黒部峡谷は、現在でも一年のうちの限られた期間に、限られた登山者しか入ることができない最後の秘境である。本書に関心を持たれる方は、黒部峡谷のいわゆる下の廊下に関心がある方、あるいは実際にそこを歩いたことがある方が多いと思うが、本書が網羅するのは、下の廊下だけでなく、南は双六谷から上の廊下、下の廊下を経て宇奈月温泉にまで至る。松次郎が歩いたこれらの流域には、今はダム湖に沈んでしまった場所や、ダムの影響で川底が上昇した結果、砂に埋もれてしまった場所もあるという。さらに、現在歩くことができる旧日電歩道や水平歩道の一部は、当時、既に開削が進められていた様子が描かれている。今となっては二度と見ることができない、かつての黒部峡谷を思い描きながら読むのも楽しいが、今も当時のまま残されている景観の描写を自らの記憶を重ね合わせながら読み進むのもまた楽しい。