原爆罹災者である重松・シゲ子夫婦と、「黒い雨」にうたれたその姪。作中に挿入される重松の手記を中心に、物語は展開する。手記は「あの」8月6日から、8月15日を最後に幕を閉じるのだが、原爆投下直後の描写は凄惨の一言に尽きる。
私は、広島出身でも無ければ、「戦争を知らずに僕らは育った」という歌詞で有名なフォークソング『戦争を知らない子供たち』すら知らずに育った世代の人間だ。原爆に触れたのは、小学校の時分に漫画の『はだしのゲン』を読んだり、修学旅行で平和記念資料館に行って嘔吐したのが主な経験であるに過ぎない。そんな私にも「ただの文章」でもって迫ってくるのは、井伏鱒二という作家の力であり、その力量にはただ脱帽するばかりだ。
原爆をテーマとした文学作品は多々あり「原爆文学」というジャンルすら確立しているが、本書は単に原爆をテーマとした作品であることに止まらない。本作品には、「いかにも悪者」と言った風情のステロタイプな旧日本軍人は登場しない。主人公が「いかにも」な反米、戦争反対のメッセージを叫んだりもしない。よく描写されているのは庶民の生活であり、つまるところ「人間」である。本書は安っぽい反戦プロパガンダのダシではない。
だからこそ、本書は「ただの」原爆文学に止まらない名作として読み継がれ、そして読み継がれて行くのだろう。人間の本質に迫る一級の文学作品として味わって欲しい。