松本隆の作詞活動の歴史のなかで、初期の「はっぴいえんど」時代、それに次ぐ、アグネス・チャンや太田裕美などアイドル・ポップスの時代と、80年代の松田聖子、大瀧詠一、寺尾聡などの傑作を生み出した時代とをつなぐ、「ミッシング・リンク」ともいうべき作品が、この神田広美への作詞提供です。
神田広美のある曲に、「私小説のように」というフレーズが出てきますが、『ピッツァハウス22時』などの名作を含む太田裕美の名作『エレガンス』の延長線上に位置するのが、このアルバムの詞の世界だといえるでしょう。それは、ある意味では消費社会化する時代における最後の「私小説」的抒情だったのです。
しかし、社会の変化は、そうした抒情の存在を押し流してしまいます。結果として松本隆が描くようになったのが、『ルビーの指輪』や『君は天然色』に代表される、80年代の無国籍的なかっこよさでした。神田広美のアルバムは、松本隆の70年代における試行錯誤のひとつの、完成形であり、袋小路であったように思われます。
あらためてこのアルバムを聴くと、いつかどこかで忘れてしまった何かを思い起こさせられます。それが、今の時代に欠けている何かであるとか、そういった現状批判をしてもしかたありませんし、すべきでもありません。わたしたちはすでに、その後の歳月に起こったことに対して有責であるのですから。今はただ、約30年ぶりに再会して、可能性のまま失われてしまった多くのものごとに、胸がしめつけられるだけです。