わたしは、評伝作品においてその人物をどう描くか、言い換えればその人物をどう捉えるかは、書き手である作家の特権と考えている。そして、評伝の魅力は、著者がその人物をどう捉えたのかということと同等、あるいはそれ以上に、そこに至るプロセスにあると考えている。プロセスとは文献との格闘や取材過程のことである。
わたしが佐野眞一の評伝作品に魅力と説得力を感じている理由は、このプロセスが圧倒的だからだ。
評伝に限らず彼のノンフィクション作品は、対象とする人物や事件に対する客観的な目線を感じることができない(思い込みが激しいという言い方もできる)という批判があったりする。
事件・事故を題材としたノンフィクション作品に関しては、この批判は的を射ていると思う。その最たる作品が「東電OL殺人事件」だ。冷静さのかけらもないこの作品は読むに耐えない。
しかし、評伝作品の魅力を前述のように考えている自分のような読者にとって、プロセスが圧倒的で思い込みと決めつけが激しい佐野眞一の評伝は非常に魅力的だ。
著者がこの作品を評伝と位置づけているかどうかはわからない。単に「こんな人物に日本を託していいのか」ということを主張したかっただけなのかもしれない。
しかし、私は読了後、この作品は評伝的な要素を持った作品だと感じた。だから、鳩山一族の特異性を表面的になぞり、プロセスを省略したかのようなこの一冊に、佐野眞一作品が持つ魅力をまったく感じることができなかった。
そして、雑誌に発表した内容を“急いで追加取材を行い加筆して”出版する必然性があるのかという疑問が残った。佐野作品の魅力は“リアルタイム”とは違うところにあるのではないか。時期的なこともあり販売戦略上出版が急がれたのかもしれないが、もっと煮詰めてから彼が得意とする重厚長大な一冊として出版すべきだったように思う。