アシュケナージが西欧的なスタイルをまとって録音した刷新のベートーヴェン全集。旧弊な大仰さを排した主知的名演。
ピアニスティックなタッチで清廉なアプローチは、ベートーヴェンのピアノソナタ演奏史に新たに価値あるページを加えた。録音から20年以上経過したが、音質も良好でまったく問題ない。
ロシアピア二ズムの最良な資質を持ち合わせ、かつ現代的な感性により透徹された、一人の洗練されたピアニストによって仕上げられた「本物の音楽」だ。
簡潔なソナタ形式の第1番、幻想性を含んだ第2番と肉付きのいいピアノの音色が魅力的に響く。
第5番の澄んだニュアンスはさすがで終楽章はモーツァルト的悲しみを纏う。
3大ソナタ(「悲愴」「月光」「熱情」)では定盤に相応しいオーソドックスな魅力を湛える。ピアニスティックな月光。運動美の極致を示す「熱情」。
第9番は小気味のいいリズム感が見事だし、第10番は右手と左手が奏でる声部のやりとりが実に巧み。
「テンペスト」の透明感は見事。第18番の機敏な弾力は爽快だし、第19番や第20番の小粋な表現もビタリだ。「告別」ではバランスのとれた表現で曲の構成をスマートに消化している。
ベートーヴェンが改良された(現代の姿に近い)ピアノのために描いた賢覧豪華な絵巻「ハンマークラヴィーア」は、作曲当初は演奏したピアニスト達には悪評だった。答えてベートーヴェンいわく「私はピアノのために書いたのであって此れをピアニスト達のために書いた覚えはない」。アシュケナージの表現は、この曲ではまさにそこをついて、きわめて意欲的である。最後まで豪快に描ききっている。
31番中間部のウィットに富んだ情緒も素晴らしい。
中庸の美をつくした現代ベートーヴェンであり、無名で地味な曲についても曲自体の評価までも見直させる輝きを帯びている。
なお第14番、第21番、第23番、第28番、第30番、第31番、第32番の7曲については再録音があり、そちらも名演なので合わせて薦めておきます。