グールドはゴルトベルク変奏曲で現れ、ゴルトベルク変奏曲で逝った人である。そのグールドのどちらのゴルトベルク変奏曲が優れているかなどを考えることははっきり言って得難いすばらしい感動を半分でやめてしまうに等しい愚行だ。両方を一生涯所有し、その素晴らしい演奏の及ぼす効用と癒しを感受するのが正しい選択だ、とぼくは思う。
最初のゴルトベルク(1955年6月)。
長い長い沈黙と暗闇の向こうに鳴っているこの音楽は、ハンニバル・レクターが大きな鉄格子の隔離から脱出するシーンでも流れている。あれは、間違いなくグレン・グールドの手によるものだ。時々、グールドの唸り声が混ざる演奏を聴けば聴くほど、この曲はまさに彼のためにあったのだと思えてくる。 彼の声というのは何となく悩める者たち、抑えきれぬ憤怒に己を抑えられぬ者たちの声のように聞こえてくる。怒りも悲しみも全てそこに混ざり、癒される為に広げられたような錯覚をぼくは覚える。
最期のゴルトベルク(1981年4月・5月)。
弾けんばかりの演奏は最初のゴルトベルクをかき消さんばかりの演奏である。既に持っている最初のグールドのゴルトベルクという概念は、この新しく深化した解釈と融合し、心をより強くなるように誘導してくれる。最初の演奏よりずっと長いこの演奏は音もはるかにクリアで深い傷を少しずつ癒していく感じだ。クリアな傷にクリアな音。二つのゴルトベルクは混ざり合い心の中の一番奥にしまわれる。
いずれも劣らない。ぼくには不可欠の演奏だ。 どちらも一生のうちに何千回と聴くだろう。この2つのゴルトベルク変奏曲を一生聴くことがない人生は、生涯所有し聴き続けられる人生より不幸だ、と断言しよう。