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それから12年, 2012/2/23
「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。
だが、希望だけがない」(309、419ページ)。
本書が話題となったのは2000年頃で、当時この言葉が大分流行っていたように記憶している。
それから12年たって読んでみた。
村上龍はこの物語を決して予言的小説として書いたわけではなかろうが、
ポンちゃんや中村君のような中学生はー私の知る限りーまだ出てきていない。
「失われた10年」は「20年」と言われるようになり、日本の内需停滞は相変わらずであるが、
私は今、実際的にはあの頃とほとんど変わらない生活を営んでいる。
とはいえ、著者の危機意識が的外れだったとは思わない。むしろ、逆である。
村上氏は「あとがき」で、早急な改革に「法律」がやっかいな存在であることを吐露しているのだが、
こうした素朴で大胆な着眼点から新しい発想は生まれるわけで、作家・村上龍の考える「エクソダス」が次々と提案される。
ポンちゃんを筆頭とする「ASUNARO」中学生を使って。
そもそもは、日本の学校教育に関する疑問から着想を得たようだ。
村上氏は、物質的には何不自由ない暮らしの中で、「希望だけがない、という国で、希望だけしかなかった頃と
ほとんど変わらない教育を受けているという事実をどう考えればいいのだろうか」(310ページ)と問いかける。
改革しようにも「法律」の改正(国会での長い手続き)という分厚い壁が立ちはだかっている。
だったら、外枠を無視して内側から「エクソダス」の方法を探すしかない。
そういえば、いつか東浩紀氏が言っていた。
政治を変えるために政治家を志そうとするほど今の若者たちは青くないのだ、と。
まるで、この小説のようだ。
村上龍は、エクソダスを中学生に演じさせた。
彼らは「普通」が何かを分かっていない(良い意味で)し、順応性に優れている。
また、「大人」が新しく手にした情報や知識が、既存のものとして受け入れられる点も強みであろう。
つまり、「日本的な共同体の価値観」(43ページ)とか「何か共通なイメージ」(118ページ)に囚われることもない。
「大人」が苦心して「先」を見ようとする中で、彼らが当たり前に見ているものは常に「先にあるモノ」なのだ。
経済(特に、市場=マーケット)がグローバル化していく中で、日本が出遅れていることに著者は気付いている。
だから、「法律」を否定しないまでも、まず疑ってかかるのである(96〜98ページ)。
そこで、「創造すればいいわけでしょう?」(152ページ)というセリフを象徴的に持ち出す。
そして、ポンちゃんは行動してみせた。
戸惑っている我々の心境を主人公と後藤に代弁させ、世界の経済事情を由美子に説明させ、
その対応策を「ASUNARO」に試演させることで物語は成り立っている。
もちろん、中出や山方の役回りも重要である。
個人的に、最も核心に迫る文章は、
「金融や経済の最終的なゴールは利益を生み出すことで、
その利益が理想的な庇護を生み出すことができるのだとアメリカ人は信じている」(205ページ)、
「市場というのは、欲望をコミュニケートする場所で、(中略)それまでそこにあった共同体を壊してしま」い、
「モラルや規範を無意味なものにしてしまう」(359ページ)であった。
これから先、世界規準を先導する者たちの思考回路を理解しなければ、何事も後手に回ってしまうだろう。
この辺りを深く掘り下げて話を進めていたならば、もっと重厚な作品になっていたと思う。
一つ的中しているのは、リスクマネジメントに関する指摘(327ページ)。
「フクシマ」という難題を抱えてしまった我々にとって、大きく突き刺さる言葉である。
その意味では、出版当時より今の方がーその予言的筋書きがー現実性を帯びてきた、と言える。
主張としての新しさを失っていない(残念なことなのだけれど)。
さすが、村上龍。
総理大臣にしたい人ランキングで、毎回上位に食い込むだけある。
283ページのセリフなんて、まったく同感だ。
本書を読んで、
渡辺美樹『もう、国には頼らない』(日経BP)を読もうと思った。
こういう異端者が慎太郎を負かす日は来るのだろうか。