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とおのとほさんが書き込んだレビュー (山形県東置賜郡)

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そばもん ニッポン蕎麦行脚 9 (ビッグコミックス)
そばもん ニッポン蕎麦行脚 9 (ビッグコミックス)
山本 おさむ著
エディション: コミック
価格: ¥ 566

5つ星のうち 5.0 鴨南蛮そば、ひさしく食べてないなあ, 2014/7/24
9巻は、わが在住の山形県も舞台になっている。福島県で見つかった天保時代のそばの実が山形市のそば関係者によって発芽に成功したという話。地元ではテレビニュースで紹介された。
栽培の過程で他種のそばと交配しないように、飛島という離島で栽培したのだが、その飛島での悲しい話もまた登場する。
飛島はトビウオが獲れるということで、対岸の酒田市には、お店に近づくだけでも「あごだし」の香りがプンプンするワンタンメン屋さんがある。おそばには使わないらしく、この巻でも話題になっていない。

山形市郊外(286号線)にあるそば製粉所鈴木製粉は、少しでも冷涼なところ、ということで街のど真ん中からやや標高の高い現在の滑川地区に移ってきた。そば粉は熱の出ない石臼で引くのがいいということで何十台もの石臼をモーターで回す石臼館を建設して10年は経つ。

1995年ごろ、そば打ちブームが田舎にもやってきて、わたしもやりたいと知り合いのそば屋さんにいうと、その製粉屋を紹介してくれた。前もって電話し、準備してくれていた袋詰めを取りに行くと、「打ち粉はいらないんですか」といわれた。当時、一般向けの食材屋さんでは見たこともない「打ち粉」もこれで入手できた。

この工場の近くには、商売でお客の接待に眺めのいいところを求めて作ったという蕎麦屋がある。隣には、野球のピッチャーがマウンドで手にパンパンとはたいている粉(ロウジングバッグ)を製造している工場がある。シェア率は高かったと思う。吸い込まないように防毒マスクのようなすごいマスクをつけてやっているのでビックリして覗いたことがある。

今巻はますます「本格的大人のマンガ」の様相を呈していた。「学習マンガ」というと子どもっぽいが、本書は「大人の学習漫画」である。つくづく勉強させられる。
作画にするためには相当の調査(考証)が必要だと思う。「おしん」のシナリオライター橋田壽賀子が「シナリオは楽よ。時代考証なんかしなくていいんだから」とテレビでいつぞやいっていた。もちろん、自己卑下しての発言で、シナリオライターにもそれなりの大変さはあるということを前提にしての発言なわけだが、漫画家は全部やらねばならないので、なかなか作画は進まないのではないだろうか?
原作家梶原一騎が生きていたころ、彼の原稿が紹介され、「そんな細かいことは絵かきに任せてますから」みたいなことを述べていたようなきがする。最終的にはみな漫画家がやらねばならないということで、大変さは想像もつかない。おかげさまで、こちら読者は分かりやすく情報が得られ、楽しむことができる。ありがたいことだ。


風立ちぬ・美しい村 (1951年) (新潮文庫〈第140〉)
風立ちぬ・美しい村 (1951年) (新潮文庫〈第140〉)
堀 辰雄著
エディション: 文庫

5つ星のうち 5.0 自分にはあり得ない二人の一体感, 2014/7/22
〈風立ちぬ〉
「序曲」 婚約直前の、つまり親の許しを得ないおつきあい場面。避暑地軽井沢のホテルにしばらく滞在して二人の愛を育んでいる。節子は自然風景を油絵に写し取ろうとしている日々。「私」もホテルの近辺で読書や執筆をしていたのだろう。日が傾く前に、先に仕事に目途をつけて節子を迎えに行く。節子の作業に目途が付くまで「私」は腰を下ろしてしばらく様子を眺めている。そればかりか絵をうっちゃらかしてふたりは肩を寄せ合って八ヶ岳の自然をしばらく味わう、というか、自然の中にいる自分たちの愛を味わっている。夏の終わり、たぶん7月中旬から8月のお盆前までの数週間、節子のお父様が迎えに来て離される前までこうして過ごしたのだ。
「春」3月。節子の父に相談を受け、二人で夏を過ごした軽井沢のサナトリウムに療養に行くことになった。節子の胸の病気がなかなか回復しないのだ。
「風立ちぬ」 4月下旬にふたりは入院した。「私」は付き添いなのだが、彼だってけっして健康な感じではない。
サナトリウムは静かで人気がなさそうだが、もっとも状態の悪い人が亡くなった。そうすると院内中に伝染したように病室のあちこちで反応し、院内が騒然とする。
しばらくすると、ノイローゼになった人が近くの林で栗の木に首を吊る。栗の木は丈夫で折れないので選ばれるのだ。病院の対策に栗の木は切り倒され、公園にされる工事が始まる。
「冬」 節子はじつは回復などしない。悪くなる一方である。病院で二番目に悪いといわれていた。一番悪い人が亡くなったので、次は節子の番かと怯える。二人の一体感が分離し始める。エゴのためではない。相手への気遣いが死ぬ人と生き残る人の違いによって。二人の療養生活での愛の物語を構想し節子に語る。忍び寄る死を振り払おうと、将来、この日々を思い出すことを夢想する。
「死のかげの谷」 節子の死後、積雪期、山荘を借りてひとりで暮らし始める。二人で暮らすのが夢だった。いや、二人で暮らそうとやってきたのだ。肉体を持つものは一人だが、つねに節子が隣にいて「私」を見守っている。リルケの「レクリエム」を読む。執筆にも取り掛かる。


風立ちぬ・美しい村 新潮文庫 草4B
風立ちぬ・美しい村 新潮文庫 草4B
堀 辰雄著
エディション: 文庫

5つ星のうち 5.0 ちっとも説教臭くないのに、大切なことを教わっている感じがする, 2014/7/22
密度の濃い文章、時間の流れ方だった。ふりかえって、どうして、自分は雑な時間しか生きられていないのだろう、と反省させられた。
読みにくさは、もちろん自分の力のないせいであるが、この時間の流れの速度や濃さが主因だと思いたい。それから文体はどうだろうか。
例ば「それらの夏の日々、一面に薄の生い茂った草原の中で・・・」
というような冒頭の書き出し文は倒置法というでもいうのだろうか、「それら」とは何を指しているのか、これから読んでいくところに書いてあるから、というような書き方が散見された。そのような当時の最新のレトリックを駆使したなじみのない文体になっているからではないだろうか。まるで詩のような密度の濃い文章になっていることからも思える。

「同情」という言葉づかいも現代とは違っているかなと、活字を追う視線が止まった。
現代では、同情というと、相手を見下した、ネガティブな意味が付随している。けれど、本文では「情愛をお互いに抱きあっている」というような使い方だ。「共振シンクロナイズ」ともいえるかもしれない。二人の一体感をそれは表現している。
「冬」「十一月二十日」「こいつはおれ自身が気づかぬようなふりをしていたそんなおれの生の欲求を沈黙の中に見抜いて、それに同情を寄せているように見えてならない。」
goo辞書に述べられていた「他人の身の上になって、その感情をともにすること。特に他人の不幸や苦悩を、自分のことのように思いやっていたわること。」の「感情をともにすること」がそれかもしれない。
最後まで引用してみる。「そしてそれが又こうしておれを苦しめ出しているのだ。・・・おれはどうしてこんなおれの姿をこいつに隠し了せることが出来なかったのだろう? 何んておれは弱いのだろうなあ・・・」ここまで読むと、goo辞書の意味のとおりだ。現代と同じ使い方だ。私の理解している意味(相手を見下す)とは違っている。むしろこちらの思い込みが一般的でなかったようだ。
こんな検討をしてみて、二人の理解しあう営みがわたしのような者とはケタ違いの深さであることがしみじみと分かった。反省させられる・・・。

堀辰雄は数学が好きだったというだけあって、じつに緻密な文章であり、作品だ。だから、朴念仁のわたしには、なかなか噛み砕きにくい個所が多々あり、さらに深いところに横たわっているであろう生と死のテーマについても、論理的にも感覚的にもつかみにくく、わたしにとっては難解さのある小説である。ちっとも説教臭くないのに、大切なことを教わっている感じがする。

病妻との純愛小説、というレッテル・レベルくらいは分かるが、表紙の評言「生きることよりは死ぬことの意味を問い、同時に死を越えて生きることの意味をも問うている。」という認識までにはとても至らない。修行が足りないなあ。


昭和残侠伝 [DVD]
昭和残侠伝 [DVD]
DVD ~ 高倉健
価格: ¥ 2,458

5つ星のうち 5.0 かつて「庶民」という階層があった・・・, 2014/7/21
レビュー対象商品: 昭和残侠伝 [DVD] (DVD)
昭和21年の浅草が舞台。老舗のテキヤ関東神津組と新興愚連隊新誠会の露店商囲い込みの争い。
レジャー産業の少なかった時代、賭博と性風俗は田舎にでもあり、相当に高潔な人物以外は、例えばお寺さんだって出かけていった。日本はそんなところには、いまだにゆるく寛大なところがあって、2012?の橋下大阪市長の従軍慰安婦発言、2014の東京都議会でのセクハラ発言など、おおらかな発想と、タテマエとホンネをキッチリ使い分ける欧米流がぶつかり、日本伝統的発想は陳謝の連続である。ヤクザという反社会的勢力にも、日本の庶民はゆるく、むしろ反権力的勢力としてヒーロー扱いしがちなところもある。ヤクザのなり手も庶民だったからだ(現在は高学歴ときく)。
だから、仁侠映画は感動を呼びヒーローが作られやすい。日頃、うまく口ではいえないことを映画の登場人物たちが代弁してくれる。その優しい、よくわかってくれる言葉に共感し、泣きたくなるほどの感動を覚える。

主演の高倉健は明治大学卒業の高学歴者で、本来はスーツを着て営業や事務職に従事するところだったのだろうが、イケメンが災い(幸い)して、俳優業の道に入っていったという。九州のご実家は人足を手配する家業だったとい聞く。農家出身や公務員家庭出身の俳優よりもオーラは近いものがあったのではなかろうか。わたしは高倉健さんの仁侠映画は30歳過ぎてから見始めたが、その優しさ(セリフ上ではあるが)や男らしさが感じられるようになった。なにより、その周辺に描かれている庶民たちにとてつもなく郷愁を覚えるのだ。わたしのじいさんは宵越しの金は持たない職人だった。東京の建設工事に出稼ぎに行って、三越で買ったという三輪車を送ってくれたことがある。そのじいさんの背中には滝を這い昇る鯉の刺青がしてあった。戦前は法律さえも金持ち有利なようにできていた。庶民はせいぜいこんなことでがんばるしかなかったのだ。
超高齢になったケンさんの若いときの、網走番外地シリーズや任侠モノを少しずつおさらいしてみようと思う。


レインマン [DVD]
レインマン [DVD]
DVD ~ ダスティン・ホフマン
価格: ¥ 927

5つ星のうち 4.0 どんなにハチャメチャになっても家族は生涯、ともに暮らし、心配しながらも次世代に託していく, 2014/7/19
レビュー対象商品: レインマン [DVD] (DVD)
松田勇作主演の「蘇える金狼」1979年封切られた時、映画館に行って見たのだが、カッコよかったのはともかく、ラストシーンは、ランボルギーニカウンタックという夢のスーパーカーが東京の道路を走り去るものだった。ほぼ10年後のハリウッド映画である本作では4台のランボルギーニが入荷されるシーンに登場する。もちろん、「蘇える金狼」に登場したたった一台のランボルのほうがずっとカッコいい。
それはともかく、ドライなアメリカ映画なのに、タイトルも「レインマン(雨男)」だからか、最期の兄弟の別れのシーンはとても情緒溢れるシーンだった。
前半は破産の危険のある弟チャーリーが父の葬儀で知った兄の存在、そして遺産が彼のものだという事実。なんとかカネを入手しようと誘拐もどきに兄を病院から連れ出す。そしてアメリカ大陸の移動。旅を通して兄の、通常なら知り得ようのない自閉症の兄の人柄を感じ、また兄も弟の情愛を感じ取る。
ハチャメチャな前半の道中を苦労をともにしながらたっぷり味わっていないと、最期のシーンの分かれがたさが感じ取れなものになってしまう。
レインマン・・・雨の日に襲ってくるホラ-もどきの怪物のことではない。兄レイモンドの優しい兄貴ぶりが、微かに幼児期の記憶として残されていたものの正体だった。
発達障害などまったく無縁だった当時は、ラスベガスで得意な能力を発揮する男という程度の認識しかなかった。このたび見直して、自閉症についてよく分かった、ということはあまりなかったが、少し身近に感じられたとはいえるかもしれない。1988年に見たのは、ダスティン・ホフマンのファンだったからだ。
いっしょに生活したいのはやまやまだが、どんだけエネルギーを使わねばならないか、それはよく描けていたと思う。


ツレがうつになりまして。 スタンダード・エディション [DVD]
ツレがうつになりまして。 スタンダード・エディション [DVD]
DVD ~ 宮崎あおい
価格: ¥ 3,036

5つ星のうち 4.0 ウツとかに罹病して長期休業してもクビにならない職業がうらやましいなあ 映画では自分で会社を辞めたことになっているけれど, 2014/7/19
なんだかウツになる人が多い。多すぎる。なぜならば自分の周りに多いからだ。身内はこの映画を見て泣いたと、側にいた者が教えてくれた。性格が豪放だったり明るい人がウツになると、豪放な暗さ、明るい暗さ(?)になるところを見ると、全然心配する気が起きない。どこかユーモラスにさえ見えることもある。本人は苦しそうなのだ。ウツ罹病者には、死ぬほど苦しいものらしい。特に線の細い人が罹るとやはり痛々しく見える。
むしろ周辺を驚愕させ畏怖させるのが統合失調症の妄想的言動のほうだ。こちらのほうがよほど差別を生む。
映画では「人には(ツレが)ウツ病だといえなかった」という言葉があったが、統合失調症の方がよほど秘密な病だ。
マンガをやっている奥様の「わたしは、ウツの原因よりも意味を考えたい」というセリフは意味深だ。
以前は(1970年代以前)、精神の病をこころの病とし(あるいは、こころの病を精神の病とし)、人間関係に原因を求めたり意味を求めたりしたのではなかったか。そこで心理療法や作業療法、身体動作や問答の工夫によって改善の糸口を掴もうとした。
ところが映画にあったが、脳の神経伝達物質(セロトニン)の伝達がうまくいかないことによるという。そういえばADHDも脳内神経伝達物質ドーパミンの伝達がうまくいっていないことによるという。そのように精神(こころ)の病を肉体的な不具合と捉えて薬物で改善を図ろうとするようになった。1970年代、アメリカ流の療法が次々と発表報道されると、違和感を持ち、精神までも物質主義で解決を図ろうとすることに一種、反発を思えたものだ。薬をたくさん処方するお医者さんなどはあまりいいイメージが持てなかった。
今は違う。薬さまさまだ。大病を患って入院したとき、激痛を我慢する意味などないとばかりに、モルヒネを打ってもらったり、坐薬を不足なく処方してもらった。不眠に悩まされることはなかったが、頻繁に心配してもらうものだから、試してみようとばかりに眠剤(ミンザイ)を飲んでみたこともある。そして私の思いは変わった。脳も含めて肉体的苦痛の中で哲学することはない、と。むしろ脳やこころの円滑な活動の中で、別のことを、もっと有意義なことを考えよう、と思うようになった。なにが「有意義なこと」なのかはまた問題なのだが。
ウツとADHDのお薬は同じものらしい。あと何十年か経てばそれぞれ違う薬になっていくことだろうが、さしあたって効くという薬ならぜひ服用すべきと思う。そして晴れた頭で物事を判断すべきと思う。


火の聖女―地獄の歌 (1951年)
火の聖女―地獄の歌 (1951年)
森 英介著
エディション: -

5つ星のうち 5.0 高村光太郎の序文のある、印刷所で詩人が自ら作った手作り詩集, 2014/7/17
レビュー対象商品: 火の聖女―地獄の歌 (1951年)
1951年2月発行。本書は、勤めていた印刷会社「山形荷札印刷株式会社」で(おそらく山形在住の青柳さんという親戚のツテで就職した)、おぼつかない手つきで活字を拾い、見かねた同僚の女性たちの協力もあって完成した実物。手作りとはいっても、印刷会社で制作されたもので、けっしてぎこちないようなものではなく、戦後、間もなくに作られたものとしては、他書に比べてけっして遜色のないものだ。
巻末に「200部限定版の内 巴里送本1~4 寄附及蔵本版5~80 火の会頒布81~200」とあり、「NO. 」とある。しかし数字は打たれていない。製本の途中で、筆者は亡くなってしまったので数字の判を押す者がいなかったのではないだろうか。
1980年に再刊された詩集は、この当初の詩集の構成を損ねないように注意を払われたもの。ただ、巻頭の三枚の似顔絵(?)は再刊本では1枚に削られている。


高村光太郎への手紙―鬼才・森英介の詩と生涯 (1982年) (よねざわ豆本)
高村光太郎への手紙―鬼才・森英介の詩と生涯 (1982年) (よねざわ豆本)

5つ星のうち 5.0 助けずにはおれない天才石川啄木、太宰治に並び立つ, 2014/7/17
手紙の前に、米沢の図書館や社会教育課に勤務だったという著者玄蕃二男による森英介のプロフィールが書かれていて、参考になる。
彼の詩集や跋を読んでも、ひょっとすると彼はカトリシズムのシンパ、宗教用語だと「求道者」ではあっても洗礼を受けていないのではないか、という勘ぐりがよぎってくる。
受洗時の感動や洗礼を授けてくれた洗礼者のことがまるで書かれていないからだ。
本書によって、昭和25年に米沢カトリック教会にて受洗したと書かれていて安心した。彼は紛れもなくクリスチャン詩人ということになる。もっとも、洗礼など受けていなくても、自分がクリスチャンという確信があればそれでいいのだが、世の中の人々は、クリスチャンは教会に行っているものと思い、洗礼を受けているはずと思い込んでいるから、話の通りをよくするために確認したかったのだ。

高村光太郎への手紙を読むと、といっても光太郎からの返信は掲載されていなく、一方通行の構成になっていて、かなりの想像力をたくましくしないと、ズーズーしい森英介になってしまうので注意が必要だが、彼の聖女=澤由紀(高野久子)と同様、光太郎への激しい傾倒ぶりが伺われる。
一貫して彼を受け付けなかった聖女に比べ、高村光太郎は大きく懐を開いて、森の純粋な情熱を受け入れているように思えた。
手紙の後方では、詩集の序文を依頼していて、原稿を送っている。その原稿をコピイができないということで送り返してほしいと大詩人に要望している。現代ではあり得ないくらいのことだが、それは当時の事情もあるだろうが、なによりも、森英介の人柄ということだろう。
彼は一見、孤高の詩人のように見える。世間と隔絶した、写真を見ても、やや高慢ちきな感じを受けかねないほどに見えるのだが、意外に、といっていいのか、彼は他者に依拠することに案外ズーズーしい。
年上の先輩格の松浪信三郎に、彼の自宅の離れに下宿させてほしいと、米沢の実母からお願いさせているくらいだ。卒論では、外国語が苦手なため、松浪先輩のところにテキストを持ち寄り、訳してほしいとも願い出る。しかし、松浪先輩は断ることなく、時間をかなり費やしながらも彼に講釈してあげるのだ。
このような、助けずにはおれない協力者を潤沢に獲得できた天才は、他には、私の知るところでは、金田一京助がおしげもなく金銭を供出した石川啄木、途中までだが自殺に付き合ってしまうほどの友人のいた、そして女性たちは実際に心中して命を落とした太宰治がいる。これら天才に森英介は並び立っているのだ。


光とともに…~自閉症児を抱えて~(5)
光とともに…~自閉症児を抱えて~(5)
価格: ¥ 420

5つ星のうち 5.0 人が育つにはそれなりの時間が必要・・・, 2014/7/17
今巻の主人公は郡司先生だった。郡司先生はなぜ物わかりが悪いのだろうか。資質の問題ということもあるかもしれないが、それは退職間近になっているからかとも思う。
有終の美を飾ろうと頑張る先生もいれば、職場の長老としてラクしたいと思う人もいるのではないだろうか。もはや経験で間に合わせようとし、新しい事態について勉強をする気が起きないとか。教員免許の更新も退職間近の先生は対象から外されているくらいだし(免許の更新講習は受講してきた人の話では、大変、刺激があってよかったということだが、子どもの見方を変えるということにはあまり期待できるものではないか)。
年齢にかかわらず、発達障害に対して理解し対応できる先生もいれば、できない先生もいる。しかも、初めはよくても底が浅かったり、初めは最悪に思われたが後になって、じつはなるほどと思える先生だったりもする。それは先生という職業を知っていうのではないが、人間共通していえることだからだ。
幸子さんはつぶやく。
「人が育つにはそれなりの時間が必要・・・」
幸子さんが郡司先生の自閉症児たちへの、ひいては光くんへの理解が深まることを願っての言葉だが、そういう未熟な者たちの中で、わたしたちは昔からもこれからもずっと生きていくしかないのだ。だから、この言葉は一生涯、胸に刻んでおかねばならないのだ。自分もまたその一人なのだし・・・。


光とともに…~自閉症児を抱えて~(4)
光とともに…~自閉症児を抱えて~(4)
価格: ¥ 420

5つ星のうち 5.0 悪い人間などいないのだ、という信念に触れると涙が出そうになる, 2014/7/15
優しく、理解のあるクラス担任の青木先生が人事異動でよその学校へ行ってしまった。吉沢校長もくも膜下で倒れ、そのまま帰らぬ人になってしまった。光くんや美羽ちゃんのいるあさがお学級はどうなるのだろう・・・そして「代わり」に来た先生が甲田校長と郡司先生だった。こいつら教師としての良心はないのか、というキャラで登場し、お母さんたちをエキサイトさせたりあきらめさせたり、困らせるのだ。相手からすれば、このお母さんたちは「モンスターペアレント」に見えていたかもしれない。多忙な教師たちであることを思えば青木先生は奇跡的存在だったかもしれない。
「金八先生」でも、物わかりのいい校長のときや話の分からない校長が登場したものだった。
しかし、このマンガの素晴らしいところは、相手のことを思いやるところだ。少しくらい話の合わない先生だからといって悪人と決めつけてしまうのは成熟した描き方ではない。
郡司先生の再生ぶりにはとても感動した。話が合わないからといって突っぱねるようでは、どちらが悪いのかわからなくなってしまうのだ。そして悪い人間などいないという信念がこの作品に流れていると気づくと、とても心が洗われるのだ。


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