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44レビュー
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255 人中、193人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 2.0
言葉巧みにビューティフル・ドリーマーを装う単なる現状肯定,
By うぴやまあぴお (東京都) - レビューをすべて見る
レビュー対象商品: 一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル (単行本)
この本はルソーやフロイトによる歴史的思想とネット社会が、現代の議会制(代議制)民主主義の世界的行き詰まりに対し、いかに関連し応用されるのかを論じた意欲的考察として話題になっており、書評も多くご覧のようにamazonにも既に多くの方が様々なレビューを書かれています。しかしながら、実際に本書を読んでみると、一つの典型的意見と思われる池田信夫氏の「民主主義の過剰 - 『一般意志2.0』」などの見方は全く違うのではないかと思わざるを得ません。 そもそもタイトルに『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』とありますが、著者東浩紀氏自身の思想の核はむしろヘーゲルにあるのではないかと思われます。すなわち、第八章の考察、端的には本書139頁に示されている図こそが著者の本質的な思想であり、思想とは常に統合的なものであることを考えれば、一般意志2.0の概念は、「国家と社会のヘーゲル的関係」にデータベースによる無意識の可視化を組み込んだ「国家と社会とデータベースの新たな関係」に内包されるために、重要ではあるが全体から見れば部分に過ぎないということになります。 また、このような概念は著者の初期の論考で提示された複数の超越論性や『動物化するポストモダン』におけるデータベース理論などの社会的発展と見ることもでき、東浩紀の一貫した思想の方向性ではないかと私は思います。 以上のような著者の思想を前提に、本書で述べられている新たな政治のあり方を簡単にまとめると、従来通りの選良、すなわち官僚や代議士による熟議と、それらを完全に公開することで得られるデータベース化され解析されたニコ生的なコメントが拍手やヤジ的に熟議に影響を及ぼすというような、間接と直接の二重の民主主義を目指しているのであり、「「国家権力の問題を無視しているため、そこで描かれるユートピアは、国民が国会審議を見てツイッターやニコ生でコメントする、といった漫画的なものでしかない」というような読み方は、明らかに論考の半分を無視していると言えるでしょう。このことは本書でも繰り返し強調されておりますし、著者のツイッターでも述べられています。 しかし、それって本当に新しいことなのでしょうか? 「圧倒的に不毛だったが、ネットがマスコミみたいになっていることはよくわかった。問題の根幹を無視して、感情論ばかり。」 これは最近の著者hazumaのツイッターからの引用ですが、私は全くその通りではないかと思います。まさにネットがSNSの普及などで一般化すればするほど、どんどん既存のマスコミに近くなってきております。 そうだとすれば、いくらネットとデータベース技術が発達したところで、人民の無意識、すなわち一般意志2.0なるものは、結局のところ今のマスコミがこんなもんだろうと想定して生み出している大衆の欲望と何ら変わりはないのではないでしょうか?そして、今の政治がマスコミが提示した大衆の欲望にかなりの程度影響を受けながら動かされているのは明らかです。 つまり、震災後(震災とは何の関係もないと思うが)にはできなくなった夢を語るってことを僕にやらせてくれないか、などと言いつつ、あたかも素晴らしい理想を語るがごとき示された本書の来るべき政治のあり方は、実のところ今のマスコミと政治家が繰り返すマッチポンプ的現状と本質的には変わりないものと考えられます。 確かに、大衆の生の声を高度に分析すればそれなりに今より正確な「人民の無意識」が可視化されるでしょう。しかし、それはせいぜい、「多くの人は韓国がそんなに好きじゃない」とかその程度のことだと思われます。 本書は長年、政治バラエティ番組の司会を務められた田原総一郎氏に好評だったようですが、彼のような立場の人だったら本書の主張は実に都合のいいものとして受け入れられるでしょう。彼のそれまでの仕事を正当化してくれるからです。 東浩紀という人は、これまで新しい試みと称して様々なことをやってきましたが、テレビのバラエティ番組の真似事みたいなことが多かったと思います。津田大介氏のようなネットタレントを引き連れて被災地を取材したりなどもそういうことだと思います。 パッケージを変えただけのオルタナティブ、それをあたかも革命的事態に見せる手腕こそが著者の本領と言ってもいいかもしれません。
5つ星のうち 4.0
やっぱり東浩紀は本より話している方が面白い,
By
レビュー対象商品: 一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル (単行本)
社会学者の東浩紀がルソーの一般意志にフロイトが提唱した無意識とネットが生み出した新しい形を組み合わせ、一般意志2.0という新しい政治や社会の形を考案する。ルソーの一般意志は議論型の民主主義とは違う、様々な意志を差異を持ったまま活かしていくものである。この本で言われているフロイトの無意識はエディプスコンプレックスのような固有の無意識のことではなく、多くの人の意志の集合体のようなものであり、どちらかといえばユングの集合的無意識の方が近いと感じた。それらがグーグルなど、現在のネットのデータベース収集システムと組合わされることで現実の社会の中に姿を表わすことができる。 それは全ての政治議論がニコニコ動画のような一般人のコメントができる場で公開される社会だと東は言う。そこだけ聞くと拍子抜けする気もするが、それに至るまでの過程があるので非常に説得力がある。 確かに多くの一般人が充分に学び議論をするような民主主義は現実的には不可能であり、動物的な感情(感覚)と人間的な議論がうまく組み合わさった形でなければ現実に民主主義は成立しないのではないかと感じた。 しかしやっぱり東浩紀は本より話している方が面白い。
5つ星のうち 3.0
夢の話という前提はずるい,
By dra_w (岐阜県) - レビューをすべて見る
レビュー対象商品: 一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル (単行本)
筆者は、ルソーの社会契約論を、次のように解釈した。ルソーは社会契約論の中で「一般意志」というものを提唱した。ルソーは社会契約論の中で「一般意志」というものを提唱した。 それは、大多数の人々の話し合いによって磨き上げられた人々の総意”ではなく”人々が誰とも議論を交わさずぼんやりと持っている 無意識を寄せ集めることでできる一つの結論(総意)だという。そしてそれは全ての人々に対して納得できる結論で、不利益を生じさせない・・・とのことである。だが、一昔前は 「じゃあ、どうやって大多数の無意識を集めるの?」という問題に対し、解決策を見つけられなかったため、この考えは脚光を浴びられなかった。 しかし。ここで筆者は近年大流行しているTwitterをはじめとするSNSに注目する。 Twitterが実は人々の無意識を集積する装置として機能しており、ルソーが提唱する「一般意志」を可視化・実現化できるんじゃないか!・・・と熱をもって語る。 というのが、この本のざっくりとした内容。そして以下に感想。 まず面白いと思ったのは、文章中の「日本人というか現代人は「議論」という行為がとてもヘタクソであるから、議論によって一つの結論を導き出すのは難しい。だから、一般意志を 可視化し、それを人々の総意と認めることは効率がいいし、むしろそれ以外に方法はないんじゃないか。」という趣旨の言い回し。 逆説的に一般意志を肯定しているが、ここは素直になるほどと思った。 しかし。ぼくが全体を通して感じたのは、筆者のSNSサービスに対する理解の甘さ。 まず、Twitterの利用者は若者が圧倒的に多い。かつポジティブな意見よりもネガティブな意見の方が多い。匿名で投稿するのだから当然である。 だからTwitterを利用して日本人の一般意志を汲み取ろうものなら、それは日本の集合的無意識ではなく、例えるなら 「ケータイいじりが好きな大学生の総意」あるいは「〇〇(国や人)が嫌いな人々の総意」になる。 かといって、Twitterがあらゆる世代、あらゆる価値観の人に使われるようになれば、他の方が述べているようにTwitterはマス化し、 一般意志を可視化できる装置としての機能を失ってしまう。八方塞がりの状態なのである。 それを全部丸投げにして、Twitterによってルソーの考えが遂に形になるといった面だけを推すところはいただけないと思ったし、 何より、冒頭の「筆者の夢の話をする」といった一言が「これは所詮私の夢の話ですから」と言い訳しているように感じてとても引っ掛かった。
5つ星のうち 3.0
ルソー、フロイト、グーグルw,
By
レビュー対象商品: 一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル (単行本)
産業革命、IT革命と進化してきた世界ですが、ここでルソーにたちかえって投票行動なんかもあらたな局面に入るかもしれない、ということを思想界のトップスターが書いているという。日本がもしこういうシステムを独自に成功させれば、かなりのオリジナル資産になるだろうという、妄想というかなんというか。 グーグルの躍進 スマートフォンやタブレットの普及 ウィキリークス 尖閣諸島沖の衝突での海上自衛隊員のビデオ流出事件 今の日本の政治がポークバレルポリティックスで利権の引っ張り合いに陥るとか、なりがちなのに比べて、 グーグルに人々の意見が集約されることで、サイレントマジョリティ、投票に行かない人の意思がデータとして参照できるというんだけど。 あとフロイトの無意識というのは、社会(政治のような「カタい」側面)にとって必要なものなのか? これまではプライベートなもの(ヒット作品なんかには織り込まれて拡散するだろうけど)だったけど。
190 人中、121人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 1.0
一般バグ2.0,
By 廣田鉄斎 (東京都渋谷区) - レビューをすべて見る
Amazon.co.jpで購入済み(詳細)
レビュー対象商品: 一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル (単行本)
「50年後、100年後の世界においては、ひとを動物的な生から人間的な生へと連れ出してくれるのは、国家ではなく市場になることだろう」(250頁)東は1980年代のポストモダン=ネオリベラル=リバタリアン=消費社会=市場主義の嫡出子である。 しかし、東の「夢」の、市場における「商品」としての賞味期限は早くも尽きてしまった。そのことを東は本書の冒頭部分(序文)で端なくも告白している。 「筆者は・・・いま、その大きな夢について日本の読者に語りかけたくない、かけるべきではないとも感じている」(ではなぜ、この本をいま出版するのか?――引用者) 「いまそのような夢について語ることは、無用な反発を、そして軽蔑と失笑を招くのではないかと怖れている。なぜか。言うまでもなく、2011年3月11日に生じた東日本大震災が原因である」(8頁) ちなみに「無用な反発を、そして軽蔑と失笑を」の「無用な」という修飾語は「無用」であろう。 「この本は、震災前の筆者にしか書けないものだった」(11頁) つまり本書は、五十年後、百年後どころか、序文が書かれた2011年9月11日の時点で、賞味期限が切れてからすでに半年が経過した「トンデモ商品」なのだ。賞味期限が切れた「商品」を「市場」に出すのは、一種の「犯罪」に他ならない。ただし、アマゾンのレビュー欄をみると「東ファン」は一定数存在しているようなので、「ニッチ市場」はあるのかもしれないが。(本レビューがあずまんファンの「感情的」「動物的」反発を買うことは必至であろう。「このレビューは参考になりましたか?」という質問に対して「いいえ」のボタンを押す「集合的無意識」が多いのは覚悟の上である。笑) 本書に対するわたしのコメント。 第一。本書は「選良」(エリート)と「大衆」という二項対立の図式を温存している。 「一般意志2.0の世界においては、大衆の私的で動物的な行動(データベース)が、情報技術により集約され可視化され、政治家や専門家たちの公的な合意形成(熟議)を制約することになる。動物的行動の集積が人間的判断を制約する」(208-209頁) 「大衆=動物的行動 vs. 政治家や専門家たち(熟議主体)=人間的判断」という驚くべき図式。(ちなみに篠原一やジョン・ドライゼク等が「熟議(討議)民主主義」というときの「熟議(討議)主体」は「選良」ではなく、ふつうの市民[国民]である。東は「熟議(討議)民主主義論」のイロハもわきまえていない。市民のコミュニケーション――相互批判と自己批判――をつうじた、各人の狭い選好の変容=発展と公共性の構築が「熟議(討議)民主主義論」の核心である) 「選良が大衆に従うわけではない。選良が大衆の暴走を抑えるのでもない。逆に大衆の呟きによって選良の暴走を抑制するのだ。理性が欲望に従うわけではない。欲望を可視化することでむしろ理性の暴走を抑制するのが、この提案の目的である」(189頁) 「選良=理性 vs. 大衆=欲望」という「大衆社会論」(エリート主義)の使い古された陳腐な図式。 「未来の統治は、大衆の無意識を排除するのではなく、かといってその無意識に盲目的に従うのでもなく、情報技術を用いて無意識を可視化したうえで、その制御を志すものとなるべきである」(174頁) 折衷主義。 ところで、東自身は「大衆」と「選良」のどちらに属するのだろうか? 「断片的で矛盾だらけで、欠陥が多く混乱に満ちている」(21頁)「夢」を語る東は、定義から言って「選良」ではありえないはずだ。 「現代ではじつは、専門家とアマチュア、選良と大衆の区別はもはや人間集団の区別ではなくなりつつあ」り、「それはいまや、職能の区別であり、さらにわかりやすく言えば個人内の『キャラ』(役割演技)の区別だと捉えたほうがよい」(186頁) この指摘(だけ)は、なかなか鋭い。オルテガが『大衆の反逆』(1930年)の中で指摘しているように、現代ではすべての「エリート」が大衆である。 とすれば、東自身は本書を書く(本書の出版は、そもそも不必要なコミュニケーション?)ことによって、どちらの「キャラ」を演じているのか? 「大衆」として「動物的行動の履歴」を残しているつもりなのか? それとも、「選良」――統治者、制御者――として「熟議」に参加しているつもりなのか? 「わたしたちは、社会を運営するうえで、これからはまず可視化された大衆の欲望を条件として受け入れる必要があるのだ。そこに抵抗しても意味がない。政策が実現しなくなるだけだからである。かといって、それは大衆の欲望の奴隷になることを意味しない。その制約条件のうえでいかにすぐれた政策を立案し施行するか」(148頁)うんぬん。 「社会を運営する」「わたしたち」とは誰のことか? どうやら東自身は、みずからが「選良」の一部だと勘違いしているようだ。大きな勘違い。笑 「いくどでも繰り返すが、筆者は決して、国家の運営を直接に大衆に委ねることは提案していない。国政レベルの政策立案や利害調整は、膨大な知識と繊細な配慮を要求し、アマチュアがやすやすと参加できるようなものではない。これは当然のことである」(183頁) 東の(おそらく無意識の)国家像や政治像や大衆像は、意外なほど伝統的なものであり、ポストモダンというよりはモダンなものである。 第二。東は明らかに、震災後の「大衆による熟議」の噴出(批判的公共圏の出現)にうろたえている(エリートパニック? 笑)。こんなはずではなかった。大衆は――自分は?――もっと「動物的」な存在だと思っていた。。。 「現代社会の市民は、議論を始めるにあたって、議論の場そのものの共有を信じることができない。意見は異なっても、とりあえず同じ共同体の一員としてひとつの議論に参加している、という出発点の意識すら共有できない。・・・公共圏はそもそも起動しない」(97頁) 「あらためて指摘するまでもなく、現代人はもはや政治に関心をもたない。個々の政策論議に関心をもたないというだけでなく、政治そのものに関心をもたない。社会全体を見渡そうとする意欲が衰え、みなが私的な関心のなかに閉じ籠もってしまっているため、健全な政治や公共圏が成立しない」(105頁) インターネットやツイッター、SNS等の、安価で双方向的でグローバル(かつローカル)でユビキタスなメディアが「コミュニケーションなき個々の欲望の集計装置」以上の役割を果たすことは、すでに2011年の諸事実(アラブの春→3.11→OCCUPY運動等々)によって証明されている。いままさに、あらたな政治の時代、あらたな社会運動の時代が始まろうとしている。東が想定する「動物化するポストモダン」「オタク化する大衆」像は急速に色褪せてしまった。 第三。「情報技術は集合的な無意識を可視化する技術」だというが、その「分析」は意外と難しい。分析者の「解釈」が入り込む余地が大きいからだ。「一般意志2.0」すなわち「大衆の無意識の(集合的)欲望」をたとえばインターネットやツイッターから判別するためには、相当恣意的な操作が必要であり、「ネットワークにばらまかれた無意識の欲望を積極的に掬いあげ政策に活かす」(117頁)という口実のもと、「掬いあげ」る側(官僚?)の裁量(つまり、「選良」の権力)を拡大することにつながりかねない。「投票」「世論調査」「市場」等々の「在来技術」と比べ「ネットワーク」の「可視」性(客観性)が特に高いとは思えない。 第四。本書の出発点は、ルソーの『社会契約論』のトンデモ解釈に基づいていた。東自身がトンデモ解釈だということを自認している。 「本書では、・・・大胆に、軽率に、むしろ哲学の外の連想にしたがって『社会契約論』を読」む(29頁)。 東によれば、「一般意志」とは、「一般欲求」、さらにくだけて「均(なら)されたみんなの望み」ぐらいの意味だ(69頁)という。この「均されたみんなの望み」は「コミュニケーションの外部に数学的に存在する」(70頁)。その具体例が、「会議の飲み物」(や「平均身長」「平均体重」)であるというのは、ご愛嬌。 素人にもわかりやすく、ざっくり一言で言えば、ルソーの一般意志とは「法」のことだ。東はこの点をわざと無視しているか、もしくは――こちらの可能性のほうが高そうだが――勉強不足のため、まったく気づいていない。世俗の国家法は一般的に、(1)spontaneous(自成的・自然発生的→慣習法的)な側面と、(2)voluntary(作為的・主意主義的)な側面をもつ。ルソーの一般意志は徹頭徹尾作為的・主意主義的な法である。 さて、東によれば、 「ルソーはむしろ、一般意志の成立のためにはそもそも政治からコミュニケーションを追い出すべきだと主張した」(56頁) 東のかなり強引な訳。 >もし、人民が十分に情報を与えられて熟慮する(deliberate――フランス語が文字化けするので英語で表記する)とき、市民がたがいにいかなるコミュニケーションも取らないのであれば、小さな差異が数多く集まり、結果としてつねに一般意志が生み出され、熟慮はつねによいものとなるであろう。・・・一般意志がよく表明されるためには、国家のなかに部分的社会が存在せず、また各市民が自分だけに従って意見を述べることが重要なのである。 東は言う。「一般意志が適切に抽出されるためには、市民は『情報を与えられて』いるだけで、たがいにコミュニケーションを取っていない状態のほうが好ましい。・・・つまりは、ルソーは・・・一般意志の成立過程において、そもそも市民の討議や意見調整の必要を認めていないのである」。「一般意志を導き出すためには、市民は意見を交換しないほうがよい」。「政治的な議論の場、コミュニケーションの場そのものが、一般意志の出現のためには障害になる」。「つまりルソーは、政治にコミュニケーションは必要ないと主張した」(53-56頁) だが、ルソーは同じ「テクスト」の中で、次のようにも述べている。 「ひとたび、公共の職務が、市民たちの主要な仕事たることを止めるやいなや、また、市民たちが自分の身体でよりも、自分の財布で奉仕するほうを好むにいたるやいなや、国家はすでに滅亡の一歩前にある。戦闘に進み出なければならないというのか? 彼らは軍隊に金を払って、自分は家に残る。会議に行かねばならないというのか? 彼らは代議士を指名して、自分は家に残る。怠惰と金銭のせいで、彼らはついに祖国をドレイ状態に陥し入れるために軍隊をもち、また、祖国を売りわたすために代議士をもつにいたるのだ」。「真に自由な国では、市民は自分の手ですべてを行い、金銭ずくでは何もしない。自分の義務をまぬがれるために金を払うどころか、金を払ってでも自分の義務を自分で果たそうとするであろう」。「うまく運営されている都市国家では、各人は集会にかけつけるが、悪い政府の下では、集会に出かけるために一足でも動かすことを誰も好まない。なぜなら、そこで行われることに誰も関心をもたないし、そこでは一般意志が支配しないことが、予見されるし、また最後に家の仕事に忙殺されるからである」。「国家について誰かが『わたしに何の関係があるか?』などといい出すやいなや、国家はもはやほろびたものと考えるべきである」(岩波文庫版『社会契約論』131-133頁) 「公共の討議の際に、・・・個別意志が一般意志にとってかわる」(同150頁)可能性がある、つまり、「一般意志がよく表明されるためには、国家のなかに部分的社会が存在せず、また各市民が自分だけに従って意見を述べることが重要なのである」(東訳)、というルソーの主張(これは「封建的中間団体排除」という歴史的文脈に基づいた主張だ――注参照)から「つまりルソーは、政治にコミュニケーションは必要ないと主張した」という一般的結論を引き出すのは、歴史的文脈を無視した東のトンデモ議論である。 (注)フランス革命時に「封建的中間団体排除」のための「ル・シャプリエ法」が制定されているのは有名な話だ。これは、1791年6月14日、ル・シャプリエの提案した法令で、正式には「同一身分同一職業の労働者及び職人の集合に関する法」という。特定の職業の者がその共同利益のため団結すると、経済の自由競争を妨げることになり、個人的利益も一般利益も害されるとし、労働契約は事業主の一存に委ねられた。違反者には罰金や禁固が科せられた。自由主義経済の基礎をなす重要な法令だが、公的な制度としての同業組合の結成は禁止されたものの、私的な独占や談合は禁止されなかったという、大きな欠陥があった。そのため、穀物を出荷する農民や穀物商人達が売り惜しみをしたり、談合で価格を吊り上げたりし、これがパンの価格を高騰させ民衆を苦しめた。しかも、賃上げのための労働者の団結は厳しく禁止されていた。この事実上の「労働組合結成禁止法」は1864年まで存続した。(東は、「原子力ムラ」という国家と個人との間に介在する中間団体、大企業の談合や、産官学軍の癒着、大企業と巨大メディアの「コミュニケーション」等の現実はシカトするのだろうか?) 歴史的文脈を無視しているだけではない。東は「一般意志」の成立過程の問題を、意図的にか、あるいは論理的混乱のためかはよくわからないが、政治プロセス一般の問題と混同している。いわく、「つまりルソーは、政治にコミュニケーションは必要ないと主張した」。この命題は完全な間違いである。ルソー解釈の問題(deliberateの訳語は噴飯もの。『社会契約論』の他の部分での用例と照らし合わせて検討すれば、この語が「公的=公開的に討議[審議]する」という意味であることは明白)にはこれ以上立ち入らないが、ルソーの「真意」はともかく、「政治にコミュニケーションは必要ない」という主張が2011年11月の本書出版の時点でどれほどの説得力をもつであろうか? 情報技術は「集合的無意識」「一般欲求」を測るための単なる指標ではなく、一般大衆(市民)相互間での、安価で、グローカルで、かつ瞬時の、ゆたかなコミュニケーション(社会的学習)のための武器となりつつあるのではないか? それが「政治」に大きな変化をもたらしつつあるのではないか? 3.11以降、ネットの世界を覗いたことがある人なら、東の議論が成り立たないことがよくわかるはずだ。 「第二の近代」における政治の「本質」は、むしろ、再帰的=自省的な「コミュニケーション」にあるのだ。 結論。 東のトンデモ議論は、いまとなっては「超反動的な議論」である。歴史のゴミため行きは確実だ。
182 人中、115人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 1.0
コウモリ,
By 視聴者A (京都府) - レビューをすべて見る
レビュー対象商品: 一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル (単行本)
個人的に衒学的なポストモダンの思想は難しく、よく分からないのですがそれを主張する人がいるのは大いに結構だと思いますし行き過ぎた全体主義を掣肘するためにも必要でしょう。また本書は学術的な本ではなく一般向けの書物です、細かい学術的な論点を無視していてもそれは非難にはあたりません。しかしながら、ポストモダン的な立場に立つなら立つでそれを貫く、一般向けの教養としての書物であれば得られた知識を他人に語って恥をかかない事が求められている「品質」であると思います。思想的な立場の如何ではなく、そのような品質からして本書は低いと言わざるをえません。 まずは立場の問題ですが、本書ではしきりに、それこそしつこいほどに筆者の葛藤、悩みが吐露されています。エッセイならそれもよいでしょうが、過去の偉大な思想家たちがそうであったようにそのような葛藤は作品に織り込むもの(それが新たな「立場」になるわけで、だからこそ時代を代表する偉大な思想家というのはその業績を一定の時期に分けて研究されるのです)であって、ある立場を主張しつつ、反対の立場に対しても一定の共感を示すようなことは言論人として余りにも不誠実です。 動物化することを肯定する事が人間の理性を強調する民主主義に結び付くのだという理論展開も、ポストモダンを無理やり捻じ曲げて(ポストモダンの理論家たちはそれこそデリダも含めて、そのような状況に悲観的な人が圧倒的多数です)無理やり捻じ曲げた(後述)モダンの根っこの部分にくっつけた印象を強く受けます。 次に根拠の妥当性ですが、これは他のレビュワーの方も指摘しているように正直なところ噴飯ものです。 個人的に一番気になるのはやはり一般意思の解釈です。 筆者はルソーの一般意思をそのままの意味として読んでいますが、理論の、主張の、言葉の、歴史的な背景を気にしない学問がどこにあるのでしょうか。啓蒙思想家であり、フランス革命に影響を与えたルソーの言う一般意思とは当然ながら第三身分(特権階級に対する市民)の意思を指すはずです。その事を無視して論じているのであたかも筆者の主張するところの「一般意思」なるものがフランス革命から始まる近代民主主義の根源であるかのような錯覚を与えますが、感情的で動物的な大衆と熟議を好む公衆の区別どころかその源泉である「市民」という概念すら未成熟だった時代に生きたルソーがいまだ存在していない大衆と公衆を区別し、大衆的なものこそが民主主義の本質だと主張していたというのはあまりにも突飛で正直意味が分かりませんし、そのような重大なパラダイムシフトをわずか数ページであたかも当たり前であるかのように主張するのは流石に苦しいと思われます。 公衆と大衆の区別についてもそうですがどうも筆者はドイツ系の思想史(というかフランスポストモダン以外の思想史)をほとんど知らないのではないかと思われます。 例えば熟議による合意は近代における正当性確保の為の唯一の「手段」であり、実際は達成不可能であってもそれを目標としたコミュニケーションによって社会変化は可能となるというようなハーバーマスの主張、純粋理性(熟議において想定される理性)に対する道具的理性(大衆を扇動するために用いる理屈)といったフランクフルト学派の仕事を知っていれば熟議を単なる合意形成のための手段としてとらえてその価値を勝手に定義し、勝手に断罪し、代案として大衆迎合的な政治システムを提示するような本書の主張を何の反論も予想することなく出来る筈がありません。 少し立場批判的になりますが、ポストモダンの思想家の多くは大衆化、動物化する現代を悲観していますし、公衆を再構成しようとする試みの方が今日では主流です。だからこそ主流に逆らう筆者には「主流派の主張を踏まえた(それ以前のルソーではなく)」それなりの論拠を示す必要があります。 そのような「一般的な読み方」や思想的な「流行」に対する配慮のない突飛な解釈を本書の主張を少しでも知識のある人に開陳したら、恐らく失笑と反論を受けるでしょう。そしてそれに対する再反論はこの本には書かれていないのです。 高校世界史、倫理レベルの知識でもちょっと考えればおかしいと気付きます。筆者のような学識を持った人間がその程度の事に気付かない訳が無いのですから筆者の本書における誠実性を疑わざるをえません。 以上のようにポストモダンとかモダンとか、あるいはハイ・モダンとかそういう理論的な立場の問題ではなく、その品質自体に疑問を抱かざるをえません。 思想家というのはあれもこれもとそれらしい言葉があれば適当に結びつけ、おいしい所だけを頂くコウモリではなく、葛藤に折り合いをつけ、それを乗り越えようとするワシやライオンのような熱意と意思、そして何よりも人間としての誠実さを持った人物を指すのではないでしょうか。
190 人中、120人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 2.0
ま、消費財としての思想ってとこでしょうか、読者も消費者ですから。,
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レビュー対象商品: 一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル (単行本)
東という人は大変なネタ投下の才能に恵まれていると思う。率直に言って内容はアナだらけ。言ってることも首尾一貫しない。次から次に派手な打ち上げ花火を炸裂させ、大風呂敷を広げまくりなのだが、論証や実証の代わりに比喩を多用し、主張といえる主張が取り出せるかどうかもきわめて怪しい。ツイートを集計して無意識を可視化するなんて言うけど、具体的な統計処理方法のアイディアが示されているわけではないし、その処理方法の決定をめぐって果てしない係争が起こることは容易に予想できて、東のイメージする社会においては、そこに権力闘争が発生するに違いない。 大体、タイトルにルソーの「一般意志」を持ってきて、行論の行きがかりみたいに「本書は、ルソーを生き返らせるためにグーグルやツイッターを召喚する、そのような本なのだ」(p89)なんて言ってるけど、これは明白なウソで、「グーグルやツイッターを輝かせるためにルソーをダシに使っている」というのが正しい。 ただ、アマゾンやグーグルやツイッターにどこまでも寄り添って行こう、それらの存在を肯定しようという決意というか、断固たる意志は十分に伝わってきて、私としても、その姿勢に異議はない。 だからこれは、本当に、「夢」を語った本で、未来の思想史家(もしその時代にも人々が「思想史」という趣味を保っていたならば……)によって「夢想的ツイッター民主主義」と呼ばれることになるかもしれない。
79 人中、49人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 1.0
だから?,
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レビュー対象商品: 一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル (単行本)
で?という内容、著者の意見を要約すると「これからはツイッターやグーグルやニコニコ動画などによりいわゆる集合的無意識や、ルソーの言う一般意志が可視化されていくので、それをうまく使っていこう」 これだけ こんなものは提案でもなんでもないし、夢でもなんでもないし、ツイッターやグーグルが出てくる前からこの発想は当然あったし 『あった』どころか、こういう発想で生まれてきたのが選挙制であり議会制であり民主主義だろう。 だが著者は何故か民主主義や議会制には批判的な立場を表明している。 2ちゃんねるでは中国や韓国の問題を語れないと言っているが、なぜそのような偏りがニコニコ動画のコメント欄や他のネットサイトでは生じないような前提で議論を進めていることもおかしいし いや、一部のネットだけだと偏るから、もっと膨大に、その地域の住民はどういう商品を買っていて、どの時間帯に何を買うのかまで徹底して調べるんだ!と言う場合 それはただの統計データを利用した制度設計や事業政策であって、そんなものはとっくにあなたの嫌いな政府のお役人は重要性に気付いてやっているし、仔細に詳細に膨大なデータを取っているよ。 いや、足りない、もっと、ネットを利用して詳細にデータを取れというなら、それは正に著者が後半部分で批判していた「ネットが世界を変える、と騒いでいる人達」に過ぎず やはり、夢や未来を前衛的に批判を恐れず語っているような内容とはとても言えない。
12 人中、7人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 2.0
微妙。。。,
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レビュー対象商品: 一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル (単行本)
この著者ってヒエラルキーとか上下関係についてすごく盲目的。ソーシャルメディアで何が変わったかといえば、ツイッターなどのソーシャルメディアを通して低位の者が高位の者に拾われる機会が増えてハッピー、というストーリーしか提示していない。そのヒエラルキーも例えば知名度であるとか、政治家であるとかそういったもので、「ソーシャル」メディアがない時代からあったよねそれ?っていう感じ。
2 人中、1人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 3.0
非リア充の元非リア充によるリア充のための政治学,
By mn (東京都練馬区) - レビューをすべて見る
レビュー対象商品: 一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル (単行本)
一般意志とはルソーが主著『社会契約論』において編み出した概念で、市民たちの欲望の集合のことである。あらかじめ国家という自己同一的な存在の存立のために理念的に考えられた全体意志とは異なり、革命権を担保された人民たちによる暫定的な総意という含意がある。このため、後のヘーゲルによって純化されることになる人民の存在の基盤となる国家を立ち上げる概念とは相異なり、きわめて抽象的なものとして考えられた。東はこの一般意志というものは、このコミュニケーション技術の浸透した情報社会においては具体的に出現しているという。グーグルの検索履歴の記録やSNSに集められた人々の日常生活の息づかいがデータベースとして格納されているというのだ。これらの情報を解析し、傾向を読み取り、数理的に処理すれば、そこでの息づかいから人民の「無意識」を可視化できるということらしい。 これまで政治とは人民の利益を代表する少数の人々が議論をし、各方面との利害を調整し、多数の人々のあいだでの調停点をみつけるものであった。しかし、東は、これからの政治はそういう熟議の過程をさすのではなく、すでにそこにあるモノとしての上記の「無意識」に少数の選良らが規制を受けながら、政策をきめていくものになるという。そして、イデオロギー的なものは趣味として残り、未来の国家はそういった文化・思想・宗教的なものが人民に対して及ぼす影響などには関心を払わなくなり、ゾーエーとしての側面にのみ介入し、生存権/安全に暮らす権利を保証すべき存在として存続するのだと結論づけ、それらの政体を民主主義2.0と名付ける。 この立論にたいしてとりあえず批判すべき点は… 1)資本主義自体が排除の原理に根ざしているという現実の無理解により、資本と国家の共犯関係に目もくれず、それらが容易に分離し、資本はビオスとしての自己実現に、国家はゾーエーとしての自己保存を担当するとし、資本=ネーション=ステートの三幅対を容易に解体してしまっている。 2)無意識の可視化という語義矛盾。無意識は可視化された時点で、無意識ではなく、無意識的なものはいつまでも残存しているということへの無理解。人民の息づかいはそれ自体特権的なものとして出現するものであるという認識がない。その結果、表象の暴力が包摂しきれない、「残りのもの」への不可能な配慮もない。 3)無意識が実体化されているが、いうまでもなく、精神分析の見出した無意識とは事後的に見出されるもの。国家=資本の権力が無意識を生み出しているのであって、その逆ではない。つまり、東の議論に即して言えば、選良が無意識によって規制されるべきだという立論は順序が逆なので妥当ではない。 <結論>;元非リア充がリア充になろうとすると、非リア充を排除し始める。 |
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一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル 作成者 東 浩紀 (単行本 - 2011/11/22)
¥ 1,890
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