2008年の話題の本を、2011年の今年になって、読みました。
実に面白い、楽しい、心のなごむ本です。
ばかばかしい、くだらない、出版の無駄の極みだ、と批判され方が多いようですが、
ばかばかしく見えたときこそ、そのばかばかしさの中にあるばかばかしくないものに、
こころ惹かれることがあります。
この本の良いところは、KY語の定義、その発揮する表現効果や氾濫する背景、問題点など、
KY語の機能や背景や言語感覚の実像をしっかりと分析されている点にあります。
しかも、豊富な用例を使って、KY語の練習ができるところが、実に心憎いです。
分析不足という批判がありますが、これ以上の分析は無理でしょう。
増殖していくKY語を、全部追いかけるのは不可能ですし、その必要もありません。
KY語の練習して何か意味でもあるのかと不思議に思われる方もあるかもしれません。
実は、何の意味もありません。
ばかばかしいと言われているものを味わうときは、感覚として楽しむのであって、
そこに意味を求めてしまうと、感覚が鈍ります。
著者は、KY語の功罪について、罪の部分として、いくつかの危惧を述べています。
まず、表現の細やかなところをないがしろにするKY語、これに無自覚に慣れてしまうと、
まともな日本語が使えなくなるおそれがあると批判されています。
しかし、KY語を使う人は、通じるから使っているのであって、
通じないと分かれば、使わなくなると思います。
それでも、使い続けるならば、それは自己満足とかの別の理由であり、
KY語が直接の原因で日本語が使えなくなることはないと、私は考えます。
次に、本来仲間うちだけのKY語が、インターネットに載せられ、広がることは危険だと批判されます。
しかし、インターネットに載っても、誰も使いたいと思わなければ、広がることはありません。
それが広がったということは、使いたい魅力があったということです。
広がることが、一概に危険とはいえないと思います。
最後に、KY語は意味がぼかされている分、言葉の暴力に対して鈍感になりやすいと批判されています。
つまり、遠回しな言い方は、ある場合には、思いやり、気遣いの表現になるが、
言いやすいだけに、無遠慮に軽く言ってのけると、言葉による暴力になると批判されています。
しかし、言葉を暴力として使う人は、どんな言葉でも使います。
たまたま、KY語を利用して暴力を行使していることがあったとしても、
暴力が目的ですから、利用できる言葉は、とことん利用するでしょう。
KY語だけが、ことさら言葉の暴力になりやすいわけではないと思います。
著者の北原さんが、まだ若かった昭和36年当時、
年配の女性同僚に、ややからかわれるような感じで、
「北原さん、あなたはММKでしょう」と言われたことがあるそうで、
KY語は、決して新しいものではないと述べています。
ちなみに、ММKは「持てて持てて困る」のKY語だったということです。