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「検視官」シリーズのパトリシア・コーンウェルが、新たな分野を開拓した。テーマは、ビクトリア朝末期の伝説的な猟奇殺人犯である「切り裂きジャック」。これまで浮かび上がった何人もの「容疑者」のなかから、イギリス美術界で重要な位置を占める印象派画家ウォルター・シッカートを真犯人であると名指し、科学捜査と膨大な資料の分析によって、立証しようとした意欲作だ。
圧倒されるのは、この1冊に費やされた時間とお金、人材だ。訳者あとがきによると、調査に7億円が投じられたらしいが、小説とは違って、資料を手に入れる過程や、最先端の科学技術による分析が報告されるので、そのスケールの大きさにただただ驚くばかり。さすが、執筆のアドバンスに10億円以上が支払われる人気作家だけのことはある。
DNA鑑定や紙の分析、コンピュータによる画像処理、筆跡やシッカートの絵画の細かな検証。切り裂きジャックの研究家はさぞやワクワクすると思われるが、なにせ事件は1世紀以上も前の外国でのことなので、一般読者はどうしてもこのくだりでは、「へえ、そうなのか」と受け身に終わってしまう。だが、著者は不満かもしれないが、研究家でない読者にとってのおもしろさは別のところにある。切り裂きジャックが暗躍したロンドンの貧民街の描写(エレファント・マンも出てくる)や、当時の犯罪捜査のあり方、犠牲者の傷などからの犯行の再現、科学捜査の発達史などの部分が、小説に負けず劣らず、読むのがやめられなくなるほど興味深い。コーンウェルはまた、シッカートの生い立ちや生涯を丹念に追って、快楽殺人に向かう人間像を浮かび上がらせる。著者ならではの豊富な知識、巧みな展開と描写力、そして「切り裂きジャック」への、なみなみならぬ情熱が合体した力作だ。
ただ、犯人としたシッカート周辺の登場人物が多く、時間も場所もあちこちに飛ぶ。簡単な人物関係図があれば、役立ったかもしれない。(小林千枝子)
出版社/著者からの内容紹介
コーンウェルが真犯人を突きとめた!
7億円の巨費と現代科学を駆使して迷宮入りの難事件を解明する。
切り裂きジャックとは、1888年にロンドンの下町イースト・エンドで娼婦を惨殺した連続殺人犯のあだ名である。現在までさまざまな容疑者が指摘されているが、未解決に終わっている。コーンウェルは初めてのノンフィクションにも得意の鋭い推理力を発揮し、ジャックの正体をヴィクトリア朝の画家だと指摘した。彼の絵画を収集して絵の具を分析し、また彼が出したと推定される手紙の紙質を調査して直接証拠の発見に努力している。この事件に賭けたコーンウェルの凄まじい情熱をひしひしと感じる。――仁賀克雄(犯罪研究家)