『
街の灯 (本格ミステリ・マスターズ)』『
玻璃の天』に続く、花村英子とそのおかかえ運転手・ベッキーさんが主人公のミステリー・シリーズ第三弾。本書所収の3短編は、それぞれ昭和9年から11年にわたる3年の物語です。
最初の「不在の父」はある華族の男が失踪し、今はルンペンとして暮らしているらしいという不思議な物語です。それは事実なのか、そしてそれはなぜなのか…。
「獅子と地下鉄」が描くのは東京三越本店近くの和菓子店の少年が夜中に上野で補導されるという事件。少年はなぜひとりそんな行動をとったのか…。
「鷺と雪」は英子の学友が銀座で撮った写真に、台湾にいるはずの許嫁(いいなずけ)が写っていたという怪異談。ドッペルゲンガーは果たしているのか…。
こうした個々の短編は、日常に潜むささやかな、そして罪のない謎を扱った一話完結の物語です。しかし、北村薫がこのシリーズで真に描こうとするのは複数の短編を貫く、堅固で大きなストーリー・アーク(物語の弧)です。
昭和の初期、巨大な時代の力がうねり、人々を飲み込もうとしています。押しとどめようもない波濤(はとう)を前に、市井の人々は無力であるか、もしくは気がつかない。しかし一方で、この「鷺と雪」の登場人物である軍人たちのようにわずかですが、なんらかの挙に出ようと決意する者たちがいます。
「真実とされていることも、時には簡単に覆る」(96頁)その時代にあって、それでもベッキーさんは「わたくしは、人間の善き知恵を信じます」(242頁)と語ります。彼女の孤高ともいえる姿勢に、心洗われる思いがします。
北村薫はこのミステリー・シリーズで果たして昭和のどこまでを描くのか、そして物語の弧はどこまでつながるのか。楽しみであると同時に、昭和のたどった道を知る身にはつらく痛ましい物語が立ち現れてくるであろうことを感じて、心さびしい思いがするのもまた事実です。