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4 人中、4人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 4.0
Invisible,
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レビュー対象商品: Invisible (Perfect)
Paul Auster の最新作。Adam Walker は1967年、ニューヨークの大学生で文学を愛し、詩人をめざす、自己のありかたにも厳しい純粋な青年。あるパーティでフランスから出向してきている教授 Rudolf Born と知り合い、光と影をもつ彼の世界にまきこまれていく。実はその第1章は、2007年、老いて病に瀕したAdam が学生時代の友人に自己の回想録の原稿を送りつけたもの、という設定だ。 彼が出会ったさまざまな人たちとの交錯あるいは確執が、アメリカとフランスを舞台に描かれる。そしてなぜか最後はカリブ海に浮かぶ島で・・・。いかにも Auster らしい構成であり、文章も流れるように美しく、どんどん読み進んでいける。 それぞれの時代の社会背景(ヴェトナム戦争、冷戦時代など)も、登場人物たちとの関係において興味深い。 しかし読み終わったあとに、一人ひとりの人物に対して、あるいは彼らの人生に対して、解決しきれない余韻が残って、Invisible というタイトルは本当のところどういう意味なのだろうかと考えてしまった。
1 人中、1人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 3.0
酷く悲しくなる小説,
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レビュー対象商品: Invisible (Perfect)
オースターの近著。気がつくと新刊が出ていて、着実に仕事しているんだなぁと安心できます。 小説はいくつかの場面にわかれていて、とても興味深い。 正直、4つの短編を一緒にしたかのような読後感を覚えました。 標題についてはよくわからなかったのですが、私たちが現実だと思っていることは確かな現実ではないし、実際にはこの目ではっきりと見えるものでもないのだということの暗喩なのかという印象を受けました。 何にしろ、酷く悲しくなる小説です。 でも、現実というのはそんなものなのかも。
5つ星のうち 5.0
矛盾をも内包させた謎めいた魅惑的な小説,
By 中野拓 (神戸市) - レビューをすべて見る
レビュー対象商品: Invisible (ペーパーバック)
タイトルの“Invisible”とは、英語で「見えない、不可視の」という意味である。見えないというのは、舞台になっている、1967年のアメリカという表面的な意味にとどまらない。この「小説」は、抜群に面白いのだが、おそらく戦略的に必然的な矛盾を内在させられていて、読者を困惑に陥れる。一体誰がこの「物語」(あるいは「自叙伝」)を書いたのか。誰が「真実」を語っているのか。どこまでが「真実」か。誰かが事実を語るとは(あるいは語ることができないとは)、一体何を意味するのか。現実と虚構の境界は、この本の内部にあるのか。 本書は、4つの章からなる。 第1章は、この物語の主役であるアダム・ウォーカーが一人称で(つまり、”I”という代名詞で)物語を自分の体験として語る。そこでは、アダムが一生背負うことになる罪の意識(殺人事件の傍らにいたことからくる負い目)について語られる。 第2章で、アダムの執筆の行き詰まりを知った友人(後に”I”と指示される、アダムの友人のジム)の助言を半ば取り入れることで、アダムは物語の人称を変える。つまり、主人公のアダム・ウォーカーを二人称で(つまり”you”という代名詞で)指示することによって、書き手のアダムが、対象(同じくアダム自身)から距離をおき、不可視であった対象に目を凝らす。そこでは、アダムの犯した禁忌(姉との交わり)について語られる。(直截的には、アダムは、この近親相姦をこそ1人称で書くことができなかった。) 第3章は、アダムが死の間際に急いで電文調で書いたものをアダムの友人ジムが物語に形式を整えたという設定で、「私」とはジムである。物語はすべて三人称現在形で語られる。つまり、アダムはAdamであり、heである。この章のクライマックスで、アダムが、第1章での殺人について他者に語ろうとするまさにそのとき、(病床で原稿に取り組む)アダムはそれを書けない。肝心の語りは(語られたことになってはいるが)物語の中では語られず、アダムは(事情、あるいは謀略により)突然留学中のパリを追い出される。ここまでが、アダムが執筆を予定していた『1967』という自叙伝の「春」「夏」「秋」という3つすべての章にあたる箇所である。 第4章は、アダムの死後、ジムを含めた生者の語りである。「私」とはジムで、アダムの姉は近親相姦を否定、書き直しを要求する。(アダムや、アダムの通っていたコロンビア大学など、あらゆる固有名詞は別のものに置き換えられることになる。)2007年に「私」は、書き直しを終え、アダムの語った物語に登場する、パリに住むセシルに会う。セシルとは、アダムがパリで知り合い、アダムに惚れていた女性である。第4章は、「私」に手渡され、公開を許可されたセシルの日記で終わる。 この物語には、さまざまな登場人物の互いに矛盾する言い分があるが、本文のトーンから、「事実はこうに違いない」という素朴な読み方(あるいは必然的思いつき)が1つだけある。それは、主人公のアダムと、書き手である1人称のジムを信じる読み方である。ただし、アダムの姉のグウィンを信じて、近親相姦は創作であるとする。しかし、事態はそれほど単純ではない。アダムの友人ジムは、アダムの書いた物語の固有名詞を書き直したはずだ。アダムは自分の草稿を一部だけジムに送り、死後コンピュータのデータを消去するよう遺言したことになっている。書き手のジムを信じるなら、登場する固有名詞を否定しなければならず(アダムはアダムでなく、コロンビア大学はコロンビア大学ではない。)、これは根源的な矛盾だ。つまり、この物語は、誰によっても語られることが不可能なはずの物語なのだ。 物語の最後、第4章の最終部分で、本書第1章で殺人を犯した人物が(その殺人をアダムは、物語の中では1人称でしか語ることができなかった。第3章では、この語りの場面を、アダムは結局描けなかった)、老後に自叙伝を書こうとしていたこと、彼がその草稿の段階で、セシルの父の死に関わる事柄に触れたことでセシルを激昂させたことは(「真実」に触れたのかもしれない)、この人物の語ることがすべて信用に値しないと切り捨ててはいけないと読者に警告する。さらに彼は、偶然アダムの尊敬した詩人と同じ名前(Born)なのだ。 小説の終結部、つまりセシルの日記は、数十人が石を砕き割る音で終わる。その音は、”the music of the stones was ornate and impossible”(あまたの石を割る音楽は、飾り立てられ、私を超越したものだった)”a fractious, stately harmony”(怒りに燃え、かつ荘厳な調和)と表現される。それは、日記に示唆される意味だけでなく、この物語全体の象徴でもあるのだ。
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