自分はかつてオウムにいたことがある。まだ半分しか読んでいないが、すでに多くのことを考えさせられた。レビューが長くなってしまうことをお断りしておく。
サリン事件が起きて、富士の上九一色村には多くの記者が集まっていた。不法侵入などの問題で、ほとんどが道場の敷地の入り口で取材をしていた中で、ただ一人教団内を歩き回っての取材を許されたのが著者の森氏だった。それが「A」という映画に結びついていった。自分は当時、教団内で肉体労働に従事していたが、森という名前は始めて聞いた名前だった。その人物がライフワークとして、オウムを追い続けている。一方、自分はその三年後にオウムを抜け出し、現在は会社員として普通に暮らしている。
脱会後、ずっと気になっていたのはあれだけの事件でありながら、まったくといっていいほど総括されていないということだ。その場で起きたことなどは明らかになっているが、今後の日本人の教訓になるようなことは何一つ残されていない。本文に書かれている通り、いろいろな事情はあるのだろう。しかし本質的な理由はおそらく一つだ。オウムや麻原に対して「自分たちとは違う、変な人たち」ということにしておきたい。それが潜在的な意識として働いているのだ。
しかし社会がそれを通すためには、様々な無理をしなければならない。それがオウムに関しては、どこもかしこも異例続きになる原因なのだ。森氏はそれを目撃していく過程で、日本という国が徐々に変容していることを実感する。一連のオウム事件が日本における9.11であり、中心人物の麻原彰晃がその特異点であることを。
だが、裁判に当たって麻原の発言はほとんどない。それは精神に異常をきたしている、またはそれを装っているからだとされている。本文でも多くの人が「もともと死刑なのだから、早く終わらせてしまえばいい。」と言っているくだりがある。自分はどのみち死刑を免れないのなら、生きている間、仮に詐病であっても治療してみることに意味があるのではないか、そして仮にうまくいったなら、裁判やそのほかの手段で本人の言動から、事件にいたる道程を探るべきだ思う。制度的に無理なのかもしれないが、このまま終わってしまえば、この人物はこの世に何の教訓も残さず、悪い前例と悪法を置き去りにしていくのみだ。
オウムは人類滅亡の予言で危機感をあおることで信者を増やした。本来は複雑であるはずの人生を功徳と悪業という善悪の二元論で、簡単に分類してしまった。そして悪人はポアしても問題ないと。
麻原が逮捕されたのち、社会は同様にオウムへの恐怖から簡単に人間を分類した。我々は正義である。あいつらは悪人だと。そして異例であったものが日常化されていった。
日本社会はあまりにオウムを憎んだゆえに影響を受け、その大きな似姿になろうとしているのではないか。この本は時代に対して警鐘を打ち鳴らしている。
最後に森氏がオウムをライフワークとして観察し続けてきたことは、日本人にとって幸運なことだと付け加えたい。戦後これほど風圧の強い問題はなかっただろうと思うが、それに負けることなく公正な立場で世に問い続けることは容易なことではないと想像する。