キートンの舞台の過半は欧州であり、欧州の歴史や文化を私達日本人が全て知っているわけではない。
完全版は、連載当時から20年を過ぎているため、当時は時事ネタに成り得たアパルトヘイトや東西ドイツの融和が、今となっては何の話か分からない人もいるかもしれない。しかし、それは、本書の欠陥ではなく、知らないことを知ろうとしない愚者の問題だ。
そして、本巻では、私達日本人の多くが十分には知らない、しかし、人間が歴史を歩む上で看過できない出来事をテーマに据えた連続モノが二つ収録されている。一つは、ナチスとジプシー(ロマ)を題材にした「来た男」三部作。もう一つは、IRAと英軍のベルファスト抗争を題材にした「偽りの三色旗」「偽りのユニオンジャック」である。
どちらの話も、マンガの中では、哀しくも救いあるラストを用意しているが、その哀しさをこれまでいくつも生み出してきた人間同士の争いや憎しみ自体がなくなったわけではない。確かに、過去のことかもしれないが、少しでも知ることで、同じではないがよく似た過ちを犯さないように生きて行きたい。
もちろん、これらの作品は、きわどい題材だから面白いのでもなく、テーマが深いから良いだけでもない。前者では、複雑な展開だけにとどまらず、キートンに敵対することになる謎の暗殺者を登場させたり、後者では、敢えてキートンを脇に回して、また、IRAやSASではなく、新聞記者を中心に据えたことで、偏りのない、故に一層に闇の深さが見える仕上がりになっている。
そして、そうした闇の深さの分だけ、作者は人の心が持つ灯りをいくつも用意してくれている。「偽りのユニオンジャック」は、今後も本作が描く戦争や軍隊の闇の深さを提示してから、しみじみと人の優しさや許す心を示すことで、本当は何も終わっていないけれど、終わらそうとする努力の尊さが感じられる。
それにしても、これだけの重さをもつ作品が本巻の約半分を占める中で、最後の話が「アザミの紋章」というのは絶妙のバランスだろう。
これだけ軽妙で、本当に肩の力を抜いてくれる作品はそうはないのだから。