|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
4レビュー
|
|
有用性の高い順 | 最新のレビューから
|
|
1 人中、1人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0
ビニールクロス装です!,
By 愛と平和を守る父 (東京都渋谷区) - レビューをすべて見る
レビュー対象商品: 聖書 - 新共同訳 (ペーパーバック)
ペーパーバックではありません。ビニールクロス装に紙ジャケットがけです。外観はこんな感じです。ご参考までに。→ http://www.bible.or.jp/online/images/NI53.jpg
68 人中、47人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0
福音の書,
By
レビュー対象商品: 聖書 - 新共同訳 (ペーパーバック)
よく「バイブルに次ぎ多く読まれているベストセラー」という宣伝文句で売りに出されている本が数多く存在するものの、その肝心の「バイブル(the Bible)」=『聖書』を読んでいる日本人は一体どれほどいるものか疑問である。この「新共同訳」の聖書は、プロテスタント、カトリック両派の教理上の違いや見解の相違を越えて、キリストを信じる者としての根本的な一致の認識に基づいて両教会の共同の作業として翻訳された『聖書』であり、古くは1880年にヘボンを中心とする「翻訳委員社中」による「新約聖書」を端緒とするものであり、今日、わが国においてカトリック教会、プロテスタント教会が採用している最も一般的な『聖書』である。 人が『聖書』を手に取る時、ある者はそこに救いを求め、ある者は宗教学として身に付けるべき素養としての知識を求め、ある者はこの世界に数十億人といわれるキリスト教徒の文化や価値観を共有するために求めるが、何れにせよ『聖書』に何を求めるかは各人それぞれ自由であり、『聖書』は求める者にそれに見合った「答え」を必ず与えてくれるであろう。 私は「偶然」にこの『聖書』を手に取り、毎日読むことを習慣としているが、知らぬ間にそこから多くの教えを受け、それが私を助け、私の救いの基となっているのは、主である神が私に与え賜えし、「必然」であると今はかたく信じるに至っている。
5つ星のうち 5.0
どこにでも売っているわけでないから,
By
Amazon.co.jpで購入済み(詳細)
レビュー対象商品: 聖書 - 新共同訳 (ペーパーバック)
聖書って 田舎の本屋だと おいていない。教会で注文かけても 一週間くらいかかるし。 いつでも 買えるって いいですね。
3 人中、0人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0
神の性質とは?,
By Faith "Dogal" (兵庫県神戸市) - レビューをすべて見る
レビュー対象商品: 聖書 - 新共同訳 (ペーパーバック)
キリスト教における神の性質とは何か?ヨハネによる福音書8章32節「イエスは言った『あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にするだろう。』」まず、キリスト教における神の性質、すなわち三位一体とイエスの神性に関する問題と疑問を取り上げたい。マタイによる福音書19章16-17節「見よ、ある人が彼に近寄ってきていった、『よい先生、永遠の命を得るためには、どんな善いことをしたらよいでしょうか』。イエスは彼に言った『なぜ私のことを善いと呼ぶのか。神おひとりのほかに善い者はいない。だが、命に入りたいなら、おきてを守りなさい』。」これは欽定訳聖書にあり一部の聖書には含まれていない。「なぜ私のことを善いの呼ぶのか。」イエスは自分の善性をなぜ問うたのだろうか?イエスは強調して述べた。「神おひとりのほかに善い者はいない。」と。では、なぜ彼は唯一なる神を、『善い者』とのみ呼んだのだろうか?彼が神とするならば、なぜ彼は自分を善い者から除外したのだろうか?「だが、命に入りたいなら、おきてを守りなさい」とイエスは明白に示した。ではなぜイエスは永遠の命に入るために彼(イエス)を神として信仰するようにと、尋ねた者に対して命じなかったのか?驚いたことにイエスは若者の『善い先生』という言葉に対し、予想外の返答をしたのだった。「なぜ、私のことを善いと呼ぶのか?」と不思議がり、自らが善い者であることを否定したのである。それならば、彼の善性を否定するのではなく、この機会に自身が、神である、もしくは神の一部であるがゆえに、善き者であることを認めるのが、イエスにとり道理にかなったことではなかっただろうか?なぜ彼は真の神だけに言及し、彼自身が持つ『善い者』としての神性を示さなかったのだろうか?彼は、質問者に自身の真実を隠していたのだろうか? ヨハネによる福音書17章3節「永遠の命とは、唯一の、真の神でいますあなたと、また、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知ることであります。」この節で、再びイエスは自分自身を唯一真の神と区別しているのだ。この唯一真の神、彼こそがイエスを創造し、彼を遣わされた御方である。それでは、命令を下し、遣わすことの全権を握っているのは誰だということになるか。それは、唯一真の神であろうか?それともイエスであろうか?命令を下し、送り出す者と、命令を受け送り出される方では、どちらが偉大だろうか?テモテへの第一の手紙第2章5節「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただ一人であって、それは人なるキリスト・イエスである。」この節は二つの個性を示している。それは、(1)唯一なる神と、(2)ただ一人の仲保者(イエス)との二者である。イエスは「人」であると形容されており、この節では彼は「神なるキリストイエス」と呼ばれていない。実際のところ、イエスは聖書のどこにおいても神であると呼ばれてはいないのだ。 さらなる議論に進み、「イエスは神である、もしくは神の一部であるのか?」という問いに答えるべく、マタイによる福音書第4章1-10節で述べられている以下の部分を注意深く、客観的に読んで考察してみることにしよう。「さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜断食をし、そののちに空腹になられた。次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその華を見せて言った、「もしあなたがひれ伏して私を拝むなら、これらのものをみんなあなたにあげましょう。」先の説を読んだ際、私の頭に浮かんだ疑問と考えのいくつかを皆さんに紹介しよう。(1)「イエスは御霊によって荒野に導かれた。…」と聖書に述べられている。しかし、イエスと御霊とでは、どちらがより権威と力を持っているのだろうか。もしイエスが神であるとするならば、なぜ彼は自分で荒野へと至らなかったのか?神は、自信を導いてくれる誰かを必要とするのであろうか?(2)この節の証言によると、悪魔(サタン)は、一部のキリスト教徒が神であるとみなしているところのイエスを誘惑した。ここで、素朴且つ論理的な疑問が湧くはずだ。それは『神が誘惑されるとでもいうのだろうか?』という問いである。 同じ聖書の中で、神は誘惑されえないと述べられているにもかかわらず、である。この事実は誘惑についても同じ話の中で、イエス自身が口にしていることである。同様に、イエスの兄弟であるヤコブは次のように言った。ヤコブの手紙第1章13節「神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑するようなこともなさらない。」(3)「そして、四十日四十夜、断食をし、そののち(イエスは)空腹になられた。」それではこの節を分析しともに考えてみよう。--神は断食をするだろうか?イエスは誰のために断食をしていたのか?神としての自分自身のためか、それとも自分よりも偉大なる何者かのためだろうか?神は空腹やのどの渇きを感じるだろうか? (4)『イエスの誘惑』(いくつかの聖書ではこのような見出しがついていることだろう)の話の中で、悪魔(サタン)がイエスを動かし、支配したことを我々は見出す。サタンがそのような振る舞いに出たのは、人としてのイエスに対してであったのだろうか?それとも神としてのイエスであったのだろうか?では、もし神としてのイエスに悪魔がそのようにふるまったとしたら、神は試され、動かされ、支配されていたということになるのだろうか?ここで、ヤコブの言葉を思い出してみよう。「神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、…」 イエスとサタンの会話の終わりに、サタンがイエスに『ひれ伏して私を拝む』よう求めたとき、イエスは悪魔に言った「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ使えよ」(マタイによる福音書第4章10節) 思うに、もしイエスが受肉した神であるというのなら、「いやサタン、お前こそひれ伏してお前の神である私を拝め」とあっさり答えたかもしれない。しかしその代わりに、彼は真の神のみを崇拝することについての言葉を口にしたのだった。我々はこの物語より次のことを知ったことになる:サタンはイエスを見た。サタンはイエスに話しかけた。サタンはイエスの声を聞いた。サタンはイエスを連れて行った。サタンはイエスに見せた。サタンはイエスと話をした。(マタイによる福音書第4章1-10節にあるイエスの誘惑の話全体を読んでいただきたい。) しかしながら、神を見ることもその声を聴くこともできないと聖書は強調して示している。テモテへの第一の手紙第6章16節「人間の中で誰も見た者がなく、見ることもできないかたである。」ヨハネによる福音書第5章37節「あなたがたは、まだそのみ声を聞いたこともなく、そのみ姿を見たこともない。」テモテへの第一の手紙第1章17節「世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなく、ほまれと栄光があるように、アァメン。」この問題を終える前に私は尋ねたい。イエスが地上において生きていた間に、彼の家族、人々そして信者は彼を見たり、その声を聞いたりしなかったのだろうか? 先に述べた節における神についての記述によるならば、イエスは神ではありえないことになる。これは正当かつ理にかなっていることなのではないだろうか。それでは実際のところ何が真実なのであろうか?そのことについて、考えてみてほしい。 ――実はこのお話には続きがあります。しかし、今はまだこれ以上は記しておかないことにします。(この後に三位一体について、イエスは神の一人っ子か?、それではイエスとはいったい何者であったのだろうか?結論、パウロについて、が続きますがここで記すのは無理がありますので、ご了承ください。) |
|
有用性の高い順 | 最新のレビューから
|
|
聖書 - 新共同訳 作成者 共同訳聖書実行委員会 (ペーパーバック - 1996/10)
¥ 4,515
在庫あり | ||