この本のオビに安部譲二が「ここまで闘うボクサーの内面を鋭く抉った本を俺は読んだことがない。」と書いているが、まさにその通りだと思う。 私も多くのボクシング関連の著述を読んでいるが、ボクサーを描いた多くの本とは似て非なるものを感じさせられた。
昭和40年代の最も日本のボクシングが盛んだった時代の大スターであり、世界チャンピオンの小林弘さんの半生を描いたノンフィクション。 小林弘さんは今も武蔵境の小林ボクシングジムの会長として健在だ。 私は3〜4年前に一度、後輩の誘いで小林ボクシングジムを訪れ、サンドバックを叩かせてもらったことがある。お会いした時の印象は、失礼ながら「気さくで明るいオジさん」というイメージであり、緊張感をもって訪れた私としては少々拍子抜けした記憶さえ残っている。
この時代のボクサーが月に何試合もこなした話しを聞いたことがあったが、まさしく9年間で75戦を闘った歴戦の名ボクサーだ。その試合の中には、当時レベルの高かった日本の名選手の多くが含まれており、最後の花道は石のこぶしロベルト・デュランとの試合で締めくくられている。
中でも沼田義明との世界タイトルマッチの様子は目に浮かぶように書かれている。その沼田義明と小林弘が、ボクシングに対する同種の卓越した技能を持ち、共に人間性に富んだ人物であり、同じように常軌を逸した会長の支配のもとに時代を生きてきた様が書かれている。多少ボクシングのことを知っている人間であれば、このあたりの記述には心を奪われると思う。
さらに著者の菅淳一氏の視線には興味深い点が多い。
例えば、石原慎太郎氏のボクシングに対する考え方に対して異を唱えるくだりは、この人のボクシング観をよく表している。
石原慎太郎氏は「ボクシングは様式ではなく意志だ。行為者としての勇気ある意志がすべてを決定する。我々がリングの上に求めるものは、技術でもなければ勝敗でもない、第一に、勇気がある雄々しい独りきりの人間の意志の見事さである」と書いていたことに対して、「ボクシングは様式である。その華麗な技術を見て、選手同士が駆け引きに興ずる妙味を堪能する様式美なのである。そこの楽しみは、表面ごとでは分からない。技術をつかみ取った選手の、陰の見えない努力に賞賛を送ることでもある。・・と著者の菅淳一氏は明確に言っている。
どちらの見識も正しいとか間違っているといったことではなく真摯で熱い。
この本のタイトル『1967クロスカウンター』は、小林弘さんが1967年メキシコで右クロスカウンターをマスターして喜びに心が満ちた時のことを形而している。