これまで私は、本書で強く批判されている新自由主義的な経済政策には少なからぬシンパシーを感じていた。日本の公務員の相次ぐ不祥事を出すまでもなく、政府を動かしているのも欲を持った個々の人間に過ぎないためである。政府の役割を過度に大きくするならば、それだけ腐敗と非効率の危険を大きくすることになる。
たとえ政府が適切に経済を管理すれば最適化できるとしても、政府を動かすのは神ならぬ人間であり、そこまで見通す力はない。自由放任により神の見えざる手が働くとは考えないが、政府の誤った政策による弊害の方がはるかに大きいため、政府の介入は可能な限り減らすべきというのが管見であった。
一方で新自由主義者とされる人々が外交・安全保障面ではタカ派の傾向を有することには違和感を覚えていた。小さな政府と軍事費増大は矛盾する。また、人間の不完全性を前提として国家権力の介入による弊害を避ける立場ならば、国家が起こしうる最大の惨禍である戦争に対して否定的になるのが自然と考える。
しかし実際は新自由主義者とされる政治家(サッチャー、レーガン、中曽根康弘ら)は揃ってタカ派である。これは私にとって一つの疑問であった。この疑問に本書は一つの回答を提供する。
1980年代に台頭した上記の新自由主義の政治家は正にサミット体制の申し子であった。そしてサミット体制が進める政策は多国籍企業の利益を守るものにほかならない。その主張する自由とは多国籍企業の経済活動の自由であって、利権の維持・拡大に必要ならば武力行使を躊躇しない。
その例として、本書ではアメリカによるイラク戦争を挙げ、戦争の目的を先進国の経済プロジェクトに従属的な政権を打ち立てることにあったとする。多国籍企業の経済活動を保護し、第三世界に対する経済支配を強化する点でサミット体制は、多くの人々にとって自由の対極に位置するものである。
サミットが開催される度に激しい抗議活動の対象となるのも、このためである。洞爺湖サミットの物々しい警備活動が報道されているとおり、警察権力に守られなければ開催できないのがサミットの実情である。サミットに抗議した人々の境遇と思いに共感するための想像力を働かせることがサミット体制を克服するための第一歩になる。
本書では2005年に中国各地で吹き荒れた反日デモもグローバル化への抗議活動と位置付ける。著者はグローバル化に揺れる中国の実態を以下のように描く。
「工場で働く人びとの大多数は低賃金であり、中国全土が日本の下請工場となりはじめている」「日本企業に出荷するために生産競争にさらされ、没落する農家さえあらわれているし、化学肥料の使いすぎで土壌汚染が進んでいることも否めない」(71頁以下)。
グローバル化による貧富差の拡大や農村破壊への中国民衆の怒りが、中国に大々的に進出しており、民衆にとって分かりやすい日本へ向かったとする。
本書で言及されているとおり、日本のプレカリアート(非正規労働者ら)が政府や企業への怒りを噴出させ始めていることは注目に値する。一方でネット右翼のように排外的な方向に転嫁して自尊心を満足させる傾向も見られる。例えば反日の声に嫌中で応じるのではなく、反グローバリズムとして連帯できるか、日本人の想像力が試されている。