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最も参考になったカスタマーレビュー
9 人中、9人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 4.0
龍樹の解説としては白眉。でも……。,
By 自称仏教研究者 "ゴンちゃん" (滋賀県) - レビューをすべて見る
レビュー対象商品: 龍樹―あるように見えても「空」という (構築された仏教思想) (単行本)
巨人・龍樹についてのこれほど的確でわかりやすくかつコンパクトな解説書は他に類を見ません。初学者にとってはもちろんのこと、専門の研究者にとっても有益な事項が懇切に説明されています。著者の立場は明確です。龍樹は、ブッダと同じく一切知者であり、ブッダと同じく論理(ニヤーヤ)と法(ダルマ)とを友として善なるものを求めた「菩薩」です。龍樹の著作とされながらその真撰に疑義が呈されていた『方便心論』『廻諍論』『十二門論』『大智度論』『十住毘婆沙論』『菩提資糧論』も、著者はすべて龍樹の作だとします。あくまで明解なのです。つまり、膨大な阿含経典のすべてが仏説(ブッダのことば)とされるように、龍樹作と銘打たれた著作はすべて龍樹の手になるものとするのです。なにしろ龍樹は一切知者なのですから、あらゆる分野・テーマに関して自由自在に論じられるのです。その全体はあまりにも壮大で、見事に荘厳された大伽藍のように読む人を圧倒します。でも、そうなのかなあ。フェッターという人は、『中論頌』と『宝行王正論』の文体を不変化詞に限定して調査しました。不変化詞というのは、日本語で言えば、テニオハや副詞に相当することばで、その使用の癖・特徴は、理屈でなく習慣によって身に付いくものです。論理はいくらでも模倣できますが、こういう細かいことばの使い癖はなかなかまねできるものではなく、いわばその人の個性をもっともよく示しています。調査の結果、2つのテキストの不変化詞使用の癖はまったく異なることが判明しました。つまり、論理的には一貫性、整合性があっても、文章を書く癖はまったく異なっているのです。『廻諍論』には、『中論頌』からだいぶたってから用いられるようになった術語が用いられています。論理学書としての全体の構成も後の時代の特徴を示しています。『方便心論』にもおなじようなことが当てはまります。『中論頌』では反論者の見解が、『十二門論』ではそっくりそのまま著者の主張になっています。これって、同一人物がすることでしょうか、していいことでしょうか。『中論頌』では、縁起を含めて伝統的な教理を説くのは単数のブッダ(つまり釈尊)ですが、大乗の思想の唱道者・支援者は複数形のブッダです。唯一の例外が冒頭の礼拝の詩頌です(つまり、これは一種の主張命題です)。そして二四章の第十八偈で、龍樹は縁起が空性であり(ブッダが説いた)中道であるとして、空性=仏説を主張しているのです。『六十頌如理論』では、全く逆です。不生の縁起を説くのは単数形のブッダ(釈尊)です。伝統的な教理の説者は複数形のブッダです。『六十頌如理論』の著者は妙に自信に満ちています。しかも、無自性という意味での空の語は使われていません。空性の語もありません。『宝行王正論』では、伝統的教理も大乗の教えも、単数形のブッダが説き、それを複数形のブッダも説いたという形で、伝統的な仏教と大乗の教えが同じ仏説であることを、いじらしいほどに繰り返し主張しています。空の論理という点では一貫性はあるものの、この個性の違い、仏陀観の相違はなんなのでしょう。ここで著者名として挙げられる龍樹は個人名ではなく、一種の法人格の名称なのではないでしょうか。大乗経典が多くの無名のブッダたちによって説き出されたように、龍樹文献群が、多くの「龍樹」たちによって説き出されたと考えられるのではないでしょうか。 いずれにせよ、この本は、龍樹の1つのあり方、あるいは捉え方を明確に示しています。龍樹教学の基盤となるものです。もし、龍樹大好き、という方がおられたら、この本を読んだ後、個々の作品にご自身で直接当たってみて下さい。
6 人中、6人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0
入門書として最適,
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レビュー対象商品: 龍樹―あるように見えても「空」という (構築された仏教思想) (単行本)
多分、中論関連の本の中では一番分かりやすい。入門書として最適ではないだろうか。入門書として最適だった
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