立した不安な個人をつくりだし、人間的な自由の確立がエゴイスティックな個人をつくりだし、自然の自由を奪っていった。近代的正義が、正義の名を借りた戦争を生み出しつづけた。そして現代文明の発展は間違いなく環境を悪化させる。p215』
著者は、ローカルな思想から「折り合いをつけながら生きることが可能なこと=そうするしか方法がないこと」と、「折り合いのつけられないこと=対決するしかないこと」を、私たちが見定めることが重要だと説く。
著者は最後に下記の言葉で締めくくっている。一見悲観的に読めるが全編を読んだ方には、「発展史観の消費する時間」への決別と、「風土との関係性の中に蓄積する時間」への志向が読み取れるはずだ。
『素晴らしき末来を提示し、そこにむかって人々を誘導する方法を、私たちは捨てなければいけないのではなかろうか。その意味で、私は、末来を喪失させようと思う。p216』