特にこの作品に関しては、不完全な解釈をしても仕方がないので、場面の紹介でレヴューに替えたい。
役所広司演じる刑事が、疲れ切った様子で夜遅く帰宅する。いつものように空の洗濯機の回る音がする。男は帰宅直後の儀式として洗濯機を止め、洗濯機は軋んだ音を立てて止まる。ダイニングテーブルの上にはたった一皿しかない。皿にはレンジ用プラスチック製の蓋が被さっている。男が蓋を取ると、そこに生肉が姿を現す。しばらく生肉を眺めていた男は、突然それを取り上げ、思い切り壁に叩きつける。
ラストシーンの直前。刑事はいつものファミレスで、爽快そのものの顔でコーヒーを飲んでいる。萩原聖人が演じる「伝道師」によって無意識の欲望を表出=行動化した彼は、今や完全に癒されている。今や彼は、彼がそこにいるだけで、「伝道師」のように「あんた誰?」と語りかけることすら必要とせず、周囲の者を癒してしまう力を持っている。店内では、一人のウェイトレスが、先輩とおぼしきもう一人のウェイトレスに、多分いつものように叱責されている。辛そうにうつむく彼女。
これに続くラストシーンは(画面を注視する必要がある)、鮮烈な力で観る者を貫く。それと同時に突然終わるこの映像の流れが、果たして「映画」だったのか、それとも何か決して忘れがたい出来事そのものなのか、未だに答はない。私がこの作品と比較できるのは、現在は鑑賞・入手困難かもしれないが、ファスビンダーの『ケレル』(ジュネの作品の映画化)だけである。