内容(「CDジャーナル」データベースより)
ウィリアム・オービット,パトリック・レナードとのコラボレーションによる新作。アンビエント・テクノやドラムンベースに接近しながらアッパーよりもむしろダウナー。これまでになく内省的なマドンナと出逢える。粒選りの選曲と艶っぽい歌声もさすが。★
内容 (「CDジャーナル・レビュー」より)
もちろんまどろむわけではないのだが、しばしは夢見る気分が気楽にサービスされる。もはやマドンナを大芸能人と言ったってまったくその通りの超ポピュラーな存在であるからこそ実験(とマドンナ本人が感じる事柄)を繰り返して(楽しんで)いける身なのだと世界は知っている。マドンナがバーブラ・ストライサンドのように自宅の庭で公開ライヴをやったらそりゃたいへんだろうが、踊れる曲がまったくなくなってしまってもほとんどのファンやなんとなく愛聴者の人々にとってはまるで大丈夫である。なぜならば、マドンナはかねてより人類の平和を音楽によって祈り続けてきたからであり、その祈りを受け止めた人々は決して少なくないどころか、マドンナという存在に対する好みはともかくそのこと自体を認めるには皆やぶさかではない、というところにまでマドンナは持って来たからである。そのことを何より再認識させるのだこのアルバムは。この気張りのなさは並大体ではない。死に向かっている生命とこれからさらに強くなっていくであろう生命とを自分の中に同居させ、比較するのではなく、それぞれからの教えに率直に首を垂れる。敬意を持って、自身の内に湧き起こる不安を希望とともに歌にする。サウンドにもだからこそ、コケおどしは必要ない。もちろんノッペリしようがないのは当然のことなのだが、ステージ同様、全体のスケールは大きい。サンスクリット語で祈りもする。しかしいわゆるサイキックな姿勢や興味ではない。邪気と添加物と薬とあぶく銭と偽善にまみれて手に入れる健康という名の不健康な現実をポップの舞台で嘲笑える稀有な存在だから可能なのだ。ビッグ・ビートも結構。悲愴なバラードにさえノイズを忍び込ませる。だが、いかにも先端やっちまったんじゃ、舞台が狭まっちまいまさあ。歌声そのものがふくよかで柔和になったように思えるのは、愛娘の存在を知った上で聴いているからだろうか。 (湯浅学) --- 1998年03月号
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