出版社/著者からの内容紹介
「これは、最初で最後の政治小説だ」
和久井路子
『雪』の主人公は四十二歳の詩人
『雪』の主人公は、四十二歳の詩人である。彼はこの十二年間ドイツで亡
命者としてくらしていた。母親の葬儀に参列すべく十二年ぶりにイスタンブル
の地を踏んだ折に、新聞記者をしている昔の友人の勧めで、トルコの北東の辺境
の町カルスでの取材の申し出を受けいれる。彼はその理由を、生まれ育ったイス
タンブルの変わり様から、文化的にも経済的にもトルコで最も立ち遅れているカ
ルスの町に行けば、失われてしまった子ども時代の思い出に出会えるかもしれな
いと考えたためだとしている。しかし、心の底では、その真の理由が、そこに昔
学生運動をした仲間であった美貌のイペッキが、夫で同じく仲間であった詩人の
ムフタルと正式に離婚をして住んでおり、その彼女の心をかち取り、人生の最後
の幸せをつかもうとしているからだということに自分でも気がついている。
彼はカルスで、この四年間どうしても書けなかった詩が、あたかも誰かが耳元
で囁くかのように次々にわき出してくるのを体験する。これらの詩を送ってくれ
る者が誰であるかを考える時、そして降りしきる雪がどこから来るのかを考え
る時、若い時から無神論者であったはずの彼は、心の中で神の存在を考えるよう
になる。降りしきる雪の無数の結晶が全て異なり、全く同じものはないという事
実を考える時、人間の誰しもが、過去の記憶と想像力と理性の軸からなる六角の
結晶を持っていることに気がつく。その結晶はそれぞれ異なり、全く同じものは
存在しないことも。
大雪のために道路はすべて遮断されて、カルスが外界から完全に弧立した
三日間に、イスラム主義者の政党の有力な市長候補者の当選阻止と、イスラム主
義者とクルド人民族主義者の運動の気勢をそぐために、偶々カルスにやってきた
演劇団と町の協力者によってクーデタまがいのものが計画され、いくつかの偶
然からそれが成功する。主人公は、カルスの町から無事に抜け出すために、また
将来の唯一の幸せをつかむために、意に反してクーデタに手を貸してイスラム過
激派のテロリストとの仲介役を演じざるを得なくなる。こうして、全く非政治的
で、よい詩を書くことにしか関心のなかった主人公は、政治と宗教の渦中に巻き
込まれてゆくことになる。
『雪』は「最初で最後の政治小説」
『雪』は、オルハン・パムクの七作目(英訳された五作目)の作品で、著者自
身の言葉を借りれば、「最初で最後の政治小説」と言われている。ドストエフス
キーもJ・コンラッドもひとつだけ政治小説を書いているから、と。また、トル
コの政治小説の多くは、イデオロギーが表に出て、文学からは程遠いものだった
が、このテーマだけは書かなければならないと「政治的メッセージのない政治小
説」を書いたとも言っている。冒頭にスタンダールから「文学において政治と
は、コンサートの最中に発射された拳銃のように耳障りで忌まわしいものである
が、しかし無視することもできないものである。今読者はこの醜いものに触れる
ことになるのである」と引用しているが、読者は、「この醜いが無視することが
できないもの(=政治的な題材)」を扱っているにもかかわらず、この作品が
十分に文学であり、芸術であるのを見出すことができるであろう。さらに、巧み
なプロットによって、そこには、恋も、ミステリも、芸術論も、クーデタもある
読み応えのある作品となっている。
(わくい・みちこ/中東工科大学〔アンカラ〕勤務)
内容(「MARC」データベースより)
1990年代初頭、トルコ北東部の地方都市カルス。雇われ記者の詩人Kaは、イスラム過激派によるクーデター事件に遭遇し、宗教と暴力の渦中に巻き込まれ…。世界40か国語に翻訳され、各国でベストセラーとなった超話題作。