M2シリーズは初めてというわけではないが、手元でじっくり読んでレビューを書くのは初。リベラリストである宮台氏とコミュニタリアンである宮崎氏が仲良く論じる時評集といった内容だが二人の他著にない特徴、魅力としてはまず二人の語り口が違う。非常に軽快に砕けており、ですますで延々講義する宮台氏の他著に食傷気味だった身としては、そこまででもないが多少新鮮で助かった。加えてそれに関連して、他著では隠されているような本音がずけずけと語れているように見えるのも特徴かと思う。例えば二人とも親交があり宮台氏は共著もいくつかある香山氏に対しての、本書での二人の物言いは非常にきついものである。引用しよう。曰く、
宮崎「斉藤、香山の両氏は個人的に知人なんで批判しづらいんだけど、ちょっとどうしようもない」「香山氏の〜一連の著作は社会科学や政治哲学の蓄積を無視し、情緒的感想を精神分析のタームでまことしやかに粉飾したものにしか見えない」「戦後の政治状況の中で規範化した命題が、何の検証も内在的批判も経ず、まさに心情的な規範として持ち出されている」(25)…宮台氏はこれに同感と答え、次のように言う。「香山リカは心情左翼のダッチワイフをヤメロよな。ウロチョロされると目障りだよ」(27頁)「香山リカはダッチワイフ。斉藤貴男はダッチハズバンド。死ぬまでやってろ」(32)
実は私も香山氏はあまり気に入ってはおらず、その著作をコク評する事も少なくなかった。宮崎氏の批判もとても的を射ていると思う。宮台氏は共著などで香山氏と絡んでいる時はどちらかというと非常に香山氏に賛同的に見え、香山氏が出す事例を自分でも持ち出して共有したりしており、何故この二人がこんなに仲が良いのか、肩を持つのかと理解に苦しんでいた。他所では真逆の見解を述べてるようにすら見え、対立こそすれこんなに同調的になる事はないだろうと。そんな身としては喜ぶ所のはずなのだが、なんというか、ここまできつく批判されていると逆に香山氏を弁護したくなってくる(笑)。当然にこちらが宮台氏の本音で、対談などの際は礼儀の意味も込めて自分の本音を隠していると判断すべきなのか、それともこれはこれで宮崎氏に対してるからこその態度と物言いであり、実はどちらが本音とかではなく単なる二枚舌なのか、私には判断しかね、少し戸惑った。やっぱり本音はこうなのかぁ…と面白い一方で複雑、若干怖いなぁなどと思ったりもした。ここまで言うと、本人がいない時のカゲ口に等しいと思うがよくそれをこんな公的な出版物として公開する気になれるなと妙な感心もした。これで二人と香山氏の親交が潰れたりといった事にはならないのだろうか。
といつにも増して横柄さが目立つシリーズという気もするが、別に全面的にこれが悪いというのではなく既にちらりと言ったようにこの本音っぷりや容赦ない名指しの批判っぷりが本書の強い魅力でもあり面白い所でもある。加えて宮台氏が普段べらべら一人で言っている事に宮崎氏が応答(大抵は賛同だが)するという点も宮台氏単独の著作などでは得られない特徴である。今更こんな指摘をするのも何の意味もない事で、まさに今更という感じなのだが、コミュニタリアンである宮崎氏とここまで仲良く出来る宮台氏はやはり純リベラルと言うよりもかなりコミュニタリアンに近い、リベラルコミュニタリアンか、コミュニタリアンリベラルみたいなものなのだなぁと改めて認識。リベラルは基本的に如何なる善も押し付けない所に特徴がありコミュニタリアンは何らかの善を押し付ける事の有効性を唱える所に特徴があると理解しているが本書でも宮台氏は至る所でそういうコミュニタリアン的主張を堂々と連発している。142頁の宮台氏の物言いに宮崎氏は「こういう言い方には宮台真司のコミュニタリアン的資質を感じるな(笑)」とツッコミを入れているが、冗談抜きでまさしくそうである。この付近の頁は踏み込んでリベラリズムの理論や自己決定について論じられており個人的には大変興味深かったが、149頁で「成人したら自己決定で伝統を選ぶように成育環境を弄るのは何の問題もない。だから自己決定的に伝統を選ぶようアーキテクチュラルに環境を操縦せよ」とまで宮台氏が豪語するのには、そこまで言うかとたじろいだ。
あと巻末の小林氏を招いての鼎談は他の方も指摘しているように小林氏がやたら大人しいのであまり鼎談である意味がない。あの小林氏を交えて鼎談!?などと期待せず、単に沖縄問題について二人が論じているとだけ思っていた方が無難である。