大正13年7月6日生れの大木正夫上等飛行兵曹は、第五航空艦隊・第701海軍航空隊・攻撃105飛行隊所属で、昭和20年8月15日正午の玉音放送を聞いた後の夕方4時半過ぎに宇垣纏第五航空艦隊司令長官と共に11機23名で出撃し、大木上飛曹を含む8機17名が未帰還となった。所謂終戦最後の「宇垣特攻」だ。著者の祖母の父親の弟さんが大木正夫氏、当時21歳だった。艦爆彗星の1番機は中津留達雄大尉23歳と宇垣長官、そして遠藤秋章飛曹長22歳が無理に3名で搭乗した。2番機の偵察員が大木氏だった。彼らは特攻二階級特進は認められず、一般戦死者扱いで一階級進級だ。 斯様な運命の祖母の叔父の最期探しに、著者は当時を一から勉強する。生存戦友、遺族、防衛省、厚生労働省、米国立空軍博物館、米人の遺品提供者等々の関係先を軒並み尋ね歩く道程が書かれている。正直その行動には脱帽した。8月15日が何の日か知らず、米国との戦争も知らず、というような子が渋谷にたむろする現在だ。この著者の祖先を探すその熱意には本当に頭が下がる。沖縄の伊平屋島に2機が突入、その1機が後藤高男上飛曹と磯村堅少尉だろうと突き止める。そして大木正夫氏はその近くの海域に散ったと思われる。宇垣中将は参謀としては評価は高いが、指揮官としての能力には疑問符で、また最後の特攻には遺族始め批判は多い。小沢治三郎中将も「自決するなら一人でやれ、若者を巻き込むな」と激怒した。宇垣は特攻隊員に日頃から「後から必ず行く」と言い、また「武人として死に場所を与えろ」ということだろう。しかしやはり一人で自決すべきだったろう。一方で終戦を信じず、当時の純粋な精神構造があり、「雲の上の人」が出撃ならば多くの兵が同行熱望する当時の空気は想像できる。残念なことに時が経ち過ぎ生存者が少なく、大木氏の戦友の証言が多くは取れず、、また著者が本書であまりに私生活のことを描くことにやや違和感あり。