上海という街は不思議な空気をまとっている。歴史を簡単に覆すかのごとく急速な発展をたどりながら、租界の面影が色濃く残されている街並みには、ノスタルジックという一言では片付けられない何かが秘められている。過去と未来が同時に存在するその地にたたずむと、自分が一体どこから来てどこへ行くのか、足元が揺らぐような浮遊感にとらわれることになる。「魔都上海」たる所以に触れる瞬間だ。
本書で綴られた女スパイ・鄭蘋如(テン・ピンルー)は、抗日運動と和平工作が錯綜した日本軍占領下の上海に生き、日中混血の運命に引き裂かれるようにして26年の短い生涯を終えた実在の人物だ。抗日組織の弾圧を任務とする特務機関のキーパーソン丁黙邨(ディン・モートン)に近づくこと、そして彼の暗殺が鄭蘋如の使命だった。
2007年に公開されたアン・リー監督による映画『ラスト・コーション(色/戒)』(原作:アイリーン・チャン)では、鄭蘋如をモデルとして「丁黙邨暗殺未遂事件」がセンセーショナルに描かれ、大きな話題を呼んだ。鄭蘋如役の新人女優タン・ウェイ(役名:ワン・チアチー)の体当たりの生々しい演技、丁黙邨役のトニー・レオン(役名:イー)の緊張感に満ちた静謐な存在感、ふたりは互いに警戒しあいながらも、男女関係の深い沼にその身を投じることになる。フィクションの世界で描かれた鄭蘋如は、使命に従ってハニートラップを仕掛けたはずが、抗うことのできない孤独と情愛に溺れミッションを失敗に終えて処刑されている。
では、「魔都上海」に実在した鄭蘋如は何を考え、どのように生きていたのか?彼女のアイデンティティは何処にあったのか?事件の真相は誰が知っているのか?美貌のスパイという存在のインパクトと、彼女が引きおこした歴史に残る暗殺未遂事件は、映画『ラスト・コーション』を知らずとも十分に謎めいて迫ってくる。その答えを探し求める旅が、本書を手にしたときから始まることになる。
残された文献や資料から鄭蘋如の断片的な記録を丁寧に繋ぎあわせ、彼女の足跡をたどりつつ複数の視点から人物像を眺めようとする構成は、ノン・フィクションとは思えないスピード感で展開し、読む者にあたかも同時代に生きた一員のような錯覚さえ起こさせる。近づこうとすればするほど、腕の中をすり抜けるようにして身をかわす彼女に、実際に関わった多くの人が惑わされている。その中には、日本人では時の首相の近衛文麿の息子である文隆、映画プロデューサーの松崎啓次らの名も登場する。そして、どこまで行っても実像をつかむことのできない鄭蘋如に、著者自身も深く魅了された一人ではないだろうか。そういった意味で、本書は史実の一端を紐解く知的読み物であると同時に、手の届かないものを追い求めずにいられない普遍的な情緒に語りかけてくるものがある。あたかも日中混血の鄭蘋如と同じように、本書もまた二つのアイデンティティの狭間を行き来しているように思えてならない。