フェリーニへのオマージュではない。それは前提であり、「教養」なのだから。
わざわざ口にのぼせることではない。だからこそ『NINE』である。
製作途上での、盟友、アンソニー・ミンゲラの早すぎる死。
様々なトラブルと二点三点するキャスティング。
そしてお世辞にも成功と言い難い興行収益。まるでこの映画のための諸状況。
フェリーニの創作の苦しみは、何をか言わん、かのロブ・マーシャル自身の苦しみに他ならない。
我々、日本人にこの映画が理解出来るか?このスタイルを創造することが出来るか?
いや理解する必要も創造する必要もない。
なぜなら日本人には日本人なりの映画の伝統があり、スタイルがある。
この作品の真価は興行成績ではなく、歴史が評価を下す。
グイド・コンティニ(監督)演ずる、ダニエル・デイ=ルイスの怪演。
マリオン・コティヤール(グイドの正妻)の美。
ペネロペ・クルス(グイドの愛人)の妖艶。
ジュディ・デンチ(衣装デザイナー兼グイドの私的管理人?)の匠の技。
ケイト・ハドソン(ファッション記者)の圧倒的迫力。
(彼女が歌う「Cinema Italiano」はこれ単体でも十分に華を添える)
ニコール・キッドマン(グイドにとっての真の映画女優)のゴージャスな立ち振る舞い
ソフィア・ローレン(グイドの母親)の衰えを知らない美貌、そうソフィアこそ「イタリア」の美そのもの。
ステイシー・ファーガソン(砂浜の娼婦)という野心的なキャスティング。
もうこれだけのキャスティングだけで典雅な芸術である。
実のところ、ロブ・マーシャル的には「不出来」な映画だろう(確信犯の可能性は捨てがたいが)。
だからこそ、「監督」の不安定な精神とプレッシャー、そして「再生」を観るものに沈溺させる。
しかし単なる心情吐露ではない、スタイリッシュかつゴージャスなプロフェッショナルの競演である。