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カスタマーレビュー

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2015年9月12日
第2次世界大戦時におけるギリシャのクレタ島の羊飼いと英国特殊部隊のエージェントたちの驚異的なレジスタンス活動の秘密を解き明かすことが本書のメインテーマだ。羊飼いたちは食料も殆どもたずに驚異的なスピードで縦横無尽にクレタ島の山中を駆け回りドイツ軍を混乱と恐怖に陥れる。果たしてそれは如何に可能になったのか。
途中、ブルースリーの流派である永春拳や都市をフィールドとして自由自在に駆け回るヤマカシのエピソードを織り込みながら、本来人間が潜在的にもっている運動能力を解き明かしていく。それはジムのマシンによる反復的なワークアウトによる筋肥大を目指す現代の流行へのアンチテーゼとなっている。そもそも人間は野山を駆け回って狩猟生活を送っていたのではないか、ナチュラルムーブメントに基づく運動能力こそが危機にある仲間や家族をを助けることのできる英雄(英雄のみならず我々)が必要としている運動能力であるというメッセージでもある。
読み進めていくにつれ、クレタの羊飼いたちの驚異的な行動時間と走行能力は炭水化物ではなく、自らの脂肪をエネルギーにかえていた、という秘密が明かされていく。その理論的根拠となるのがマフェトン理論だ。糖質を制限することで体内にある脂肪を優先的に使用するように体を順応させる。
そして物語のクライマックスへと繋がっていく。クレタ島のレジスタンスの活動物語としても非常に面白い。
正直なところ、途中途中に(野生の本来の人間がもつ力を取り戻すという観点から)様々テーマがバラバラと脈絡もなく雑駁に織り込まれており、半分過ぎるまでは少々読みづらくテーマが絞り切れていないような印象をもった。糖質制限などについては『Go Wild』と内容が似通っているようにも思え、あまり新鮮さはなかった。この点『Born to Run』と比較するとやや残念だが、5つ星に値する本だ。
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2015年10月11日
この本にはいくつも入口がある。
身体論、スポーツ、古武術、生物学、ヒトの進化、解剖学、栄養学、戦史、冒険小説、興味分野がそれぞれに異なる持つ人たちを惹きつける入口が。
いったん入り込むと中は迷宮だ。
自分が選んだ入口からの道は交錯し、途中で広くなったり狭くなったりするが、ある瞬間、読者は広間にいる自分に気づく。
人間の本質とは何か?という古来からの疑問の回答がもしかしたら積み上げられているかもしれない広間に。
本書は迷宮のように、例えばクレタ島のクノッソス宮殿のように構成されている。

前作[BORN TO RUN]も、この[NATURAL BORN HEROES]でも、マクドゥーガルの執筆の根底にあるのは次のような疑問だろう。

運動に関して世間一般で正しいとされていること、それは本当に正しいのだろうか?
出鱈目で無茶苦茶で無謀な身体的な試み、そこには重要な鉱脈が未だに気付かれることなくひっそりと発見を待っているのではないだろうか?
チンパンジーと共通の祖先から分かれて500万年ほど独自に進化してきたわたしたちヒトという動物にとって[自然]な状態とは、この身体を最も有効に活かす環境や技能とは、それはいったいどのようなものだろうか?

[なぜ私の足は痛むのか?]が[BORN TO RUN]執筆の動機であったとすれば、本作ではそれは[なぜ彼らは英雄になり得たのか?]だ。
いずれも現代の高度に発展した資本主義社会に生きている人間には見えなくなってしまった、ヒトの500万年の環境への適応の歴史がその回答になる。

[BORN TO RUN]ではメキシコのタラウマラ族に伝えられるランニングの伝統と現代先進国のウルトラマラソンランナーの邂逅、その背景にある長い長いヒトの追跡狩猟の歴史が描かれた。
本作では、第二次世界大戦中の、イギリスの[イレギュラー]な軍人たちと駐留ドイツ軍人との戦いの過程を辿る中で、古代からの生活様式を保存し続けていたクレタ人の知恵と技能が現代の科学の目を通して再解釈されていく。

パトリック・リー・ファーマー少佐の活動を中心に描かれるイギリス人の戦いの経緯に密接に絡みあう大きな論点は、次の2つになる。
1.ヒトは200万年間、農耕社会とは無縁だった。ではカロリーを主に炭水化物から摂取する食生活は[自然]なのだろうか?
2.ヒトに本来備わった身体の使い方は、果たして現代スポーツ的なものなのだろうか?

1.に関しては割愛する。本書と同時期に刊行されたダニエル・E・リーバーマンの[人体600万年史](早川書房)に詳述されているので、是非こちらをご併読いただきたい(本書p.353、CHPTER32冒頭にこの本からの引用がある。邦題は異なるが同じ本)。ヒトの進化と適応に関する最新の知見に満ちた、非常に刺激に満ちた本だ。
ここで2.について個人的な体験と絡めて少し書いてみる。

最近、懸垂のバリエーションを増やしてみようと思い立った。
難度の高い懸垂として腰から上までを鉄棒の上に上げてしまう[マッスルアップ懸垂]というものがある。
この懸垂では通常の懸垂が完了した時点からさらに肩まわりの筋肉を使う必要がある。
その部位を強化する運動はしたことがないので、低い鉄棒を掴んでジャンプし、肩が棒を超えるタイミングで力を入れるトレーニングを始めた。

始めてみて驚いた。
垂直方向の繰り返しのジャンプができない。
正確に言うと垂直に跳ぶのが非常にキツい。
高さが出ない。
すぐ息が切れる。
多少は走っていたはずだが、アキレス腱の機能はちょっとした連続ジャンプに耐えられなくなっている。
廃用性萎縮の法則だ。
使わない部位は、どんどん使えなくなってしまう。

現在のわたしたちは、一般に[抽象化された動き]を[運動]だと考えている。
懸垂や腕立て伏せといった自重トレーニングにしても、特定の部位を鍛えるウエイトトレーニングにしても、スポーツや武道・武術の[型]にしても、さらには歩く、走る、投げるといった日常的な動作も、言ってみればこれらの動きは[抽象化]されたものだ。
筋力と重力のバランスの最適化で生まれる身体の動きを洗練させれば、その動きは抽象化するのは当然だ。
しかし、それだけでは取りこぼしてしまうものがある。
非常に重要な要素を、気付かないまま、廃用性萎縮の罠に陥いらせてしまう。
ダンベルは持ち上げることができても柔軟な米袋は運べない、ちょっとしたことで膝や腰を故障する、転んだだけで骨折する、今のわたしたちの社会の至るところで目にする、そのような身体ができあがってしまう。

身体は、[抽象化された動き]だけでは役に立たない。
順序が逆だ。
自然淘汰と適応の果てに得た本来の能力をイレギュラーな動きで十分に開花させたその後で、さらに[抽象化された動き]で身体の精度を高めるのが求めるべきあり方なのだ。
生まれた時から高度な資本主義社会と都会生活に囲まれて育ってしまっているわたしたちは、この大きな問題を平気で見逃してしまっている。

かつて、ヒトが歩く道はアスファルトで舗装されていなかった。
先祖たちはヒトの歴史のほとんど全ての時間、凹凸のある地面や岩場、急斜面を裸足で歩いていた。
果物やハチミツの採取のために木に登った。
その際には脚だけでなく腕で身体を支える必要があった。
不定形で不安定な重い荷物を自分の筋力で長距離運んだ。
生きるために必要なすべての[動き]は、決して抽象化されたものではなかった。
求められる身体の動きは大抵の場合[イレギュラー]なものだった。
わたしたちの目には[イレギュラー]と映る動きが常態(レギュラー)だった。

イレギュラーな動きは、ヒト本来の身体の動きについて重要なヒントを与えてくれる。
本書では都会の障害物を軽々と飛び越えていくパルクールの実践家たちや、ブラジルの自然の中でさまざまな身体機能の復活を目指している人たちがその例になる。
読書を一休みして彼らの動きを動画で見てみる。
するとそこには自分や普段目にする世間の人たちの動きとは本質的に異なる原理が見て取れる。
柔軟な塊として動いている印象、身体全体を使った高度で精緻な衝撃吸収、うっとりするような動きの滑らかさ、次々に現われる障害への即応力、そういったものだ。
見ていると確信めいた感覚が自分の中に生まれてくる。
[これが正しい動きだ]

マクドゥーガルは[BORN TO RUN]でトレイルランニングをテーマに取り上げた。
平坦な道を最新の技術が投入されたシューズで一定のストライドとピッチで走るの現代的なジョギングやマラソンとは本質的に異なる、荒れ地での長距離ランだ。
[抽象化]された走りとは異なる、先祖たちが暮らした環境と同じように、[イレギュラー]が常態として求められる動きの連続だ。
本著で取り上げられる身体性のルネサンス(復古)の象徴は[ナチュラルムーブメント]になる。

イレギュラーな動きが、ヒトの動きとしては当たり前だ。
イレギュラーな動きに対応する全身の協調のうえに成り立つ[抽象化された動き]が美しい。
そう見え、そう考えるのが自然だと本能が訴えてくる。
ブラジルの奥地でナチュラルムーブメントを追求しているエルワン・ル・コーはこう語る。
[フィットするというのは、鋼鉄のバーを持ち上げたりアイアンマンレースを完走できたりすることじゃない]
[生物としての自然な姿を再発見して、人間の中に潜む野生動物を解き放つことだ]

この本を読み、Youtubeでさらにいくつかの動画を見た。
考えた。
その結果、わたしの日々の運動習慣は急速に変わりつつある。
公園でバランス感覚を鍛えていた。懸垂をしていた。
今日はうまくいった、いまひとつだった、そんなことを考えながら家に戻っていた。
ついこの間までは。
今は違う。
ブランコを囲む30センチほどの柵、あの上を落ちずに歩けるだろうか?飛び越えられるだろうか?ジャンプして棒の上に静止できるだろうか?
あの階段を手をついて4本足の動物のように昇ってみようか?
子供用の遊具は大人のおれにどう使える?
負荷の高い運動はあの遊具でどうすれば可能になる?
鎖で支柱につながれた揺れやすい板の上に手をついて腕立てをすればとても不安定なはずだ。
両手と片手で試してみよう。
その負荷はどこに効く?
どう動いたらおれの身体のどこが最初に音を上げる?
これまでのんびりと歩いていた区間は少し走ろう。
ゆっくりと、たまにはダッシュして。

トンカチを手にすると目にする全てが釘に見えてくる、という英語のことわざがある。
実にまったく笑ってしまうほどその通りに、自分の意識が変わった途端、公園にあるあれこれが全く違ったものに見えてきた。
つまり、これまでは公園を歩く時間はお行儀のいい都市生活者だったが、いまや落ち着きなく周囲を観察し、状況に身体的に対応する狩猟採集民に先祖返りしつつある。

[BORN TO RUN]では無謀なトレイルランニングや超長距離マラソンにそれぞれのモチベーションと衝動から挑む人たちの姿が描かれていた。
本書ではADHD(注意欠陥・他動性障害)の子どもたちへの共感が示されている。
現代の教育現場では学習障害の一種として捉えられているこの精神の働きは、ヒトが狩猟生活を送ってきた長い時間、むしろ生存に有利な条件だったのだ。
状況に対応する。
状況で[役に立つ]。
そのために、様々なものに瞬間的に関心を持ち、考える。
情報を取捨選択する。
そうした意識の持ち方は、ヒトという動物として本来とても自然なものなのだ。
わたしが公園で目にするものがすっかりこれまでとは変わってしまったように。
追跡狩猟に必要なものとして選択されてきた精神の集中が自閉症という症状につながっているとすれば、環境の中に好ましい[状況]を見つける祖先たちのこうした断続的な関心の持ち方も、ADHDという名前をつけられて解釈されている、そういうことだ。
正規分布では[正常]の範囲に入る、わたしやあなたのような人たちも、精緻に分業化されたこの社会の中では自覚することなく、こうした精神の働きを抑制されている。
その抑圧は、さまざまなメンタルヘルスの障害をわたしたちにもたらす。
しかしそれは考え方を変えれば、意図的に自分をそう動かすことを試みれば、そうした抑圧は自分で解放、あるいは少なくとも軽減できるのかもしれない。
わたしはそれを自分の経験として理解した。
公園でソワソワと落ち着きなく他人がしない動きを始めてから、なにやら精神の風通しが良くなってきている。
心に溜る澱が少なくなってきているのを自覚する。

最後に[イレギュラーな動き]の実践について書いておく。
本書p.317にこう書かれている。

〈引用開始〉--------------------------------------------------------------

「たいていの人は運動を太った罰だと考えている」と、[ワイルドフィットネス]のサクスビーも言う。
「するとストレス解消どころか、かえって気が重くなるんだ。その点、エルワンのねらいは的を射ていると思う。運動は罰だという考えを覆せたら、すばらしいことだよ」
考えを覆す‥‥たとえば、巨大な大人用の遊び場を作るとか?
〈引用終了〉--------------------------------------------------------------

アメリカの事情はわからない。
だが日本にはいまも昔流行ったフィールドアスレチックという遊び場が細々と生き残っている。
検索すれば自宅から行ける施設がヒットするだろう。子供の頃に行ったことがあるかも知れない。
子供を連れて行ったことがあるかも知れない。
しかしこういった施設は、大人こそたまに足を運び、自分の身体が[役に立つ]かどうかチェックしてみるのに絶好の場所だと思う。
フィールドアスレチックでは、基本的にすべての動きは不安定性の中で行われる。
トレーニングジムや日々のランニングや自重トレーニングとはそこが違う。
普通、いい歳をした座業の大人が揺れる縄にしがみついて自分の身体をここからあそこまで動かす機会は、まず無いし、つるつる滑る板の上を駆け上ることもない。
だからたまに、自分の意思でこういう動きをしてみる。
身体を支えるのが脚だというのは思い込みだ。
たまには手にも、腕にも、背中にも仕事をさせよう。
怠けてしまっている部位に刺激を与えよう。
びっくりするほど[できない]自分を発見する羽目になるかもしれない。
しかしコースを周り終わった後の気分はいいはずだ。
身体の中の余計なものが燃焼されたように感じるはずだ。

中年ならたいていの人は翌日、全身の筋肉痛でのたうち回る。
だがその痛みは、何かを確実に教えてくれる。
自分が本来、そのように動く可能性のある動物だということを。

わたしたちは自分の中にある能力を、きちんと解放して生きることができるはずだ。
そのための知恵を身につけることができれば。
マクドゥーガル、リーバーマン、レイティ(ジョン.J)、マニング(リチャード)、こういった人たちの思考の最先端は、わたしたちが自分の頭と身体で[知恵]を模索することを後押ししてくれる。
おまけに、日本人であれば甲野善紀先生やその周囲の方たちの武術・武道的な身体論の知見も参照したり自分で試したりすることができる。(甲野先生が提唱する手の型が全身に及ぼす影響は、筋膜の機能と密接な関係がありそうだということを、最近わたしは個人的に発見した。)
もしかしたらいま、身体性のルネサンスの入口にわたしたちはいるのかもしれない。
いい時代になってきたんじゃないかな、と思う。
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2015年9月12日
物語として読むか、指導書として読むかどちらの面も持つ本。
食事や体の動かし方の描写は魅力的で小学生の時のように一見無駄で危ないと思われる体の動かし方をしたくなる。
食事に関しては科学的な裏付けはないので妄信してはいけないと思うものの、試してみたいと思った。
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2016年4月29日
前作に比べると得るものはあまりないと思います。
クレタ走りというものが出てきますが、具体的にどんな走りなのかさっぱりわからない。
マフェトン理論についても、ほかの書籍に方がおそらく詳しいはずです。
そしてとにかく読みにくい。
前作を更にしのぐ読みにくさ。
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2015年10月19日
前作『BORN TO RUN』はランニングというテーマに絞られた、いわば万人受けの判りやすい内容だった。
さて、本作はどうか?
残念ながら、判りにくい。
それもそのはずで、本作のテーマが壮大すぎるからだ。
人間という動物が、身体をどのように活かせる存在なのか。
この探求がベースにあり、決まった運動テーマがあるわけではない。
いわば「運動にテーマがあることに対するアンチテーゼ」がテーマだ。
それこそが本作に通底する主眼となっている。
だから判りにくいのは当り前だ。
メインストーリーは、著者が謝辞で述べるようにアリステア・マクリーンの冒険小説『ナヴァロンの要塞』を彷彿とさせるクレタ島の出来事が長々と語られる。
著者はこのストーリーにナチュラルムーブメントに繋がる要素を見いだしたんだろう。
その思惑は理解できる。
だが試みは成功しているとは思えない。
ナチュラルムーブメント事情を描きたいが枚数を稼げるほどの知見がない。
だからクレタ島の物語と抱き合わせにしたように感じる。
そこが残念だが、もともとクレタ島のストーリー本とナチュラルムーブメント本は別の作品にする構想だったそうだ。
強引な構成は確信犯なのだろう。
とはいえ、そもそもナチュラルムーブメントを文章化などできるのか?
もしかしたら著者もそのことに頭を抱えていたのではないか。
だからこそクレタ島のエピソードを微細に描いて、本を一本化した。
登場人物の行動にナチュラルムーブメントに繋がるものを想起できるかは読者の感性に委ねられているから、本の構成としてはリスキーな企てだ。
フィットネスジムや炭水化物への批判、パルクールの紹介、スパルタンレース(障害物競争)やクロスフィットの隆盛・・・
著者がどれほどナチュラルムーブメント事情に言葉を労しても、どこか虚しい。
「再野生化」もまた「新たなフィットネス」になるだけではないか。
より精緻な感覚や身体操作を必要とする「新スポーツ」になるだけではないか。
本書の読後感は、なんとも微妙なものにならざるを得ない。
人間は、そうしなけばならない切羽詰まった事情があるときに、動物的な野生を覗かせるだけじゃないのか?
クレタ島の物語が伝えるメッセージに、野生化を必要としない安全な現代社会を構築したことに対する感謝がないのは如何なものかとも思う。
「再野生化」とは「生存リスクの高い社会」になるしかないからだ。
さもなくば、服部文祥氏のようにサバイバル登山をしたり、角幡唯介氏のような僻地への探検をするべきか。
甲野善紀氏や内田樹氏のように、居つきのない身体探求の道へ身を投じるべきか。
どれも現実的じゃない。
さて、どうしたものか・・・?
その困惑こそが、本書の意義かもしれない。
自我の充実よりも、身体の充実を求める社会になっていく予感がする未来。
先入観のない身体運用に対する渇望。
読者それぞれが、本書の果てにどういった活動をしていくのか気になるところだ。
本書は読む人を選ぶマニアックな本だ。
ツボにハマる人にはグッとくる。
しかし他人のツボはわからないので、お薦めして良いのか悪いのか・・・
レビューでも困惑してしまう。
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2016年1月30日
とても面白かったです。
クレタ島での物語と、人類の可能性を、科学的に解明しているところがとても勉強になりました。
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