若手のバロック音楽指揮者アラルコンのおかげで、ミケル・アンジェロ・ファルヴェッティという、17世紀シチリアの作曲家、日本でも世界でもまったく無名だった人だが、彼の音楽が実音の世界でも復活を遂げた。彼は、1682年から1695 年に亡くなるまで、シチリア島東部突端の小都市メッシーナにある大聖堂の(ドイツ風にいうと)カペル・マイスターだった音楽家だ。メッシーナは今でこそイタリア人にとってもすでに役割を終えてしまった田舎町にすぎないが、古代から重要な港湾都市であり、カトリックの拠点ドゥオーモが存在しても不思議はなかった。だから、メッシーナ大聖堂のカペル・マイスターとなったファルヴェッティも、彼の時代においては盛名を馳せた人であろうと想像してもよい。しかし、彼のことは直ちに忘れ去られてしまった。
メッシーナの音楽家であり研究者だったファブリツィオ・ロンゴの執念が、ファルヴェッティ作『ノアの洪水』の自筆譜を蘇らせたのだった。彼の成果は、メッシーナ祖国史協会により2001年に、原典版スコアの形で出版された。この出版譜も10年間メッシーナの片隅に埋れていた。
評者がファルヴェッティの名前と『ノアの洪水』という作品を知ったのは、数年前にたまたま一年間かの地に住むことになり、彼が勤めていた大聖堂の近くにあるチョファロ書店で件のスコアをみつけた時である。早速ネットでFalvettiの情報を得ようとしたが、その頃はどんな言語によっても何も得られなかった。周りにいる地元メッシネーゼたちも知らなかった。
それが、、遂に、アラルコンたちによって取り上げられ、CDまでリリースされたのだ。出版譜もメッシーナの対岸の町レッジョ・カラーブリアの音楽院が2002年に出した新版が加わった。それがアラルコンの採用したニコロ・マッカヴィーノ校訂の楽譜だ。
評者はマッカヴィーノ版はまだ購入しておらず、ロンゴ版を前にしてCDを聞き始めた。聞き終わった時の印象では、ロンゴの原典スコアに1.5倍ほどマッカヴィーノかアラルコンの創意を付け加えているように聞こえる。
バロック演奏において数字付き低音のリアリゼーションは当たり前である。楽器も多彩に参加する。例えば、モンテヴェルディの『聖母マリアの晩課』の楽譜、ユニヴァーサル版(ユルゲン・ユルゲンス校訂)とオイレンブルク版(ローチュ校訂)とを比較しながら、ユルゲンス本人やマルティン=シュナイトのCDを聞き比べるだけでも、納得されるだろう。そんなこと、バロック音楽愛好家には常識だ。
その常識からすると、アラルコンの演奏は全くの「非」常識なものと言うわけではない。そして何よりも、ファルヴェッティ自身の極めて簡素なスコアを、オーケストレーションの拡大や歌手たちによる即興的技巧の披露などによって、いかに聴衆受けするか工夫され、いわば常識的に実演されているのだ。
とは言うものの、評者はアラルコン(マッカヴィーノ?)の解釈には違和感を抱いた。
アラルコンは先ずスペインの音楽祭で蘇演をやった。その時ある音楽評論家が地元紙の音楽コーナーでレビューを書いているのだが、そこで批判されていたのは「ボンゴ?」などパーカッションの活躍だった。シチリアは直接イスラム支配も受けた、ファルヴェッティの時代はイスラム的スペインへの抵抗に失敗した直後でもある。だから、現代の蘇演による ファルヴェッティ解釈においても、スペインを経由したアラブ音楽からの影響をふんだんに取り入れても差し支えない、という次第だ。それにしても過剰じゃないかと批判されたのである。
評者もこの批判を肯定するものだ。例えばトラック10(Dolce sposo Noe) の出だしが典型である。ファルヴェッティのオリジナルにはないパーカッションのソリから始まるのだが、それが打ち出すリズムも果たして17世紀メッシーナの大聖堂で聞き得たものやら?怪しいままに9小節進む。25小節からやっと、「オリジナル」に近い、「常識的」なリアリゼーションを伴った演奏となる。誰やらのブログでは、これはフージョン音楽だからこれでいいのだ、とあった。なんのこっちゃ?
原典楽譜が跋扈するようになって久しいが、バロック音楽演奏も原典主義に影響されて、当時のピッチやいかん?などといった議論もなされている。楽器もオリジナル・コピーによる古楽演奏が当たり前となった。音楽を聞くにしても、我々全員が原典主義者であることを強いられている時代に生きていると思って過言ではない有様だ。
しかし、この原典主義も21世紀に入って、少々あきられて来たように思われる。その証拠に音楽学の世界では原典楽譜の校訂出版は一段落し、自筆譜や初版譜の「ファクシミリ」時代に移行しようとしている。
それに対して演奏の世界では、原典主義的演奏から揺りもどし的に、バロック音楽再発見直後の時代と似たような「解釈の拡大」が起こっているようだ。現代人が現代の音楽ツールに見合って楽しく聞けるようにとの配慮だ。そして、その配慮は一般的に「音の増量」によっている。リヒャルト・シュトラウス編曲にように、モーツァルトの『イドメネオ』のワーグナー化のような愚行には到らないまでも、だ。
ロンゴ校訂の原典楽譜を知らない者には、このアラルコン版は違和感なく楽しめるだろう。今のところ唯一の実音が聞けるCDだし、演奏のレベルも高いのだから、ファルヴェッティをお勧めしたい身からすれば大歓迎の一枚である。しかし、これがファルヴェッティ「そのもの」ではないことに注意を喚起したい。再びアラルコンでもよいが、淡々とロンゴ版で演奏したCDもリリースしてくれると、評者はなお一層満足するであろう。