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著者の熱い血を感じてほしい, 2005/11/1
さて、なかなかに難解な論述だ。なんて書くと、読まずに敬遠してしまう方もおられるかと思うが、そういう単純なものではない。難解な記述の背後にある現実問題に対する熱い視線に気が付けば、著者の思いに共感できる人は多いことと思う。その機会を逃さないためには是非とも一読されることをお薦めする。まず本書で提起されている問題意識。これは必ずしも具体的に詳述されているわけではなく、僕の所感としては、そこをもっと深掘りしてあれば良かったのに、とも思った。しかし若手研究者である著者にとって、それをあまり具体的に書いてしまうことは命取りになりかねない。だからそこは読者が想像力で補う必要がある。 心理学に代表される人間科学にはいろいろなものの考え方やアプローチがありうるし、実際に多様なものが提起され、存在している。しかし学会という科学の場は、時として、いやしばしば、特定の見方に蹂躙され、それ以外の見方を排斥するようなダイナミズムに左右される。 一例として著者が挙げているのが統計偏重というあり方だ。統計学的な認識を導入することで、心理学は科学としての自己認識を確立することができた。少なくとも関係者はそう思っている。客観性の確立と厳密科学への道のりとして、統計学的認識の導入は不可避なものと思えたのだ。しかし、どのアプローチであろうと表層的な理解や形式的な理解を排除することは困難だ。心理学においても、統計を利用していれば科学的であり、研究として見るに値するという単純な信念がはびこることになった。これに対し、現在、質的心理学と呼ばれているようなアプローチの重要性を感じていた人々はマイノリティとしての苦労を味わわされてきた。著者はこうした状況を信念対立と呼んでいるが、こと統計学の利用という点については信念による抑圧といってもいいほどの状況だった。いま、質的心理学会の設立などの動きを通して、質的アプローチに重きを置く人々は結束するようになった。しかし、そうなってアンチ量的というスタンスをとるようになれば、今度は信念による抑圧が単に信念対立になってしまう危険性も伴っている。 医学の分野でエビデンスベーストメディスン(EBM)とナラティブベーストメディスン(NBM)という、一見して対立するように見えるディシプリンを融合的にまとめ、斎藤清二氏はナラエビ医学と提唱しているが、そうした形での融和が必要だといえるだろう。 本書は池田清彦氏の構造主義科学論にかなり影響を受けている。池田氏の構造主義科学論を実践的に展開したものが本書で提唱されている構造構成主義というメタ理論だといってもいいだろう。 そのあたりを理解する目的で、本書のレビューを書くにあたり、池田氏の「構造主義科学論の冒険」を読んでみた。その本は科学に関する哲学的な論考であり、ギリシャ哲学からデカルトやカントやフッサール、ヴィトゲンシュタイン、ソシュールなどなど、科学哲学史になっていて、易しい語り口ではあるが、結構歯ごたえのある書物である。池田氏は、そうした文脈の中で、外部に実在するものとしてでなく、頭の中に存在する認識構造としての理論の位置づけを明確にした。ここでいわれている構造主義とはいわゆるレヴィ・ストロースなどの構造主義とは異なる。構造イコール理論、すなわち知的構築物としての構造、というようなニュアンスと受け止められた。ある意味で、真実というものが人間の感覚や認識によって得られる現象ではなく、実在として存在するという固定的かつ古典的な見方を打破しようとした試みといえるだろう。 そのあとがきにも池田氏は、本書で主張したかったことは、(1)外部世界の実在性(唯物論)の仮定を排除しても科学は成立するものであること、(2)多元主義社会を目指すべきであること、だと書いている。このあたりが西條氏が継承したところであり、そうした構造の構成の仕方について、より実践的な方略を考えたのが構造構成主義に関する本書であるといえるだろう。 西條氏の使っている重要なキーワードの一つに関心相関性というものがある。これは竹田青嗣氏の欲望相関性という概念から来ているものらしい(そこまではちょっとルーツを確認していないが)。このキーワードは、平たくいってしまうと研究者にはそれぞれの関心、それは嗜好といえるときもあろうし、信念といえるときもあるだろうが、そうした関心に基づいて、自分の研究に向かうベクトルの原点としている。そうした自分の研究態度の立脚点を自覚することなしには、無益な信念対立を排除することはできない。そういうロジックだと僕には読めた。いいかえれば、自分の関心に適合した形で物事を解釈し、評価・判断しようとすること、それが関心相関性という概念なのだと思う。ネガティブにいえば、それはバイアスという言い方もできるだろう。 そうした形で自分の中にあるバイアスを自覚し、池田氏のいう多元主義を導入すれば、複数のディシプリンが共存でき、さらには融合できるのではないか、そのようにして構成される構造(理論)こそが本来科学として目指すべきモノではないのか。ここが構造構成主義のポイントであるように思えた。 僕は西條氏の主張をこのように解釈した。哲学的な論述に最近頭が向かっていなかったので読み違いがあるかもしれないが。 さて、それでは構造構成主義をメタ理論として用いるようになるとどのような科学の世界が現出するようになるだろうか。ここで実践家を自認している僕の頭に浮かんだことは、要するにいいとこ取りじゃないか、という何とも品のない言い方だ。西條さん、すみません。僕ら、工学系の世界でしょっちゅうやっていることと同じなんじゃないか、ということだ。いや、科学としては異なるディシプリンの融合に際して理論的な構築をきちんとしなければいけないのかもしれない。しかし工学では目標としたものが出来れば、そして意図した通りに動けばそれでいい。そこには教育工学などの人間に近い工学を多少の例外とすると、何々主義というものはあまり顔を出してこない。工学の世界では、目標を達成するために貪欲に複数の理論や方法を組み合わせる。ある意味では節操がない。しかし、究極の目標は、自分の設定したゴールを達成すること。動かすことだ。その世界は自ずと多元的なものになっている。 しかし工学と科学は違う。池田氏が書いているように、現在の世界では、科学が工学に利用される形でそれに隷属してその価値を評価されるようになってしまっている面がある。そうした中で、工学とは独自のスタンスで多元的な科学を確立しようという取り組みには、必ずしも工学における多元的な状況は参考にならないかもしれない。ナラエビ医学も現場で利用するスタンスであるから、工学的スタンスの一種といっていいだろう。とすると、多元的科学の姿というのはどのようなものになり、そこにどのような意義があるのだろう。 それは単に「皆さん、お互いの立場を尊重しあって、それぞれの価値規範だけでなく、それに対立するように見える価値規範をも大切にしていきましょう」ということになるのだろうか。多元性という言葉から連想される状況は、しかしながら、それに近い。複数のディシプリンの存立を認めながらも、それらが並立しているイメージがあるからだ。しかし、それだと心理学における統計学的な見方がマスを占めている現状を改善するには今一つだ。査読委員にそうしたスタンスの人が多ければ、この論文は違ったスタンスだ、だから私は×を付けるけど、そのスタンスの人がもし査読者としていたなら○をつけるかもしれないな、というバラバラの世界になってしまう危険性が消えない。 その意味で、構造構成主義が広く人間科学全体を包含し、それを望ましい形で推進していけるようになるためには、もう一段つっこんで、実践的な取り組み方に関する具体的な提案が欲しいところだ。関心の異なる複数の信念が一緒になって新たな価値創造に向かうには、もう一つ実践的方法論が必要だろう。そのあたり、著者の次の著書に期待したいと考えている。 人間科学といっても心理学、社会学、人類学、さらには経営学や政治学や法学までも含めうるかもしれない。それらの諸学の中にはそれこそ無数に近いディシプリンが存在し、時に相手を無視し、時に相手を攻撃し、という信念対立の図式になっている。それを単なる多元的共存から統合的・融和的共存に向かわせるための方法論。これを考えていくのが次の課題であるだろう。 本書は僕には以上のように読み取れた。人によっては違った読み方があるだろうが、それはそれでいいだろう。主義というものにはあまり縁のない僕だけど、西條氏の熱意は十分に伝わってきた。学問のあり方を真剣に考えようとする態度、西條氏が、そして本書を読んだ人々がその態度を持ち続けていけば、必ずや学の世界は変わっていくだろう。そう期待したい。
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